西野 勇士(にしの ゆうじ、1991年3月6日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手(投手)。富山県高岡市出身。兄の影響で5歳から野球を始める。中学時代までは外野手兼三塁手としてプレーした。高岡ボーイズでは、当時2年間コーチをしていた橋本清からも教えを受けていた。中学時代は学業成績も良かったため、進学校である高岡高校への進学を勧められたが、野球強豪校の新湊高校に進学。自転車で1時間かけて通学した。1年時の夏に投手に転向する。エースとして挑んだ3年時の夏は富山県予選決勝でライバル・高岡商業高校に2-3で惜敗し準優勝に終わった。高校卒業後の進路に東洋大学への進学の話があり、当時の監督からも勧められたが、本人はプロを目指していたため進学などは一切考えておらず、プロ志望届を提出した。10月30日、プロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから育成選手ドラフト5巡目指名を受け、育成選手となった。からまでは一度も支配下登録できなかった。11月10日には支配下選手登録された。背番号は67。3月30日のオリックス戦でプロ初登板を果たした。4月7日には初先発するものの試合が降雨ノーゲームとなり、記録には残らなかった。翌4月8日の楽天戦にスライド登板したために、「プロ初先発」を2日連続で経験。7回無失点でプロ入り初勝利を挙げた。前半戦で8勝を挙げるが、8月には右肩痛を発症させるなど後半は1勝だけで、この年は9勝6敗に終わった。埼玉西武ライオンズとの2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズファーストステージの第1戦(西武ドーム)で、4点リードで迎えた5回1死満塁の場面で2番手として登板し、1回2/3を無安打無失点に抑えて勝利投手となった。育成ドラフト出身の選手がプレーオフ、CSで勝利投手となるのは史上初(育成出身では巨人のオビスポが最初)。最終的にチームはファイナルステージで敗れて敗退したが西野にとっては飛躍を遂げた一年となった。オフには小野晋吾の引退により空き番号となっていた、村田兆治の背番号29になることが発表された。はシーズン開幕直前に前年最多セーブに輝いた益田直也の負傷離脱により、開幕からクローザーを任された。好調だったため益田が復帰後も西野は抑えのままでそのまま活躍し、リーグ3位の31セーブを記録した、育成枠出身の選手では初のシーズン30セーブだった。オフの10月9日に日米野球2014の日本代表に選出された事が発表された。第3戦では9回に登板し1イニングを無安打無失点の投球を見せ、楽天の則本昂大、オリックスの西勇輝、西武の牧田和久と共に日米野球史上初の継投ノーヒットノーランを達成している。は開幕前の2月16日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出された事が発表された。3月10日の第1戦に5番手として登板し、セーブを記録している。7月16日には第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。シーズンでは終盤に打球の直撃による骨折で離脱したものの54試合に登板して自己最多の34セーブを挙げ、打たれた本塁打も1本だけで特にセーブがつく機会での失敗は0と安定した成績を残した。は開幕前の2月15日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表26名に選出されたことが発表された。オーバースローから最速150km/hのストレートと、決め球のフォークが武器で、他にもスライダー、カーブを投げる。先発時代には平均球速約139km/hとなっている。また、2011年にはイースタンリーグで与四球率1.10、2012年は与四球率1.97とコントロールの良さも持ち味である。高校時代の西野は最速143km/hの直球とスライダーで打者を打ち取るタイプの投手だった。支配下選手一年目の2013年は浦和の球団寮からQVCマリンフィールドのある幕張まで電車通勤を行っていたが、シーズンオフの期間を使い埼玉県内の自動車教習所に通った。12月27日、鴻巣市の埼玉県警運転免許センターで適性試験と学科試験に一発で合格したため普通自動車免許(AT車限定)を取得した。
出典:wikipedia
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