渡島丸(おしままる)は、日本国有鉄道青函航路の鉄道連絡船。車両渡船である。青函航路初の自動化車載客船津軽丸型建造終了後、その車両渡船版として同航路の近代化と貨車航送能力増強を目的に建造されたシリーズの第1船。同型船に日高丸(2代)、十勝丸(2代)、空知丸(2代)、檜山丸(2代)、石狩丸(3代)があり、これら6隻を渡島丸型と呼ぶが、後年、檜山丸(2代)、石狩丸(3代)の2隻が客載車両渡船に改造され、石狩丸型と呼称された。ここでは渡島丸および渡島丸型車両渡船、ならびに石狩丸型客載車両渡船について記述する。なお当時の国鉄は、青函連絡船が全船鉄道車両航送できる船であったため、その前提のもと、津軽丸型車載客船と石狩丸型客載車両渡船を「客貨船」、渡島丸型車両渡船を「貨物船」と分類呼称していたが、これはあくまで車両渡船の下位分類であるため、ここでは従来からの呼称を継続使用する。1954年(昭和29年)9月の洞爺丸台風で5隻の連絡船を失った青函航路であったが、1957年(昭和32年)10月の車載客船十和田丸(初代)就航を以て、船腹数回復を果たした。この翌年の1958年(昭和33年)度の貨物輸送量は、なべ底景気の影響もあり、439万トン と低迷したが、その後ほどなく岩戸景気と呼ばれた好景気に戻り、貨物輸送量の増加は著しく、1961年(昭和36年)度には521万トンに達していた。国鉄では、この増大する貨物需要への対応と、終戦前後に建造された船質の良くない戦時標準船ならびに、それに準じる船のうち、既に老朽化の進んでいた9隻 を淘汰するため、1964年(昭和39年)5月から1965年(昭和40年)8月までに、ワム換算48両と、従来の車両渡船よりも多くの車両を積載できたうえ、青森 - 函館間1日2.5往復と、従来船より0.5往復多く運航可能な高速車載客船津軽丸型6隻を順次就航させ、1965年(昭和40年)9月末までに老朽船9隻を引退させた。更に、1966年(昭和41年)11月には、追加建造の津軽丸型第7船十和田丸(2代目)を就航させ、津軽丸型に比べ低速で、客船としては余剰となってしまった車載客船十和田丸(初代)を石狩丸(2代目)と改称のうえ、車両渡船に改造して積載車両数を増やし、1967年(昭和42年)5月に再就航させた。この年度の貨物輸送量は695万トン に達していた。洞爺丸台風で沈没し、浮揚後車両甲板より上を新造するという大規模な修復工事を受け、復帰していた石炭焚き蒸気タービンの車両渡船 日高丸(初代)、十勝丸(初代)の2隻は、まだこの時期運航されていたが、既に船齢20年に近づいていた。このため、国鉄では、これらの代替と、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、津軽丸型同様1日2.5往復可能で、ワム換算55両積載可能な高速車両渡船2隻の建造を1967年(昭和42年)11月28日決定し、1968年(昭和43年)5月24日、函館ドックと三菱重工にその建造を発注した。しかし、増加し続ける貨物需要に対応するため、1968年(昭和43年)10月8日には、更に1隻の追加建造を決定し、1969年(昭和44年)5月15日、日立造船にその建造を発注した。これら3隻は、いずれも2代目渡島丸、日高丸、十勝丸と命名され、1969年(昭和44年)10月から翌1970年(昭和45年)6月にかけて順次就航した。これにより、最後の2隻となった蒸気タービン船も1970年(昭和45年)3月末までに退役した。当初は津軽丸型の客室部分を省略した車両渡船を計画していたが、青函航路では急増する貨物需要に対応しきれず、1966年(昭和41年)以降は下り貨物に輸送制限を加えるに事態に至り、国鉄本社の運輸部門からの積載車両数増加の強い要請を受けることとなった。このため、船内軌道を可能な限り伸ばすため、旅客扱いしない前提で、船の全長を伸ばすこととし、当時の岸壁有効長や青森港の狭隘な操船海面から許される最大限の長さ として、津軽丸型より12.6m長い全長144.6mとした。このため、旅客扱いできる青森第1岸壁では、係留に余裕なく、函館第1岸壁では、船首が第2岸壁まで突き出して第2岸壁での離着岸に支障をきたすため、青森側は第2岸壁、第3岸壁、函館側は第3岸壁、第4岸壁のある有川桟橋限定使用であった。津軽丸型では、多くの新しい機器類や制御システムがほとんどぶっつけ本番で導入され、第7船の十和田丸(2代)でようやく完成品の域に達したものも多かった。このため渡島丸型では、基本的にこれらの仕様は十和田丸(2代)に準拠していたが、ここに至る過程で実用にならなかったり、使用されなかったものは省略された。船体塗装色も十和田丸(2代)にならい、3隻とも外舷下部と煙突をオレンジ色(2.5YR6/13)、外舷上部を象牙色(2.5Y9/2)、煙突鉢巻を白(N-9.5)、後部煙突兼マストの下半分を銀色とした が、塗り分け線は中甲板レベルへ下げられていた。しかし、これではこの3隻を遠方から識別できないため、後部煙突兼マストの上半分を、渡島丸では黒(N-1.5)く塗装し、日高丸では後部煙突兼マストの上半分の更に上半分をオレンジ色(2.5YR6/13)に、上半分の下半分を黒(N-1.5)とし、十勝丸では上半分の上半分を銀色に、上半分の下半分を黒(N-1.5)としたが、1977年(昭和52年)に、日高丸が後部煙突兼マストの上半分を外舷上部と同じ象牙色(2.5Y9/2)に、十勝丸も同部を外舷下部と同じオレンジ色(2.5YR6/13)に改めた。貨物専用の有川桟橋や青森第3岸壁はいずれも港口に近く、うねり等の影響を受けやすい場所であった。青函連絡船では1955年(昭和30年)建造の檜山丸型以来、船体幅を拡大するため、岸壁係留位置において船体中心線は可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁から反対側に振られる形となっており、全長132mの津軽丸型では、左舷舷側は船尾から約52m付近(全長の40%)までしか岸壁に接触しておらず、それより前方の舷側は岸壁から若干離れた状態で係留されていた。渡島丸型ではこの接触範囲を船尾から86m付近(全長の60%)まで延ばして係留時の安定性向上を図った。このため船体幅は 津軽丸型より50cm増しの18.4mとなった。旅客設備がないため、操舵室の位置が後退し、船首までの距離が津軽丸型より10m程度伸びた。このため前方見透しの確保と、あわせて船首波の衝撃緩和もねらい、船首部喫水上での肋骨線を極力45度以上に立て、津軽丸型よりフレアの少ない船型とし、更に中甲板レベルにわずかなナックルラインを入れて船首船楼甲板幅を狭めた。