津軽丸(つがるまる、Tsugaru Maru)は、国鉄青函航路の車載客船で、津軽丸型の第1船。戦中から戦後の混乱期に建造された船質の良くない連絡船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に建造された同航路初の自動化船で、従来4時間30分前後を要していた青森 - 函館間を3時間50分に短縮した。ここでは、津軽丸および津軽丸型車載客船について記述する。なお青函連絡船の津軽丸としては2代目であった。1960年(昭和35年)頃の青函連絡船は、全14隻のうち、洞爺丸事件後に建造された3隻以外は、全て戦中から戦後の混乱期に建造された戦時標準船またはそれに準じる船で、元来船質は不良で、種々の船質改善工事を重ねながら十数年間使用されて来た。しかし、老朽化とともに維持費も増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、“これ以上の長期使用は得策ではない”、とされた。折しも高度経済成長時代、急増する旅客、貨物に対応するためにも、国鉄はこれら老朽船を取り替える方向にふみ切り、その方法を検討するため1961年(昭和36年)1月、「青函連絡船取替等計画委員会」を設置し、同年5月には第1回の中間報告が出された。それによれば、第1順位として、300〜400名の旅客とワム換算43両の貨車を積載できた客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻を、800〜1,000名の旅客と、1,000トン列車1本に相当するワム換算48両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船3隻で置き換える。第2順位として、当時1,400名前後の旅客と、ワム換算19両の貨車を積載できた車載客船大雪丸(初代)、摩周丸(初代)、羊蹄丸(初代)の3隻を、1,500〜1,700名の旅客と、ワム換算27両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船2隻で置き換える。第3順位として、当時ワム換算46両の貨車のみ積載の車両渡船第十二青函丸と、ワム換算44両の貨車のみ積載の車両渡船石狩丸(初代)、渡島丸(初代)の3隻を、ワム換算48両の貨車のみ積載でき、1日2.5往復可能な高速車両渡船2隻で置き換える、というもので、これら計7隻を1967年(昭和42年)度までに建造するという計画であった。この計画に基づいて、第1順位の第1船が1962年(昭和37年)11月8日に浦賀重工へ、第2船が1963年(昭和38年)6月13日に新三菱重工神戸造船所へ、それぞれ発注され、第1船は 1963年(昭和38年)5月24日起工され建造中のところ、それまでも旅客定員はたびたび増やされてはいたが、同年6月12日には更に1,100名から1,200名に増員された。そして同年8月13日には、上記置き換え対象の老朽船9隻を、当初予定より2年前倒しの1965年(昭和40年)度中までに引退させ、この時建造中の旅客定員1,200名に増員された ワム換算48両積載の高速車載客船のみ6隻で置き換えることに変更され、旅客定員1,500〜1,700名の車載客船案は消滅した。これは、1961年(昭和36年)当時の予測に比べ、その後の貨物輸送量の伸びが著しく、より早急な貨車航送能力の向上が求められたことと、旅客が集中する深夜便については、定期客貨便増発により、その増加率の低下が見込め、定員1,200名なら、続行便2隻で運べると判断されたためであった。この第1船が津軽丸と命名され、1964年(昭和39年)3月31日竣工、4月11日函館港回着、4月14日7108便より貨車航送のみの試運航開始し、5月10日変14便より旅客扱い開始し本就航した。引き続き 八甲田丸、松前丸(2代)、大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)の6隻が1965年(昭和40年)8月5日までに就航し、老朽船9隻は、同年9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に引退した。しかしその後の輸送需要は、客貨とも1963年(昭和38年)8月の予測を大きく上回る伸びで、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、更にもう1隻の同型船の追加建造を決定し、11月15日に浦賀重工へその建造を発注、1966年(昭和41年)2月15日起工し、1966年(昭和41年)11月1日、2代目十和田丸として就航した。