日米構造協議(にちべいこうぞうきょうぎ、)は、アメリカと日本の間で、日米貿易不均衡の是正を目的として1989年から1990年までの間、計5次開催された2国間協議である。1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年からはじまる、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」への流れを形成した。アメリカの対日貿易赤字を食い止めるため円安ドル高是正を図った1985年のプラザ合意であったが、プラザ合意以降の円高にあっても日本企業は合理化や海外への工場移転などで高い競争力を維持していたために、アメリカの対日赤字は膨らむ一方だった。そんな中、アメリカ議会は相手国に対する強力な報復制裁を含めた新貿易法・スーパー301条を通過させ、政府に対し対日強行措置を迫っていた。当時の国際貿易問題は通常「GATT」(WTOの前身)で協議されていた。日米貿易摩擦解消のため、アメリカ合衆国財務省が「日米構造協議」を立案しアメリカ合衆国通商代表部が実際の折衝にあたった。1989年7月14日の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に提案し実現した。プラザ合意以降の円高ドル安の中にあってもアメリカの対日赤字が膨らむ要因は、日本の市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の改造と市場の開放を迫る内容となっている。(1990年1月31日にベルン行われた非公式会議で判明したアメリカの日本に対する要求は、優に200項目を超える膨大な量で構成されている。)日米構造協議以前にも「MOSS協議(市場分野別個別協議)」や「日米円ドル委員会」などの日米2国間での貿易交渉は度々行われてきたが、個別品目や為替などに範囲を限定したものであった。しかしながら、商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで範囲を広げる交渉は日米構造協議がはじめてであった。協議は1990年4月6日に中間報告をとりまとめ、同年6月28日に最終報告をとりまとめた。また、「日本構造協議最終報告」に盛り込まれた両国の経済構造改善策について進展状況を点検するために、1990年10月から1992年7月までに4回にわたるフォローアップ会合を行った。「」は、正確には「構造障壁イニシアティブ(主導権)」と訳すべきであり、日本政府が「イニシアティブ(主導権)」を「協議」と誤訳したところには背景に政治的な意図が働いているとの指摘がある。最終報告の中でアメリカは、「(日本は)輸出につながる産業分野への投資より、公共分野に投資するほうが賢明」であるとし、日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求した。海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定した。しかしその後、アメリカ側から「日本の対外黒字の増加を考えれば、公共事業の目標の上積みが必要」との要望があったため、1994年に村山内閣で計画が見直され、社会資本整備費としてさらに200兆円を積み増しし、総投資額は630兆円を計上している。この投資行動が現在の日本の財政難の遠因であるとの指摘がある(しかし、純債務で見れば日本は財政難ではないという意見もある)。実際の日本の公共事業予算は年8兆円-15兆円で推移して10年間で110兆円しか使っておらず「実際は中曽根税制改革で公約され、竹下内閣で実行された経団連への法人減税、所得減税ばらまきが日本政府の借金の原因なのに、責任を土建になすりつけるためのデマ」という意見もある。『財政投融資計画として特別会計で実行されていることを理解していない。小泉内閣は隠れ借金を表に引き釣りだし無駄遣いさせないために、財投債に転換して国債化している』また当事のニュースとして大きく報道されており、村山内閣の積み増しは国会で散々討議された「デマ」などと、いい加減な風説を書くべきでないこのアメリカの要請の背後には世界に流出する多額のジャパン・マネーがドルの影響力を希薄化させていることを懸念し、ジャパン・マネーを日本国内に閉じ込める狙いがあった。一方、日本の慢性的な対米貿易黒字に対して、国富と雇用を奪われた米国が、外需主導ではなく 内需主導成長を求めたとも言われている。地価の高騰が企業の担保価値を莫大なものとしたことと円の高騰が、アメリカの不動産投資に日本から大量の資金を流れ込ませていた。またその担保価値を利用し、日本企業が比較的容易に海外投資を行っていたことが日本企業の競争力を高めていた。そこで地価高騰の背景としてアメリカが着目した点が日本の土地税制であった。日本の農地の保有税が宅地の80分の1であることが、資産として土地を保有しやすい状況を生み出し、地主が売り渋る。その間も地価が上がり続けるという悪循環があった。結果として宅地開発推進や効率的な土地利用の妨げになっていると考え、この点を軸に日本に問題点として是正を要求したが、これは日本の経済学者が長年にわたって主張していた内容でもあったものの、農家や地主を中心とした自民党長期政権の支持基盤に対する配慮や、利権、政治資金源に関わるため、長年是正されなかった問題であった。大型店を規制していた大規模小売店舗法だが、最終報告に対する日本のコミットメントを反映し、大型店の出店調整期間の上限が1年半に設定された。また1994年には1000平方メートル未満の出店が原則自由とするなどの改正が行われた(トイザらス協議)。その後、2000年に大規模小売店舗法は廃止された。結果的に郊外に大型量販店が次々にできたため、地方都市中心部などの小売商店街の客足が途絶えるなど、各地にシャッター通りを相次いで発生させたとの指摘がある。第1回日米構造協議で指摘された問題点に対し、日米両国が採っていくべき措置とする以下のコミットメントが最終報告でなされた。1989年1990年1991年1992年
出典:wikipedia
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