船尾外板も、エプロン甲板下レベルに回り込む下段の防舷材も直接外板に取り付け可能なよう垂直面を下方まで下げ、その下にナックルラインを設けた。車両甲板は従来の車両渡船同様、船尾端は3線で、中線はすぐに分岐して車両甲板の大部分で4線となるよう軌道が敷設され、各線の有効長とワム換算車両積載数は、左舷から船1番線112m、14両、船2番線120m、15両、船3番線96m、12両、船4番線112m、14両の計55両となり、津軽丸型より7両増しとなった。船尾水密扉は津軽丸型や石狩丸(2代目)と同型の電動油圧式トルクヒンジ使用の鋼製上下2枚折戸であった。船尾開口面は垂直に対し約8度前傾しており、船尾扉閉鎖状態からの開放では、まず下部扉が船尾扉中央のヒンジが折れて180度外開きし、下部扉が上部扉の外側に折りたたまれて重なった状態となり、続いて船尾開口部上縁のヒンジがこの折りたたまれた扉を約82度外開きして、水平まで持ち上げ、船尾開口部上側中央部にせり出して設置されたポンプ操縦室下面にロックする構造であった。ヒーリング装置は、船内軌道何れの線においても、時速4kmでの車両積卸しで船体横傾斜が3度以内に納まるよう設計された。渡島丸型は津軽丸型に比べ、上部構造物は少なくなったものの、車両積載数は増加しており、同様に大容量のヒーリングタンクと強力なヒーリングポンプを備えることが必要であった。しかし、大き過ぎるヒーリングタンクは、損傷時の非対称浸水による横転を招きかねず、強力過ぎるヒーリングポンプは、タンク底内部に突出した肋骨による段差で水の流れが滞り、ポンプ吸入口への流れ込み量がポンプ吸引量に追い付けなくなって空気を吸ってしまい、残水量が増えて、結局タンク有効容量の減少を招くため、津軽丸型と同様、2組のヒーリング装置を装備することとした。ヒーリングタンク容量は、1組が故障しても、残った1組で貨車の積卸しに支障をきたさないよう、津軽丸型のものより大型化されたが、それでも対応できない場合に限り、前後のヒーリングタンク間に設けた手動の仕切り弁を開け、前後2つのタンクを一体化してヒーリング操作できるようにした。しかしその後の実験で、1組のヒーリング装置だけで十分対応できることが判明している。ヒーリングポンプ容量は1台当たり2,000m/h×7.5m(水頭)と津軽丸型の2,200m/h×7.5m(水頭) よりやや小さく、また十和田丸(2代)のような三相誘導電動機直接駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプではなく、宇高連絡船 伊予丸型で採用された可逆転式三相誘導電動機直接駆動の固定ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用され、コストダウンが図られた。更に津軽丸型にあった自動ヒーリング操作機能も省略された が、2組のヒーリング装置を一括して手動制御することはできた。また、2台のヒーリングポンプ、ならびに係船機械用の動力機械の各油圧ポンプの間に、同時起動を防止するインターロックを設け、過大電流の発生を防いでいた。津軽丸型同様、第1ヒーリング装置は第1補機室に、第2ヒーリング装置は第2補機室に設置され、第2ヒーリング装置は船尾トリミングタンクとも繋がり、船尾喫水調節も迅速に行えた。船楼甲板前部は船首係船作業場で、船首から甲板室前面までの距離が津軽丸型より10m程度長い約26mとなり、揚錨機と3台のウインチが設置されている。旅客扱いしないため、1955年(昭和30年)建造の青函航路初のディーゼル車両渡船 檜山丸型同様、甲板室は3層の小規模なものであったが、檜山丸型では就航時の乗組員数は79名であったのに対し、渡島丸ではその後の自動化の進展により40名に減少したため、普通船員室を4人部屋から2人部屋にしたが、それでも甲板室の前後方向約30mと檜山丸型より8mも小さくなり、前部煙突を載せた1層の前部消音器室とは1.2m程度隔てた別棟となった。このため、甲板室上部船楼甲板後端と前部消音器室頂部とのつなぐ幅1.5m程度の架橋が架けられていた。なお檜山丸型以来続いてきた上部船楼甲板室や無線通信室の角窓はコストダウンのため船長室以外は丸窓化されてしまった。操舵室は津軽丸型同様、船楼甲板の2層上の航海甲板最前部に、全幅にわたり、更に両翼を舷外へ約1mずつ張り出して設置された。その後ろに隣接して右舷に無線通信室、電池室、左舷に電気機器室が配置され、操舵室から無線通信室へ直接行き来できる扉が設置され、通信士は後ろ向きに業務する機器配置になっていた。1層下の上部船楼甲板には高級船員室、その下の船楼甲板には普通船員室と高級船員食堂、普通船員食堂、厨房が配置された。なお、船員居住区は車両渡船ではW型船以来、全て船楼甲板より上に配置されていた。前部消音器室前部左舷寄りに水密辷戸動力室が置かれたが、水密辷戸数が4ヵ所に減ったため1系統となりここだけとなった。船楼甲板右舷の前部消音器室横のボートダビットには定員6名の35馬力ディーゼルエンジン付FRP製救助艇1隻が懸架されていたほか、同所両舷には膨張式救命いかだが2隻ずつ格納され、対応する網梯子も両舷に格納されていた。前部消音器室から約20mの間隔をおいて1層の後部消音器室があり、屋上には後部煙突兼マストが載っていたほか、右舷には外注の主機械整備要員の居室である機関整備員室、左舷には貨車添乗員室が設けられた。船楼甲板船尾部は船尾係船作業場となっており、ウインチが2台設置されていた。船尾中央部には車両甲板船尾開口部上にせり出す形で、車両積卸しを目視しながらヒーリングポンプ操作ができる箱型のポンプ操縦室が設置され、その屋上は両翼舷外まで張り出した入渠甲板で、出入港時の船尾扉開放状態でも船尾監視ができるようになっていた。このように、船楼甲板は前部消音器室より船尾側には後部消音器室以外目立った構造物はなく平坦な構造で、当時の青函航路の逼迫した貨車航送事情を反映し、この広大なスペースに国鉄5トン積みコンテナを50個積載する計画があり、後部煙突兼マストに設置された機関部品積卸し用のデリックは、非使用時には左舷後方へ振られ、コンテナ積載の邪魔にならないよう配慮されたが、結局このコンテナ積載は実現しなかった。車両甲板より下は津軽丸型同様12枚の水密隔壁で13の区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈没しない構造となっていた。また船底だけでなく、発電機室、第1主機室、第2主機室、第2補機室の4区画については、両側面にも2対のヒーリングタンクと1対の清水タンクを置くことで二重化した。