これら7隻を「津軽丸型」と呼んだが、1982年(昭和57年)3月の津軽丸引退後は、国鉄内では残った船を「八甲田丸型」と呼んだ。国鉄では、翔鳳丸型以来、鉄道車両を航送する船を「貨車渡船」・「車両渡船」・「客載車両渡船」・「車載客船」等と呼称していた。しかし1961年(昭和36年)の「青函連絡船取替等計画委員会」の頃から、車載客船洞爺丸型(当時の国鉄内では羊蹄型)を「客船」、客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸等を「客貨船」、車両渡船日高丸等を「貨物船」と呼称するようになっが、この記事では従来の呼称を継続使用する。なお津軽丸型が当初、客載車両渡船(デッキハウス船)・「客貨船」の代替として建造されたという事情もあり、船種は「客貨船」とされていたが、津軽丸型の使用実態に合わせ、ここでは「客載車両渡船」ではなく「車載客船」を使用する。津軽丸は1954年(昭和29年)の洞爺丸事件や、1955年(昭和30年)の宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計された安全な船であるとともに、津軽丸建造当時の日本の造船・海運界は、世界に先駆けて船舶の自動化や遠隔操縦化を導入し始めた時期で、とりわけ、津軽丸は青函連絡船初の自動化船だけに留まらず、当時の造船・海運界の最先端技術を先取りした船として、後続の国鉄連絡船のみならず、その数年後から登場する長距離フェリーにも多大な影響を与えた。津軽丸は車載客船・車両渡船特有の天井高さの低い機関室に、中速ディーゼルエンジンを8台搭載するマルチプルエンジン方式を採用することで、12,800馬力という従来船の2倍以上の高出力化を実現し、航海速力を18.2ノットに上げながら、当時日本最大の可変ピッチプロペラ (Controllable Pitch Propeller CPP)を2基装備して、ブレーキ距離を半分以下に短縮するとともに、船首水線下には日本初となる出力850馬力の本格的なバウスラスター (Bow Thruster BT)を装備して、舵の効かない低速時に容易に船首を回頭できるようにし、港内での操船能力も格段に向上させた。これらにより、従来4時間30分前後を要していた青森 - 函館間を3時間50分に短縮し、「海の新幹線」と呼ばれた。また、従来の1日2往復から、1日2.5往復の運航が可能となり、稼働率向上も図られた。建造した浦賀重工でも初めて造るものが多く、津軽丸には製造番号1番という機器が大量に使用されていた。中には、船位自動測定装置(SPレーダー)のように実用化には至らず、後に撤去された機器も少なくなかった。なお津軽丸型の画期的な自動化・遠隔操縦化により、従来の車載客船では約120名、車両渡船でも72〜78名要していた運航要員が53名になり、この9隻廃船、7隻新造で、青函航路全体で471名の船員が陸上勤務に配置転換された。1957年(昭和32年)建造の車載客船 初代 十和田丸とは異なり、津軽丸型では車両甲板のほぼ全てを車両格納所に充てたため、1,200名の旅客は全て船楼甲板より上の甲板室に収容されることになった。このため、十和田丸(初代)では遊歩甲板(十和田丸(初代)では端艇甲板と呼ばれた)の甲板室は煙突前方のみを占める高級船員室と1等寝台室の入った小さなものであったが、これを後部煙突兼マスト直下まで伸ばし、1層下の船楼甲板(十和田丸(初代)では遊歩甲板と呼ばれた)の甲板室も、周囲の遊歩廊を廃しただけでなく、船体中央部より船尾側と、一部船首側でも、甲板室を両側面へオーバーハング状態で張り出させた結果、船楼甲板上に2層の甲板室を持つ堂々たる姿となった。甲板室前面は1層ずつ後退する十和田丸(初代)の優美なデザインを継承し、甲板室後部も、順次その層数を減らすことで、客船らしいシルエットを描き出し、更に操舵室前面を7度前傾させ、その下の2層の甲板室前面は7度後傾させてスピード感を持たせ、アンカーリセスを設けた船首部船体と相まって、均整のとれたスタイルとなった。ところが津軽丸では、本来つける予定でなかった操舵室床にシアー(舷弧:船体中央部が低く船首船尾が高い反り)を付けてしまい、更に操舵室前面窓の高さを、キャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)20cmと大きい床に合わせてしまったことと、前面7度前傾も相まって、各窓の高さが舷側へ行くほど段違い状に低くなるという、やや不格好な配置となってしまったが、第2船の八甲田丸以降はシアーもなくなり、窓はキャンバー5cmの天井に合わせ、段違いは解消された。