『諸国百物語』(しょこくひゃくものがたり)は、延宝5年(1677年)4月に刊行された日本の怪談集。全5巻、各巻20話構成で、全百話。著者、編者ともに不詳。江戸時代に流行した百物語怪談本の先駆けといえる書物であり、その後に刊行された多くの同系統の怪談本にも大きな影響を与えたといわれる。本書の序文には、信州(現・長野県)諏訪で武田信行という名の浪人者を中心とした3,4人の旅の若侍たちが百物語怪談会を行い、その内容を記録したものが本書だとある。実際には本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも寛文3年(1663年)の『曾呂利物語』からの採用といわれる話は21話にもおよび、ほかにも『因果物語』『宿直草』などの古書が出所とみられる話もある。そのため、怪談会の執筆記録というのは作り話であり、怪談会という形式のみを借用したものと考えられている。本書の伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一である。本書は2つの大きな特徴において評価されている。第一の特徴は、江戸時代当時に人気を博していた「百物語」の名をいち早く題名に用いたことである。本書以前に、万治年間にも『百物語』と題した版本が出版されているが、これは怪談ではなく笑話集であり、怪談集としての「百物語」は本書が嚆矢とされている。また本書以降、百物語の流行にともなって「百物語」を題名に用いた多数の怪談集が刊行されたものの、実際に全百話の怪談を収録したものはごく稀であり、中には享保17年(1732年)刊行の『太平百物語』のように百話の半数の50話しか収録されていないものもあるが、『諸国百物語』は題名に違わず全百話が収録されており、現在確認されている物の中で全百話の怪談集は、本書が唯一とされている。第二の特徴は、これも題名に「諸国」とあるとおり地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである。このように諸国の様々な談話を一つの書物に集約するという手法は、古典の説話集の伝統に基いたものではあったが、当時としては新しく目覚しい趣向であった。幽霊、妖怪、動物の怪異(キツネやタヌキなど)といった怪談で構成されているが、室町時代・戦国時代までの説話集で隆盛を極めていた妖怪や魑魅魍魎(本書では「ばけ物」「へんげ」などと表記されている)の話が減少しており、代わって無惨に痛めつけられた人間の幽霊、怨霊などを扱う話が全体の3分の1を占め、特に女性の幽霊譚が多く見受けられる。これは、自然界の脅威の象徴ともいうべき妖怪に対し、当時の人々の関心が減りつつあり、江戸期に『画図百鬼夜行』などの妖怪画集が刊行されたように、妖怪は脅威よりむしろ好奇心の対象へ移行したことや、それら妖怪などに代わって人間の因業の恐ろしさ、女性の嫉妬や執心による幽霊譚などが怪談会の主な話題となったためと考えられている。当時の人々の感覚を現代に伝える話も多い。たとえば「小笠原どの家に大坊主ばけ物の事」など、大坊主の妖怪の登場する話は、当時の僧に対する庶民たちの侮蔑や敵意を反映したものであり、キリシタンの処刑場で怪異の起きる「吉利支丹宗門の者の幽霊の事」は、キリシタン・バテレンを魔性の者と解釈したものといわれている。全百話を締めくくる百話目「百物がたりをして富貴になりたる事」は、題のとおり百物語を行うことで富を得たという話である。伝承上では百物語を終えると怪異が起こるといわれるが(詳細は百物語#方法を参照)、逆に富を得たとする話を百話目に用いるのは、そうした怪異が現実に生じることのないようにとの、一種の魔除けの意味との説がある。江戸当時には、前述の現存本の書肆により後に『新諸国百物語』が刊行されており、本書がいかに好評であったかが窺い知れる。この人気の要因は、江戸時代は遠隔地への旅行もままならなかったことから、当時の人々にとって遠方の国々は想像も及ばない一種の異界ともいえ、本書のように諸国の出来事を綴った書は、読者に対してまだ見たことのない国々の魅力を与えるものであったこと、加えてほとんどの話がどこの土地でどんな人物が遭遇した話であるか記されているため、リアリティに富んでいることが読者の目を惹きつけたためと考えられている。本書の記述上の趣向は当時の読者たちに受け入れられたことから、後の怪談本に与えた影響も大きく、この趣向を受け継いだ書も多い。諸国の話集という形式を受け継いだとされるものには井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』『一宿道人懐硯』、本書同様に巻末に富貴・出世などの話を用いている話集には『御伽百物語』『太平百物語』などがある。
出典:wikipedia
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