旅客設備がないため空調用冷凍機の搭載がなく、第1補機室はヒーリング装置だけとなったため、発電機室の水密区画内の船首側船艙部分にヒーリング装置を置いてここを第1補機室とし、津軽丸型では第1主機室水密区画中段(第二甲板)にあった総括制御室を発電機室水密区画内の船首側中段、第1補機室直上に配置した。このため、車両甲板上の船2、3番線間のプラットホームから直接、総括制御室へ階段で降りられるようになった。なお電子機器の多い総括制御室と航海甲板の電気機器室には冷房のため、それぞれパッケージエアコンが設置された。津軽丸型で第1補機室に当てられていた水密区画はボイドスペース(空タンク)となり、その前方2区画には津軽丸型では船員居住区や船員食堂があったが、渡島丸型では、これらは全て船楼甲板上に配置されたため、倉庫とボイドスペースにとなった。可変ピッチプロペラ管制装置のある第3補機室の後ろに隣接する水密区画は、津軽丸型では「その他の乗船者」室であったが、これを船楼甲板上の後部消音機室両側と厨房付近へ上げたため、ここは船底から車両甲板にまで達する大きな船尾トリミングタンクとなって、第3補機室が行き止まりとなったため、第3補機室右舷後方から車両甲板右舷へ上がる階段が設置された。船尾トリミングタンク後方に隣接する操舵機室へは、車両甲板両舷側の階段から出入する構造となった。水密隔壁の機関室中段の高さに設けられた水密辷戸は、発電機室から第3補機室までの間の4ヵ所に設けられ、津軽丸型の8ヵ所からは半減した。このため、津軽丸型同様、アキュムレーター(蓄圧器)を備えた電動油圧式の水密辷戸であったが、その動力室を船楼甲板前部消音器室前側に設置した1系統だけとなった操舵室内の配置は十和田丸(2代)に準じたもので、船体中心線上には操舵スタンドがあり、津軽丸型と同じく大型自動車のハンドルを舵輪として装着したジャイロパイロットが内蔵されており、このハンドルで手動操舵できたほか、船首方向を決めて自動操舵にすれば、横方向からの外力が働いても常に船首が指示方向を向くよう操舵される装置で、青函連絡船では津軽丸型から装備されていた。その左にはプロペラ制御盤があり、両舷の推進用可変ピッチプロペラの翼角を遠隔操縦する2本のプロペラ翼角操縦レバーと、その間の手前側にバウスラスターの翼角を遠隔操縦する回転式の小さなグリップハンドルがあり、そのハンドルの奥にはバウスラスターの実際の翼角を示す丸いメーターが、ハンドルの両側には両舷プロペラの実際の翼角(外周には指示した翼角)を示す丸いメーターが配置され、これらの更に手前には、非常用として設置されたノンホローアップ式(スイッチを倒した方向へ翼角が進み続け、目的の翼角でスイッチを中立に戻すと進みが停止する)の両舷の推進用プロペラとバウスラスターの翼角操縦スイッチや、これら常用・非常用の切換スイッチ等が横1列並びに配置されていた。プロペラ制御盤の奥の斜面部分には両舷主軸回転数計と、その間にバウスラスター駆動電動機電流計があり、この電流計の両側に、十和田丸(2代)ではデジタル表示の各舷の稼働主機台数表示器があったが、渡島丸からは個々の主機械の稼働状況を示す左右4個ずつの電光表示ランプとなったため、実際にどの主機械が稼働しているのかがわかるようになった。更に操舵室左舷端には補助操縦スタンドがあり、着岸時、船長が接岸する左舷側を目視しながら、直接バウスラスターや両舷プロペラの翼角制御ができるようになっていた。プロペラ制御盤の主レバーと左舷の補助レバーの間には切換えスイッチはなく、常に後から操作したレバーの指令に従う仕組みで、この方式は十和田丸(2代)から採用されていた。また八甲田丸以降建造の青函連絡船同様、推進用可変ピッチプロペラの翼角操縦レバーをいきなり大翼角まで進めても、主機械に過負荷のかからないように翼角を進め、過負荷がかかった場合は翼角を自動的に戻す機能もある“過負荷防止装置”が装備されていたが、本船からは、いきなり大翼角指令を出しても、船速ゼロでも過負荷にならない翼角16度までは3〜5秒で進み、以後はゆっくり進む“2段変速制御”も採用された。津軽丸型7隻では、操舵室内で、第2レーダー指示器と並んで設置されていた船位自動測定装置(SPレーダー)は既にこの時期使用されておらず、渡島丸型では設置されなかった。このためレーダーポスト兼用の前部マスト頂部には円筒形の“ラドーム”はなく、第1レーダー用の通常の反射型のスキャナーが設置され、中段の第2レーダー用にはスロット型が設置された。操舵室後壁には、津軽丸型同様、水密辷戸遠隔操作盤や火災警報表示盤非常操作盤、その他の警報表示盤等がはめ込まれていたが、ボイスアラームは省略された。船首船楼甲板の船首係船作業場には、投揚錨する揚錨機、着岸前、最初に岸壁のビットに繋いで船首を岸壁へ引き寄せるフォアラインを巻き込む左舷の主ウインチ、左舷が岸壁から離れないよう固定するブレストラインを巻き込む右舷の補助ウインチ、そして船体を後方へ引き寄せて、船尾を岸壁ポケットへ押し込むスプリングラインを巻き込むスプリングウインチが甲板室直前の船体中心線上に設置され、いずれのウインチ・揚錨機も、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから遠隔操作された。これらも、十和田丸(2代)に準じていたが、十和田丸(2代)では船首甲板が狭いため、スプリングウインチは1層下の左舷中甲板に設置されていた。なおこれらの係船機械は電動油圧式で、その動力となる油圧を造る動力機械は十和田丸(2代)同様、中甲板に設置された。船尾船楼甲板の船尾係船作業場には、後方の岸壁ビットにかけてこれを巻き込んで後進し、船尾を可動橋に押しつける左アフターラインを巻き込む左舷ウインチ、同じく左舷船尾から前方のビットにかけてアフターラインの張力に対抗してブレーキをかける船尾スプリングラインと右舷アフターラインを巻き込む2ドラムタイプの右舷船尾ウインチが設置されていた。この2台のウインチは船尾船楼甲板左舷の台の上に設置された操縦スタンドから遠隔操作された。これらの係船機械の油圧を造る動力機械も十和田丸(2代)同様、操舵機室に設置された。これら電動油圧式の係船機械は、国鉄連絡船では宇高連絡船 讃岐丸(初代)で初めて採用され、津軽丸型で改良されてきた東洋電機製造製の機械で、渡島丸型ではこれらのウインチのうち、自動係船運転機能と呼ばれるオートテンション機能を持つのは、車両積卸し作業で、船尾の喫水や傾斜に変化があっても、船尾を可動橋から離れないよう、適度に後方へ引き寄せ続ける左舷アフターライン用の船尾左舷ウインチと、船尾右舷ウインチの右舷アフターライン用のドラムの2ヵ所だけとなり、十和田丸(2代)で付加されていた船首スプリングウインチの自動係船運転機能は省略された。