LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

梁士詒

梁 士詒(りょう しい)は清末民初の政治家。北京政府で袁世凱の皇帝即位を推進した。また、安徽派の政治家で、交通系(特に旧交通系)と呼ばれる政治集団の指導者としても知られる。後に国務院総理もつとめた。字は翼夫。号は燕孫。1889年(光緒15年)に挙人、1894年(光緒20年)に甲午科進士となる。その後、翰林院編修に任命された。1903年(光緒29年)には北洋編書局総弁をつとめる。1904年(光緒30年)、唐紹儀に随従してインドに向かい、中英チベット条約を議定する。翌年に帰国し督弁鉄路総文案に就任した。1907年(光緒33年)、五路提調処提調兼交通銀行幇理に就任し、さらに鉄路総局局長に転任した。1911年(宣統3年)の武昌起義後に郵伝部副大臣(署理大臣)に就任した。1912年(民国元年)3月、梁士詒は北京政府の総統府秘書長に就任し、同年5月、交通銀行総経理を兼任した。以後、周自斉・朱啓鈐らとともに、交通系と呼ばれる政治集団を形成する。1913年(民国2年)5月、署理財政部次長兼代理部務をつとめる。9月18日、袁世凱の指図を受けていた梁は、国会で袁の御用政党である公民党を結成した。10月、軍・警察を動員して国会議場を包囲する中で、袁を正式に大総統に選出させた。その権力行使の様から、梁は「小総統」とあだ名されたという。1914年(民国3年)、税務処督弁に就任した。1915年(民国4年)、梁士詒は袁世凱の皇帝即位のために請願活動を行った。しかし帝制が失敗し、翌年6月に袁世凱が死去すると、梁は帝制運動の主犯として指名手配されてしまい、香港へ逃亡した。1918年(民国7年)2月に特赦されると、安徽派の政治家として復帰する。同年6月、交通銀行董事長兼国内公債局総理の地位に就いた。9月、安福国会の参議院院長をつとめる。1921年(民国10年)12月、奉天派の張作霖の支援を得て梁は国務院総理に就任した。しかし翌年1月に、内閣は早くも倒れている。同年4月、第1次奉直戦争で奉天派が直隷派に敗北すると、梁は日本に亡命した。1925年(民国14年)2月、段祺瑞執政政府で、梁士詒は財政善後委員会委員長兼交通銀行総理として復帰する。1926年(民国15年)、張作霖に招聘されて政治研討会会長に就任し、翌民国16年(1927年)、税務処督弁となった。1928年(民国17年)、北京政府崩壊により梁は国民政府から指名手配を受けたため、香港へ逃亡した。後に赦され、1932年(民国21年)、国難会議会員として招聘されている。1933年(民国22年)4月9日に死去。享年65(満63歳)。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。