また、津軽丸では当初、操舵室前の航海甲板前端に、十和田丸(初代)に見られた、丸みの付いたブルワークが設置される予定で、進水後の一時期、設置されていたが、操舵室前面中央部からの両側面下方の視野が遮られる、との理由で竣工前には撤去された。このため航海甲板前端が角ばってしまった。第2船の八甲田丸も同様であったが、第3船の松前丸(2代)からはこの部分は丸く整形された。また遊歩甲板の甲板室前面窓の数が、津軽丸と松前丸(2代)の2隻では12個と、他の5隻より1個多かったほか、津軽丸のみ、船楼甲板室舷側外板に、溝付きの鋼板を使用し、窓の上下に、前後に続く長い2本の線状の隆起が見られた。青函連絡船が通常使用する青森・函館の専用岸壁では、全て左舷着けのため、舷側に遊歩廊を持たない船楼甲板の乗船口は左舷にしかなく、2等船室の配置を、左舷に椅子席、右舷に雑居席としたため、船楼甲板左舷の2等椅子席のピッチに合わせた多数の小さな窓と、右舷の2等雑居席や旅客食堂のための比較的数少ない連窓、という左右非対称な外観となり、津軽丸型のひとつの特徴となった。津軽丸の初期計画当時の図面では、前部煙突は消音器室全長にわたる前後に長い巨大な煙突として描かれており、従来からの国鉄船舶のファンネルマークである「工」よりも、当時の国鉄特急の横長の「JNR」マークの方が収まりが良く、この「JNR」マークをファンネルマークとした。しかし、その後、立体的にはこの巨大煙突は不適当とされ、結局、十和田丸(初代)の煙突頂部を角ばらせた程度の煙突となったが、「JNR」マークはファンネルマークとして残り、オリジナルの縦横比1:8では横長過ぎのため、津軽丸では煙突に白い鉢巻塗装を加え、そこに縦横比1.5:8に修正した「JNR」マークを貼り付けてバランスをとった。これ以後建造の国鉄船舶は「JNR」マークをファンネルマークとした。津軽丸の新造時の塗色は、外舷下部が にぶい青色(2.0PB5/6)、外舷上部が白(N-9.5)、煙突がアイ色(2.5PB3/6)で、後部煙突兼マストが全て銀色であった。1967年(昭和42年)に外舷下部が灰青色(2.5PB5/2)に改められ、1970年(昭和45年)4月には煙突も外舷下部と同色とされ、後部煙突兼マストの上部は1973年(昭和48年)頃に 黒(N-1.5)になり、1979年(昭和54年)4月には煙突が新造時のアイ色(2.5PB3/6)に戻された。操舵室屋上に相当する最上層の甲板がコンパス甲板で、中央部に磁気コンパス本体が置かれ、その後方には前部マストがそびえていた。マスト頂部には円筒形のラドームが載り、中には船位自動測定装置(SPレーダー)の空中線が設置されており、本体撤去後も終航まで格納されていた。ラドームの左右側面には遠方からの船名識別のため、イニシャル文字「T」が取り付けられていた。マスト中段の前方への張出しには第1レーダーのスキャナーとハーモニック形のエアホーンのラッパが左右に2本、その直下の張出しにはモーターサイレンのラッパが1本、最下段の張出しには第2レーダーのスキャナーが設置されていた。このほか、操舵室屋上には、右舷に探照灯、左舷に灯火前面のスリットを開閉させてモールス信号を送る信号灯があり、また最前部中心線上には約3mの高さのポールが設置され、上端に碇泊灯、中段には赤色の危険物積載表示灯が設けられ、後年この2灯の間に、汽笛を鳴らした時だけ点灯するライトエミッターが追加された。操舵室床面高さが航海甲板で、その最前部には全幅にわたり、更に両翼を舷外へ約1mずつ張り出した操舵室が設置されていた。その中央部の後ろ右舷側に隣接して無線通信室が設置されたのは十和田丸(初代)と同様であったが、その間に直接行き来できる扉を設けたのは、津軽丸が初めてであった。しかし、津軽丸では、無線通信室内の機器配置が、十和田丸(初代)同様前向きのままであったが、第2船の八甲田丸からは、操舵室との連携がとりやすい後ろ向きに変更された。無線通信室の左舷にはジャイロコンパス本体やレーダーの送受信部、可変ピッチプロペラやバウスラスターの翼角遠隔操縦装置の操作部以外の部分等、航海関係の重要電気機器を収納した電気機器室が置かれ、また無線通信室後ろ隣には空気調整室(第1系統)が配置された。航海甲板の中央部には前部消音器室の入った甲板室があり、この位置は水面から高く、事故等で車両甲板下の主発電機や主機械が浸水で停止するような事態が発生しても、ここまですぐに浸水する可能性は低いため、この甲板室前側には電池室が、右舷後側に補助発電機室が、両者の間、右舷前側には補助配電盤室が配置された。