またこれら3隻では、船首側面外板の錨を収納する凹みであるアンカーリセスが廃止された。渡島丸型は津軽丸型に比べ、船体は大きくなったが、水槽実験等で出力増強の必要のないことが推定されたため、機関系は津軽丸型との互換性を考慮して、主機械には津軽丸型と同形式の4サイクル中速ディーゼルエンジン 川崎 MAN V8V 22/30mAL(定格出力1,600制動馬力、毎分750回転)を渡島丸と日高丸に、同じく三井 B&W 1226 MTBF-40V(定格出力1,600制動馬力、毎分600回転)を十勝丸に各8台搭載し、津軽丸型同様、片舷4台の主機械からの出力を、流体継手付1段減速装置で毎分217.5回転に落とし、片舷の主軸に伝達する、8機2軸のマルチプルエンジン方式を踏襲した。しかし、これら3隻では、将来の低質重油(B重油)使用を念頭に、1台のみ互換性を保持したまま、B重油使用対策改造を施していた。津軽丸型では、1968年(昭和43年)から軽油を燃料とした1年間(6,000時間)の主機械無開放運転試験を行い、問題がなかったため、1969年(昭和44年)からこれを全面実施し、更に1973年(昭和48年)からはこれを2年間(12,000時間)に延長し、渡島丸型もこれにならっていた。一方、鉄道技術研究所では、低質重油(B重油)使用による2年間の無開放運転の可能性についても検討されたが、適切な対策をとれば無開放1年までは可能であるが、それ以上の無開放運転には、それ相当の改造や付加工事も必要で、軽油専燃に比べ保守管理も面倒となる、との報告も出され、結局最後まで軽油が使用され続けた。バウスラスターは津軽丸型では、第6船までは、バウスラスタートンネル内でプロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6-STAY型の三菱横浜KMW SP800/6Sを装備した。第7船の十和田丸(2代)建造時には、片側3本のステーだけで支持するSP800/3Sが登場しており、これを第6船までと同じ位置に装備した。しかし、この3-STAY化により、バウスラスターの入った筒の長さは2.61mから1.75mへ短縮しており、船体幅のより狭い船首側への装備が可能となっていた。このため渡島丸型では、船型の違いもあったが、津軽丸型に比べ、船首側からの距離で約2m船首側へ装備できた。これにより、回頭中心から横推力作用点までの距離が伸びたたことと、上部構造物減少による風圧面積縮小により、船体の長大化にもかかわらず、バウスラスター出力は津軽丸型と同じ850馬力・推力9.3トンで問題ないことになった 。このため、バウスラスター駆動電源を供給する主軸駆動発電機も、津軽丸型と同じ900kVAのものが設置されたが、津軽丸型が就航しつつあった時点で、既にバウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、左舷よりも右舷主軸への負荷の方が大きいことが明確になっていた。このため、遅ればせながら、渡島丸型では津軽丸型とは逆に、負荷の軽い左舷主軸を、毎分1,200回転への増速遊星歯車を介して発電機室までのばし、常時直結で主軸駆動発電機が設置された。これにより3台の主発電機 は津軽丸型とは逆に右舷寄りに設置された。渡島丸はディーゼル船ではあるが、津軽丸型同様、暖房給湯、係船機械類の凍結防止その他雑用に用いる蒸気を供給する補助ボイラー(クレイトンWO-100型)2缶を第2補機室に設置していたが、容量は津軽丸型の半分程度であった。航海速力18.2ノットで、青森 - 函館間を3時間50分で運航でき、1日2.5往復可能なため、津軽丸型と平行ダイヤを組むことができた。第1船の渡島丸は、北海道の農産物出荷時期である秋冬繁忙期の、1969年(昭和44年)10月1日に就航、この日のダイヤ改正では26往復(最大28往復)が設定され、11月12日から24日まで、津軽丸型7隻と渡島丸の計8隻フル稼働20往復、檜山丸型2隻、石狩丸(2代目)、更に引退間際の蒸気タービン船十勝丸(初代)の4隻もフル稼働8往復して、青函航路初の28往復運航を行った。その後1972年(昭和47年)3月からは28往復(最大30往復)が設定され、同年秋冬繁忙期の10月6日から31日まで津軽丸型7隻と渡島丸型1隻の計8隻フル稼働20往復、渡島丸型2隻と檜山丸型2隻、石狩丸(2代目)の計5隻で10往復して、青函航路初の30往復運航が行われた。貨物輸送量は1971年(昭和46年)に855万トン に達したが、翌1972年(昭和47年)には、増便にもかかわらず808万トンとやや減少した。それでも上下とも貨物輸送制限はなお継続中であった。しかし1973年(昭和48年)秋には第1次オイルショックによる景気低迷もあり697万トンと大幅に減少していた。竣工から4ヵ月の新造船十勝丸は、1970年(昭和45年)10月26日、68便(4時間30分運航便)として20時45分函館第3岸壁を出港、21時50分頃総括制御室で監視業務中、第2主機室の火災表示と警報あり、直ちに現場へ急行。右舷4号主機械第5、6シリンダー付近より出火しており、最寄りの消火器で初期消火に努め、全主機械停止ならびに燃料・通風一斉停止したが火勢強く、第2主機室密閉のうえ、同室の泡消火器を発動し、更に車両甲板スプリンクラー放水で冷却。23時00分消火確認後徐々に密閉を解除して室温を下げ、焼損状況調査にて自力航行可能と判明したため、大間灯台より313度 3.5海里より第1主機室の主機械4台にて運航し、27日1時41分函館第4岸壁に着岸した。漂流は3時間に及んだ。原因は右舷4号主機械L列第5シリンダーの燃料弁冷却油入口管折損部から冷却油(軽油)が霧状に噴出し、高温の排気管等に触れて炎上したもので、当該管は本来継目無鋼管を用いるべきところ、溶接部に未溶着部分のある粗悪な電縫鋼管が用いられ、エンジンの振動がこの管の不良個所に応力集中して折損したと推定された。十勝丸は応急修理の後、10月27日20時45分発の68便より復帰し、11月4日より本格修理のため函館ドックへ入場した。渡島丸型の機関室には、津軽丸型同様、油ビルジへの引火を考慮して、発電機室、第1主機室、第2主機室、第2補機室の4区画に、操舵室から遠隔操作できる固定式泡消火装置が設置され、炭酸ガスを多く含む泡を噴射して窒息消火するはずであった。しかし、この泡は船底からせいぜい10数センチ程度しか覆うことができず、この事故のような主機械頂部から出火には無力であった。