自然に訴える論証(しぜんにうったえるろんしょう)とは、論点のすり替えの一種である。何かが自然だから良い/正しい、あるいは何かが不自然だから悪い/間違っていると結論する。自然への訴えの一般的な形は次の通り:また単に好ましいか好ましくないかが問題であるとき:この種の主張には誤りがいくつか存在する。主なものを3点紹介する。この誤りは食品のラベル、広告、代替食事療法で見られる。食品ラベルには製品が安全であると主張するためにしばしば「オールナチュラル」というフレーズが用いられる。野生のハーブや植物が常に安全であると言う考えは、自然で見つかる多くの植物毒(ドクニンジン、なす科の植物、毒キノコ)や、ハーブが持つ可能性がある副作用を無視する。製品がすべて「自然」かどうかはその安全性や効果を判断する際には無関係である。自然への訴えは以下のような事例にも用いられる。この誤謬はヒトの進化の特定の側面(特に道徳性の進化)への反対を支持する人の間で見られる。そのような人々(例えば哲学者レオン・カミン)は浮気、幼児殺し、暴力のような性質が自然(本能)である事が示されれば、それらが許容されなければならなくなると仮定する。この誤解は進化生物学者への憎悪をかき立てた。例えば社会生物学は20世紀後半にこの方向から批判を受けた。他の人々(例えばスティーヴン・ジェイ・グールド)は、「自然」が「正しいこと」を意味しないと考えると同時に、進化理論はそうしていると仮定した。この異論はこの分野の生物学者が遺伝子決定論を推進しているという密接した批判と混同されてはならない。幾人か(例えば哲学者メアリー・ミッジリー)は進化と人間の本性に関する生物学的な発見が政治的右翼を推進したと主張した。このような批判に生物学者ジョン・メイナード=スミスは「我々はどれほど方程式を浪費しなければならなかったか」と疑問付きで応じた。実際には、この分野の著述家は自然の中で見られる利己的な振る舞いが、我々の振る舞いの理解に役立ち、また我々がどのように振る舞ってはならないかの警告となると述べつづけた。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で追い続けるテーマの一つは「マイナス記号付きでない限り、我々はダーウィン主義から価値を引き出してはならない」と言うことである。彼は倫理の基準として「自然さ」を用いる社会が「生活するのに非常に不快である」と指摘する。そしていかに多くの人が「である」と「べきである」を区別できないかを明らかにした。
出典:wikipedia
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