補助発電機は、船内電圧が10秒以上にわたって85%以下を継続すると自動起動し、電圧が90%以上に回復すれば自動停止する100馬力ディーゼルエンジン駆動の出力70kVAで、主発電機故障時に、主軸駆動発電機ではバックアップされない航海用機器や無線装置、船内通信装置、水密辷戸動力、消防用ポンプ等の非常用設備関連の電源や、非常用照明をバックアップするもので、国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、国鉄では既に十和田丸(初代)、1961年(昭和36年)建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代) でこの発電機を装備していた。しかし、津軽丸型では羊蹄丸(2代)までの6隻で、沖錨泊等の電力需要の少ない時、主発電機を全て停止できるよう、船員居住区や機関室補機類の電力等、非常用でない電力もこの発電機の受け持ちとしたため、あえて補助発電機と呼称した。しかし70kVAでは容量不足気味のため、第7船の十和田丸(2代)では、これら非常用ではない電力系統を外し、名称も非常用発電機とした。電池室収納の蓄電池は青函連絡船では初めてニッケル・カドミウム・アルカリ蓄電池を採用し、通常はシリコン整流器で整流した直流で常時充電状態とし、補助発電機故障時や完全起動までのつなぎとして、航海用機器や無線装置、船内通信装置、火災警報装置、水密辷戸装置制御電源等の電源をバックアップした。なお、一部の交流負荷への対応のため非常用電動発電機(3kVAと700VA)も装備されていた。甲板室左舷には空気調整室(前から後ろへ第4、2、3系統が収納)が配置され、屋上には主発電機と第1主機室搭載の4台の主機械からの排気を担当するJNRのファンネルマーク付きの前部煙突が載っていたが、船楼甲板より上の甲板室が大きくなったことによる重心上昇を抑えるため煙突はアルミニウム製であった。航海甲板後端には後部消音器室と、その上に載る後部煙突兼マストがあったが、こちらは第2主機室搭載の4台の主機械と第2補機室の2台の補助ボイラーからの排気を担当し、同様の理由でアルミニウム製であった。後部煙突兼マストは小さく消音器の一部を煙突内に収容できないため、後部消音器室は1層下の遊歩甲板室まで占めていた。後部煙突兼マストには、機関部品積卸し用デリックが設置され、これを使用して、後部消音器室船首側の航海甲板中心線上にある機関部品積込口から、車両甲板下の第2主機室まで繋がる竪穴を通して、機械部品の積卸しができるようになっていた。航海甲板露天部の両舷側にはボートダビットに懸架された救助艇2隻、救命いかだの入ったカプセル形のコンテナを載せた多数の架台が設置されていた。航海甲板は就航当初は一般旅客全面立入禁止であったが、乗用車航送による一般旅客の遊歩甲板後部遊歩スペースへの立入制限に対応して、乗用車航送開始2年後の1969年(昭和44年)6月から、前部消音器室後ろ側ならびに両舷側の救命いかだ収納コンテナ架台内側に柵を新設するなど安全対策施行のうえ、前部消音器室より後方のみ一般開放された。両舷には甲板室全長にわたる遊歩廊が設けられ、甲板室最前部には船長室、事務長室、甲板部・通信部の高級船員室と船員用トイレ、空気調整室(第6系統)が配置され、それに続いて1等寝台室5室と寝台室用トイレ・洗面所(左舷寄りが婦人用、右舷寄りが男子用)、その後ろに1等指定椅子席、1等トイレ・洗面所(左舷が婦人用、右舷が男子用)、1等出入口広間と続き、その後ろには左舷に雑居席の1等座席、右舷に1等自由椅子席が配置されていた。最後部の後部煙突兼マスト直下は消音器室、その後ろ左舷側に手荷物室、右舷側に空気調整室(第5系統)が配置され、これより後ろには甲板室はなく、新造時は広い遊歩スペースで色とりどりのベンチが設置されていたが、1967年(昭和42年)6月から乗用車積載スペースに改装され、乗用車航送が開始された。船首の露天部は揚錨機や係船ウインチが設置された船首係船作業場になっており、甲板室最前部には機関部・事務部の高級船員室と事務室、左舷にトイレ、右舷に高級船員用洗面所、同浴室、前部水密辷戸動力室が配置されていた。それに続いて2等トイレ・洗面所(左舷寄りが男子用、右舷寄りが婦人用)、その後ろに左舷側は前部2等椅子席、2等出入口広間、2等婦人席、後部2等椅子席と続き、右舷側は前部2等座席、調理室、旅客食堂、食堂前の中央部2等座席、後部水密辷戸動力室、後部2等座席と続いて配置されていた。