また当時、これに類似する機関室火災も発生しており、国鉄ではその対策として、密閉された機関室内の空気中の酸素を急速に排除して窒息消火し、かつ液化炭酸ガス気化時の断熱冷却による消火効果もあって、消火時間の短い固定式炭酸ガス消火装置をこれら4区画に追加装備した。しかし、青函連絡船では、その後も大事には至らない機関室発煙トラブルは続き、また1973年(昭和48年)5月19日には四国中央フェリーボートのカーフェリー「せとうち」(950.59総トン)で、機関室で噴出した潤滑油が排気管に接触して発火炎上し、初期消火不可能な状態で、直ちに機関室密閉すべきところその時期を逸し、火災が船全体に拡大し沈没に至るという事件が発生、機関室火災の恐ろしさを印象付けた。十勝丸の火災事故では、イオン式火災感知器の警報で直ちに現場に駆け付けたが、初期消火不可能な状態であった。機関室内へはエンジン運転のため新鮮空気が大量に送り込まれているため気流状態は複雑で、煙がうまくイオン式火災感知器の方へ流れて行かないこともある。このため、主機械および主発電機周辺の異常事態を早期に適確に検知するため、半導体素子を用いた発火する前の可燃性ガスを検知する“可燃性ガス警報装置”を開発し、その検知部を主機械、主発電機の頂部に近接して設置した。本装置は1978年(昭和53年)度、青函、宇高の全連絡船に取り付けられた。洞爺丸事件後建造された車両渡船空知丸(初代)、檜山丸(初代)、石狩丸(2代目)の3隻も、1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックの頃には、船齢20年に近づきつつあった。一方、青函トンネルは1971年(昭和46年)11月に本坑の掘削が着工されており、開通見込みは、その当時1978年(昭和53年)度とされていた。トンネル開通後の青函連絡船の存廃は未定であったが、いずれにせよ、それまでは、青函連絡船として客貨輸送を全うしなければならず、これら3隻を時期不確実なトンネル開通時まで運航し続けることは非現実的であった。そして当時の関係者の多くは、1971年(昭和46年)以降の貨物輸送量減少は一時的なもので、輸送需要回復時には速やかにこれに対応できる体制を整えておくべき、と考え、渡島丸型全6隻就航の暁には、函館第2岸壁にも渡島丸型を発着させ、上り3本、下り4本の3時間45分運航便、函館3回、青森10回の50分折り返しを含む、12隻30往復、1隻2往復の計32往復運航実現に向けた検討に入っていた。1974年(昭和49年)5月21日に空知丸(初代)、檜山丸(初代)、石狩丸(2代目)の3隻の代替船建造が運輸大臣に申請され、1974年(昭和49年)7月31日に函館ドックへ、1974年(昭和49年)8月30日に三菱重工へ、そして1975年(昭和50年)8月26日に日立造船へ、各代替船の建造が発注された。渡島丸型第4船から第6船までの3隻は、1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)にかけて、旧船と同名の新造船として建造された。約6年の空白期間をおいての建造で、アンカーリセスを復活させ、船楼甲板の甲板室外板に溝形プレスを施した薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を多用し、外舷下部色を赤(5R4/14)、外舷上部と甲板室をうすい桜色(2.5RP9/1)とし、煙突を石狩丸(2代目)の外舷色と同じ藍色(2.5PB2.5/7)、後部煙突兼マストの下半分を外舷上部と同じうすい桜色(2.5RP9/1)とする等の変化はあったが、外観上前3隻と大きな相違はなかった。3隻識別のため、後部煙突兼マストの上半分を、空知丸では黒(N-1.5)、檜山丸では下半分と同じうすい桜色(2.5RP9/1)、石狩丸では外舷下部と同じ赤(5R4/14)とした。最大の相違点は搭載した主機械とその周辺機器で、前3隻の主機械はいずれも国産ながら外国メーカーライセンス品であったが、既に三井造船では当該機種の製造は終了しており、川崎重工の当該機種も少数製造となっていたため、第4船の空知丸(2代目)以降の主機械には、1974年(昭和49年)建造の宇高連絡船 讃岐丸(2代目)ほか、既に多くの中型フェリーで実績のあったダイハツディーゼル製の6DSM-26を大型化した、立型単動トランクピストン過給機付ディーゼル機関 ダイハツ6DSM-32(シリンダー口径32cm、行程38cm、定格出力1,600馬力、毎分600回転)が、従来同様 8台のマルチプルエンジンで搭載された。津軽丸型建造当時は、ディーゼルエンジンの出力を減速歯車に伝達する場合、歯車に対するディーゼルエンジンの変動トルクの影響を吸収する目的で流体継手が用いられ、更に流体継手では作動油を出し入れすることでクラッチ機能も持たせることもできたため、津軽丸型から、渡島丸型第3船の十勝丸まではこのクラッチ機能を持った流体継手を採用していた。しかし1960年代後半(昭和40年代前半)になると、変動トルクを吸収できるゴムや金属バネを用いた高弾性継手の登場や、焼結合金技術の進歩による湿式油圧多板クラッチの信頼性向上もあり、以後建造の多くのフェリーや一般商船で、これらが採用されるようになっていた。この湿式油圧多板クラッチは流体継手に比べ、必要とするクラッチ嵌脱用補機も小さく、流体継手にある約2%の伝達損失もない等の利点があり、国鉄では1974年(昭和49年)建造の宇高連絡船 讃岐丸(2代目)で、高弾性継手と湿式油圧多板クラッチを使用したマルチプルエンジンシステムを採用し、渡島丸型第4船空知丸以降でもこの方式の採用となった。上記の十勝丸火災事故の教訓から、渡島丸型前3隻には、既に固定式炭酸ガス消火装置が同区画に追加装備されており、空知丸以降の3隻では、固定式炭酸ガス消火装置のみ同区画に装備し、炭酸ガスボンベは発電機室水密区画の船首側に隣接したボイドスペース内に設置し、この区画をCO消火装置室と称した。また、機関部を中心とした、遠隔制御・自動制御の分野では、かつては、真空管やトランジスタが多用されていたが、これら3隻建造時は、既にLSI(大規模集積回路)の時代になっていた。晩年には燃料節減のためエンジン4台ないし5台での運航が行なわれていたが、空知丸、檜山丸、石狩丸の3隻は津軽丸型および渡島丸型の前3船より燃費が良かった。衝突予防装置(レーダー情報処理装置)CAS101(Collision Avoidance System-通称「キャス」)が装備されたのも、この2代目空知丸からであった。この装置は、レーダー(通常は第1レーダー)および自船の針路、対水速力情報をもとに、手動で選択した周辺の20隻までの船の針路と速力を計算し、各船の針路、速力および自船との衝突危険範囲をレーダー画面上にベクトル表示し、危険範囲にターゲットが入る場合にはアラームを鳴らすこともできる装置であった。CASの導入により、航海当直の負荷が大幅に軽減され、横切り船の避航などに幅広く活用された。なお、このレーダー情報処理装置は1979年(昭和54年)3月までに、当時係船されていた渡島丸を除く、運航中の全船に順次装備された。レーダースキャナーは第1レーダー、第2レーダーとも新造時よりスロット型となっていた。また、ジャイロパイロットの舵輪が従来よりやや小ぶりなハンドルとなり、ジャイロパイロット本体に外付けされていたジャイロコンパスの拡大指示器も小さな直線型となり、本体上に張り付いた形になった。1977年(昭和52年)3月7日、初めての国営青函連絡船として、比羅夫丸が就航した1908年(明治41年)3月7日から70年目ということで、当時就航中の13隻の連絡船のシンボルマークが作成され、津軽丸型車載客船では、船体に順次取り付けられたが、車両渡船であった渡島丸型各船では、船体への取り付けはなく、一般の人の目に触れることはなかった。しかし1982年(昭和57年)の石狩丸と檜山丸の客載車両渡船改造時に、この2隻では、両側外舷上部と新設甲板室屋上の遊歩甲板(航海甲板相当)前方中央の階段室後壁に取り付けられた。渡島丸型車両渡船の前3隻が青函航路の増大する貨物輸送需要に追いつくための建造なら、後3隻は貨物輸送量の更なる増大を予想しての建造で、最終の石狩丸が1977年(昭和52年)5月に就航し、下り片道輸送力は488万トンにまで増強された。しかし青函航路の貨物輸送量は1971年(昭和46年)の往復855万トンをピークとし、1973年(昭和48年)の第1次オイルショック以降は坂道を転がり落ちるように激減し、1977年 (昭和52年)には502万トンと1960年 (昭和35年)のレベルまで落ち込んでしまい、その後も減少傾向が続いた。このため、渡島丸型では最古参の渡島丸を 1978年 (昭和53年)10月1日限りで函館ドックに係船した。まだ船齢9年という新しさであった。国鉄では、何度か売却を試みたものの不調に終わり、ようやく1984年(昭和59年)8月22日住友商事に売却され、その後、摩周丸(2代)火災事故の検証のため船室の燃焼試験が行われた後、1985年(昭和60年)函館どつくで解体された。更に、2番目に古い日高丸も1980年 (昭和55年)10月1日限りで函館ドックに一旦係船された。一方青函トンネル掘削工事も難航し1976年 (昭和51年)5月6日の出水事故 もあり、開通予定は大幅遅延し、1980年 (昭和55年)1月の運輸大臣談話では、実際の開業時期は1984年(昭和59年)度とのことであった。この状況下で、津軽丸型も1982年 (昭和57年)には、初期の船は一応の耐用年数の18年に達することとなった。これは国鉄の財産管理上の基準年数で、必ずしも物理的なものではなく、実際過去にも20年以上稼働した船はあるが、老朽化とともに維持費も増大するため、津軽丸型のうち、係船機械やヒーリングポンプ、可変ピッチプロペラ等が他船と異なった 津軽丸と松前丸を引退させ、残る5隻については、1981年 (昭和56年)から各船順次延命工事を施行して継続使用することとした。旅客輸送量も1973年(昭和48年)の499万人をピークに以後激減し、1981年(昭和56年)には248万人まで半減していた。しかし利用客の集中する深夜便は、多客時には津軽丸型1隻では運びきれず、従来通り続行便設定が必要で、旅客扱いできる船は従来通りの7隻必要であった。このため渡島丸型の中でも最も新しい、石狩丸と檜山丸に、津軽丸型の半分程度の650名の旅客と20台の乗用車を積載できる2層の甲板室を造設して、客載車両渡船に改造することが決定された。石狩丸は1982年(昭和57年)1月6日、客載設備造設工事のため函館ドックへ入場し、3月17日には竣工し、3月31日に再就航した。この工事中の1982年(昭和57年)3月4日限りで津軽丸は引退し、同日付けで、係船中の日高丸が約1年半ぶりに復帰した。檜山丸は1982年(昭和57年)7月5日、同じく函館ドックへ入場し、9月22日竣工し、10月1日に再就航した。そして松前丸は11月12日ひっそりと引退して行った。渡島丸型ではもともと、船楼甲板後部消音器室前後に広大なスペースがあり、国鉄5トン積みコンテナを50個積載する計画があったため、この重量(コンテナ重量も含め約300トン)に構造的にも浮力的にも耐えられるよう設計されていた。しかしこの想定重量では通常は定員500名程度が限度とされていたが、船楼甲板上に前部煙突直下から船尾係船作業場直前に至る、総2階建甲板室を、薄鋼板を多用することで、その重量を約240トンに抑え、旅客定員650名と乗用車20台の積載を達成できた。しかしグリーン船室や旅客用食堂のないモノクラスの簡素な造りであった。なお、この甲板室造設による重量増加に伴い、損傷時の安全確保のため船尾タンクとその前隣の船尾トリミングタンクの間の隔壁を3.5m船首側へ移動して船尾トリミングタンクを縮小した。新設の甲板室の1階に相当する船楼甲板部分は、その大部分が周囲を遮蔽された乗用車格納所区画に充てられた。後部煙突兼マスト下の後部消音器室囲壁両側に付設されていた機関整備員室と貨車添乗員室を撤去し、後部消音器室囲壁側面にも駐車スペースを作り、囲壁前方でも乗用車の両舷間通り抜け可能とし、両舷にはエアモーター駆動の横滑り式風雨密開閉扉を備えた舷門が設置され、乗用車がスムーズに乗降できる構造とした。乗用車積載数は公式には20台であったが、両船の改造時の一般配置図には21台分のスペースが描かれており、後年は22台まで積載された。天井には火災感知装置が設置され、スプリンクラーも装備されたほか、この区画の前後壁には工業用テレビカメラが設置され、2階(上部船楼甲板)の案内所で乗用車格納所内を常時モニターできた。乗用車格納所区画の船首側に隣接する区画には、右舷に定員40名のカーペット敷き雑居室が2部屋、左舷と船首側には機関整備員室、船員食堂厨房従業員居室、売店従業員居室、警乗員室が配置された。なおこれらのうち船員食堂厨房従業員は、改造前は従来からの甲板室の船楼甲板の船室を使用しており、空いたそれらの船室は、旅客扱いで増員された事務部員居室に充てられた。また左舷側にはトイレ、洗面所、シャワー室も設置され、この区画の中央部には2階の出入口広間へ上がる階段が設置されていた。