なお国鉄船舶では雑居席を“座席”と呼び、椅子席は“椅子席”と呼んだ。甲板室最後部の左舷には病室と警乗員室があり、その右側に男子用、右舷側に婦人用の2等トイレ・洗面所が配置されていた。船尾側の露天部は係船ウインチの設置された船尾係船作業場で、船尾端には車両積卸し作業を目視しながらヒーリングポンプ操作のできる箱型のポンプ操縦室が、一段高くなって後方へ突き出して設置されていた。離着岸時、船尾扉開放状態でも船尾が監視できるよう、このポンプ操縦室屋上から両翼舷外まで張り出した入渠甲板も設置されていた。なお、旅客定員を増やすため、船楼甲板の甲板室幅が、船首寄りの一部と船体中央部より船尾側では、車両甲板より広く、若干両舷へ張り出していた。車両甲板中2階の中甲板は、船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分の狭い甲板であった。最前部に甲板長倉庫、左舷には船首係船作業場が狭くて設置できなかったスプリングウインチの本体および、揚錨機とスプリングウインチの動力となる油圧を造る動力機械が、右舷には主ウインチと補助ウインチの動力機械が設置されていたほか、両舷にそれぞれ船員浴室と上下につながる階段室が配置されていた。車両甲板は、従来の車両渡船同様、可動橋の架かる船尾端は3線、そのうち中線はすぐに分岐し、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設され、左舷から順に船1番線~4番線と付番され、ワム換算48両積載できた。津軽丸型では、檜山丸型に比べ、幅が更に50cm広くなったこともあり、車両甲板船首側には船体中心線上の船2番線と船3番線の間に、レール面からの高さ約92cm、幅1.4mのプラットホーム状の通路が設けられ、付近から車両甲板下へ降りる階段は、このプラットホーム上から約3cmの低い敷居越しに降りる構造とし、それ以外の場所から車両甲板下へ降りる階段は、在来船通り高さ61cmの敷居が設けられ、いずれにも防火扉が設置され、万一車両甲板上に海水が滞留しても、容易に車両甲板下へ流れ込まない構造とした。しかしこのプラットホーム状通路は、前部煙突に続く幅1.4mの前部機関室囲壁の前で行き止まりであった。第5船以降の摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)、十和田丸(2代)の3隻では、将来の寝台車航送の準備工事として、前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと、ここから船楼甲板の2等出入口広間につながる階段を設置したが、旅客を寝かせたままで寝台車航送をしたい、という国鉄と、安全上旅客は船室へ移動させるべし、という運輸省の間の折り合いは付かず、結局寝台車航送は実現できなかった。車両甲板の船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分、中甲板の真下の部分は最前部が甲板部作業室、両舷はともに、船員用トイレと上下につながる階段室になっていた。また船尾右舷には“その他の乗船者”用のトイレが設置されていた。車両甲板より下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった。更に船体中央部、第1補機室、発電機室、第1主機械、第2主機室、第2補機室の5区画では、船底だけでなく側面にも、2対のヒーリングタンクと、5対のボイドスペース(空タンク)またはバラストタンクが設けられ、二重構造とし、これらボイドスペースは、片側が損傷して浸水しても、この浸水を対側のボイドスペースへも導き、非対称性浸水による船体傾斜を軽減するクロスフラッディング設備も設けられていた。車両甲板の下が第二甲板で、車両甲板プラットホーム上から降りる最も船首側の階段は、バウスラスター室に通じており、ここにバウスラスターを駆動する出力625kWの三相交流巻線型誘導電動機が回転軸を垂直にして設置されていたほか、この電動機の起動時に使う電動カム式抵抗器、バウスラスターの可変ピッチプロペラ変節油ポンプも設置されていた。バウスラスターはこの三相交流巻線型誘導電動機の直下に設置されていた。船首から2番目の階段を降りると、普通船員居室のほか、左舷前方に空気調整室(第7系統)、前後方向に通じる中央の通路を隔てて、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が設置された第1船室と呼ばれる区画であった。