左舷舷側は回廊状になり、ここに船員用乗船口が設けられたが、この位置は津軽丸型普通乗船口の船首側乗船口の位置であった。新設甲板室の2階相当の上部船楼甲板は、左舷側だけ、それも2階部分だけが4mほど船首側に突出しており、そこに乗船口が設けられた。これは、この型の船は普通船室だけのモノクラス制であったが、客室の大部分が津軽丸型ではグリーン船室のあった遊歩甲板の高さに相当する上部船楼甲板に配置されたため、乗船口を津軽丸型のグリーン乗船口の位置に合わせて、桟橋タラップを共用するためであった。なおこの突出部分の先は新設の前部消音器室2階部分に連続していた。この新設甲板室2階の上部船楼甲板は、この突出部分の乗船口も含め、前部、中央部、後部の3つの防火区画に分かれており、乗船口から出入口広間後壁までが前部区画であった。乗船口から入り、右折して船尾側へ進むと出入口広間で、その船首側には案内所が、左舷船尾側には売店が配置され、売店前左舷側は椅子とテーブルを備えたロビーで、右舷側には定員30名のカーペット敷き雑居室が2部屋あり、うち船首側の部屋は婦人席となっていた。出入口広間から船尾側へ進むと、中央部区画で、この区画の中央部を前後方向に幅約5.3mの後部消音器室囲壁が占拠するため、この区画は右舷の雑居席と左舷の椅子席に分けられた。右舷雑居席は手荷物棚で仕切られたカーペット敷き雑居席が4区画、定員144名であった。津軽丸型の前部右舷雑居席に似ていたが、消音器室囲壁の幅が広いため通路の窓側にのみ雑居席が設けられた。左舷椅子席も津軽丸型前部左舷椅子席に似ていたが、消音器室囲壁幅のほか、乗船口から後部区画への広い通路を確保しなければならなかったため、消音器室囲壁側面では2人掛けシート横2列の椅子配置となり、窓側19脚、内側17脚の72名分となり、このほかに消音器室囲壁前方の中央部に2人掛けシート横3列で前後4脚ずつ24名の計96名分の椅子席が設置された。左舷側の窓割りも津軽丸型に準じ、シートピッチに合わせた小窓19個となった。この当時新製中の在来線特急車両の普通席はリクライニングシートであったため、これらの椅子席も方向転換機能を省いた同等品が採用され、青函連絡船初の普通席リクライニングシートとなった。更に船尾側へ進むと後部区画で、定員270名のカーペット敷き雑居席の大広間になっており、通路で左舷、中央、右舷の3区画に仕切られ、それぞれが低い手荷物棚で更に3区画ずつに不完全に仕切られた形は、津軽丸型の1980年(昭和55年)の後部椅子席撤去改装後の後部普通座席と似た造りであった。更のその後ろにトイレ、洗面所、シャワー室が設置されていた。上部遊歩甲板中央部区画の後端両側と前端中央部には、それぞれ新設甲板室の屋上へ出る階段があり、この屋上遊歩スペースは操舵室のある航海甲板と同層であったが、つながっていなかったこともあり、遊歩甲板と称した。この、前部煙突の直後から、船尾係船作業場直前に至る、広大な遊歩スペースは、一般旅客に開放された一平面ものとしては青函連絡船最大の広さであった。新設甲板室のすぐ前の前部煙突は、それが載っている前部消音器室の高さを1層から2層にかさ上げして新設甲板室2階とつなぎ、その上に前部煙突を持ち上げたが、それでも津軽丸型の前部煙突設置位置に比べれば1層低く、前部煙突のすぐ後ろに位置するこの遊歩スペースへの排煙の影響が懸念されたため、前部煙突上部前面に通風用の穴があけられた。なお、この新設の前部消音器室2階部分前側には、従来は旅客扱いしない車両渡船のため設置されていなかった100馬力ディーゼルエンジン駆動の自動起動・自動停止の70kVA非常用発電機が津軽丸型同様設置され、後ろ側には第1空気調整室が設置された。後部煙突兼マストも同様に1層分程度持ち上げられたが、遊歩甲板上に1層の後部消音器室を設けたため、見かけ上1層分短くなった。この遊歩甲板の後部消音器室前側には第2空気調整室が設置され、その下の上部船楼甲板の後部消音器室後ろ側には第3空気調整室が設置された。なお、後部煙突兼マストに設置されていた機関部品積卸し用デリックは、その使用頻度が低いため、甲板室造設時に廃止された。横揺れ防止のフィンスタビライザーも装備された。この前年、十和田丸(2代)に装備されたものと同型で、後方折込式格納型のスペリー・3Rで、翼長3.97m翼幅1.8mと十和田丸のものより30cmほど長いフィンをCO消火装置室両舷船底彎曲部に装備し、荒天時には威力を発揮した。なお、スタビライザーの電源には十和田丸(2代)同様主軸駆動発電機が用いられた。車両渡船時代は、車両甲板下の総括制御室と航海甲板操舵室後ろ隣の電気機器室の2ヵ所のみ、電子機器保護目的でパッケージエアコンが装備され冷房完備であったが、その他の船室には冷房はなかった。しかし青函連絡船では、1966年(昭和41年)10月に冷房設備のなかった十和田丸(初代)が引退したことで、車載客船全てが冷房完備の津軽丸型となり、客室冷房は当然の流れとなっていた。このため、CO消火装置室に30kWの電動式水冷却ユニット2台を設置し、ここから上記3ヵ所の空気調整室の冷却コイルへ冷却水を送って冷風を作り、ダクトで客室内へ送風するセントラル冷房方式の冷房装置を設置した。なお、暖房時はボイラーから各空気調整室の加熱コイルへ蒸気を送って温風をダクトで送風するほか、客室内ラジエーターへの蒸気供給による暖房も併用した。従来は定員6名のFRP製救助艇1隻が右舷船楼甲板前部消音器室横のボートダビットに懸架されていたが、救命艇としては25名乗り膨張式救命いかだ4隻が搭載されていた。旅客扱いがなかったため、乗船者は全員元気で船楼甲板から海面へ投下されたボートへは網梯子を使用して降下することになっていた。客載車両渡船化に伴い、多数の一般客を乗せることになり、海面への旅客用降下装置の追加装備が必要となった。このため、津軽丸型に装備されていたすべり台式類似の10.5m膨張式シューター 1基が救助艇とは逆の左舷船楼甲板前部消音器室横に装備され、更に13mスパイラル式降下装置が遊歩甲板左舷後部階段出口前側舷側と前部階段出口近くの右舷舷側に計2基が装備された。これは遊歩甲板から海面上にナイロン製の筒を垂らし、その中をらせん状に降下して下端に浮かんだプラットホームに降りる構造で、膨張式救命いかだは25名乗り33隻に増強された。最大搭載人員増加に伴い、汚物処理装置2セットが搭載された。船楼甲板の客室、その他の乗船者室(機関整備員室や船員食堂厨房従業員居室等)隣接のトイレ、および従来からの甲板室の船員用トイレからの汚物処理装置がCO消火装置室の一つ船首側の水密区画の第二甲板船首倉庫に、上部船楼甲板後部のトイレからの汚物処理装置が第3補機室中段に搭載された。これらは自動粉砕排出式、カッター付汚物ポンプ120リットル/分を各2台備え、貯蔵タンク容量は前部が2.2 m、後部が3.2 mであった。両船とも、船体塗色に変化はなく、後部煙突兼マスト上半分の識別塗色も、石狩丸が赤(5R4/14)、檜山丸がうすい桜色(2.5RP9/1)のままであった。このほか、識別のため、遊歩甲板への両舷の階段出口の形が、側面から見て、石狩丸では長方形であったのに対し、檜山丸では船首側が斜面になった台形であった。なお国鉄では、この2隻を「石狩丸型」称したが、かつて1946年(昭和21年)建造の石狩丸(初代)を筆頭とするH型船3隻も「石狩丸型」と呼称したことがあったので注意を要する。また、石狩丸(3代)の客載車両渡船改造就航後、津軽丸型の車載客船に比べ、ドライブプロペラ(出港前の主軸回転開始指令)後の客室の騒音振動の大きいことが判明したため、続く檜山丸(2代)の改造工事では、補強用の鋼材を組んだ上に甲板室を載せ、客室床下に10ミリの弾力ゴムを敷く対策がなされた。自動車航送のため、従来は“出入禁止”であった青森第1岸壁、函館第2岸壁を使用することになった。しかし、津軽丸型では乗用車を遊歩甲板に積載していたのに対し、石狩丸型では、それより1層低い船楼甲板への積載のため、両岸壁とも既設の乗用車乗降設備が使えず、青森第1岸壁では斜路を、函館第2岸壁ではエレベーターを石狩丸型用に新設したほか、函館第2岸壁は沖側へ17m延長して165mとした。運用は全便で自動車航送できるよう、専ら青森第1岸壁と函館第2岸壁を使用する甲便に限定され、この2隻で1日5往復し鉄道車両航送と乗用車航送を行い、定期の旅客扱いは、深夜の続行便の先発便(11便、12便 1982年(昭和57年)11月15日のダイヤ改正以降は101便、102便)のみであったが、多客期はその他の便でも旅客扱いを行った。なお乗用車航送便でかつ旅客扱い便に限り、鉄道車両積載数はワム換算50両に制限されていた。“国鉄改革”の一環としての1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正では貨物列車の大幅削減が断行され、青函連絡船も最大19往復となり、同日有川桟橋も廃止された。この前日の1月31日まで運航された日高丸と十勝丸は、共に有川桟橋に係船され、1987年(昭和62年)2月4日にセブン商事 と日商岩井に売却され 解体された。空知丸はその後、唯一の車両渡船として、最も岸壁長の短い函館第1岸壁にも発着しながら、1988年(昭和63年)3月13日の青函航路最終日まで運航され、2時10分函館第2岸壁着の53便にて終航となり、その後函館第4岸壁に係船された。石狩丸は下り最終の八甲田丸7便の25分前を行く臨時8011便として20時30分函館第2岸壁着で終航し、その後函館第2岸壁に係船された。檜山丸は上り最終の羊蹄丸22便の25分前を行く臨時8010便として20時30分青森第1岸壁着で終航後、21時25分発5003便で函館へ回航され、その後函館第3岸壁に係船された。これら3隻はその後売却された。空知丸、檜山丸、石狩丸の3隻は最終的には、いずれも日本国外へ売却された。1988年(昭和63年)8月に小松耀に売却され、神奈川県の産業廃棄物業者・三友プラントサービスが川崎―苫小牧間のコンテナ輸送や、海上での廃棄物処理をする等の計画も取りざたされた。しかしその後、1990年(平成2年)8月にギリシャの船会社「POSEIDON LINES Shipping」に売却され、客室を装備しカーフェリーに改造され、「SEA SERENADE」と改称した。黒海航路で使用された後地中海航路などで使用され、その後2004年(平成16年)に韓国の船会社に売却された。2006年(平成18年)にギリシャの船会社に売却され、「MARINOS D」に改称。2004年(平成16年)よりスロベニア・イゾラ港に長く係船されていたが、2011年(平成23年)末にトルコの会社に売却され、2012年(平成24年)1月初旬にイスタンブール近郊のドックに移動し、その後、2012年(平成24年)7月に解体された。1988年(昭和63年)8月、財団法人少年の船協会へ2億8千万円で売却され、和歌山県の三井造船由良工場で旅客用浴室、旅客用食堂設置など船内を改造、エンジンも重油使用に改造の上、1989年(平成元年)3月に青少年研修船「21世紀号」として再就航した(初便は東京晴海-釜山)が、その後予想以上に運航経費がかさみ1992年(平成4年)係船された。1999年(平成11年)4月に韓国企業が6千万円で購入し、釜山-馬山間でフェリーとして運航する予定だったが、2000年(平成12年)には、シンガポールのPrima Bridge Island Pte.の保有船となりカーフェリー「RISING STAR III」となった。更にインドネシアのフェリー運航会社PT Prima Vistaに売却され、「Mandiri Nusantara」に改称されたが2009年(平成21年)5月31日、スラバヤのタンジュン・ペラ港から東カリマンタンのバリクパパンへの航海の途中、カラミアン島沖で車両甲板にあった車両から出火し、炎上ののち船体は全焼した。この事故では、350人の乗客・船員は救助されたものの、15人が行方不明となった。1988年(昭和63年)7月から9月にかけて北海道 広尾町で開催された十勝海洋博覧会で十勝港第3埠頭で展示公開され、夜間はシップホテルとしても使用された。同年10月に、大阪の酒本商事に売却され、関西国際空港の工事用ホテルシップとして使用予定だったが、実現せず、使用されないまま香港の会社に売却された。更に、キプロスの船会社に売却されて「LADY TERRY」と改称。更に1990年(平成2年)にはギリシャの船会社「POSEIDON LINES Shipping」に売却され、「LASITHI」と改名するとともにカーフェリーに改造され使用された後、1992年(平成4年)には「SEA HARMONY II」と改称され地中海航路で使用され、更に2001年(平成13年)には「OLYMNPIA I」に改称されている。2002年(平成14年)に航路休止した後は、ヨーロッパやアフリカの船会社にチャーターされ、地中海・紅海などで使用されたが、2006年(平成18年)6月にインドで解体された。
出典:wikipedia
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