この通路の先は水密隔壁であるが、ここにはこの隔壁を通り抜ける通路があり、通常は開放されているが、浸水時には閉鎖して隣接区画への浸水をくい止める水密辷戸(すべりど)(第1水密辷戸)が設置されていた。この辷戸を潜り抜けると、車両甲板へ上ることなく一つ船尾側の、第2船室と呼ばれる水密区画へ通行できた。第2船室も普通船員居室があり、左前に空気調整室(第8系統)があった。なお第2船室下の船艙倉庫には1974年(昭和49年)汚物処理装置が設置された。第2船室から階段で車両甲板プラットホームへ上り、もう一つ船尾側の階段を降りると、第1補機室の中段で、第二甲板高さに相当した。右舷中段は一部倉庫となっており、船艙には冷房用冷水を造る2台のターボ冷凍機と、第1ヒーリングポンプの配管を見下ろすことができたほか、船艙前側には消防用スプリンクラー圧力タンクが設置されていた。この第1補機室からは船尾に向かって第二甲板の高さで、水密辷戸(第2〜8水密辷戸)付きの通路が連続して7枚の水密隔壁に設置されており、最後尾の操舵機室まで、車両甲板に上がることなく通行できた。1970年代前半(昭和40年代後半)には、右舷中段に固定式炭酸ガス消火装置設置に伴い炭酸ガスボンベが設置され、ここを起点とする赤く塗装された炭酸ガス管が後ろ隣の発電機室から第2補機室までの4区画に配管された。1972年(昭和47年)には、その船尾側に、機関室船底にたまる油や海水の混じった汚水を浄化するビルジ処理装置が設置された。更に1974年(昭和49年)には左舷に中段を新設し、汚物処理装置が設置された。第2水密辷戸を通り抜けると、発電機室の中段で、船艙には左舷から中央部にかけて、出力840制動馬力ディーゼルエンジン(大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)では800制動馬力)で駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台設置され、右舷にはバウスラスター駆動電源で、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、右舷主軸につながる出力900kVAの主軸駆動発電機が設置されていた。また、ディーゼルエンジン起動用の圧縮空気などを作る空気圧縮機とその空気ダメも発電機室に設置されていた。更に船尾側へ第3水密辷戸を通り抜けると、そこは防音冷暖房完備の総括制御室で、第1主機室船首側中段に設置されていた。計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の機関運転操作はここから遠隔操作で行われた。防音扉を開けて船尾側へ通りぬけると第1主機室で、ここには8台の主機械のうち前側の4台が横並びで設置され、その頂部がほぼ中段の高さであった。各主機械番号は右舷から左舷へ、右舷第1主機械、右舷第2主機械、左舷第1主機械、左舷第2主機械と付けられ、流体継手付き減速装置も、この第1主機室に設置されていた。更に第4水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2主機室で、後ろ側4台の主機械が設置されて、同様に各舷の第3第4主機械と付番されていた。更に第5水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2補機室の中段で、眼下には第2ヒーリングポンプの配管、更に毎分217.5回転する2本の主軸が望め、ほかに暖房給湯から係船機械類の凍結防止その他雑用の、補助ボイラー2台(クレイトンRO-175形)が設置されていた。更に第6水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第3補機室の中段で、機関部作業事務室や倉庫があり、船艙の両舷を走る主軸には可変ピッチプロペラ管制装置が仕組まれ、操舵室からの翼角指令を電気信号で受けた交流サーボモーターが、この管制装置の制御レバーを機械的に指令翼角まで動かした。これにより、中空のプロペラ軸内を通る、前後端が滑り弁となった送油管を前後に巧妙に動かし、可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油をプロペラボス部(プロペラ翼の根元)のピストンの前または後ろに供給することで、ピストンを前後させ、滑り金を介してプロペラ翼角を制御したほか、変節油圧低下時には、プロペラボス部の後端に付いたバネにより、ピストンが前方に押され前進翼角をとる安全策もとられていた(松前丸(2代)の川崎 エッシャーウイス式では、中空のプロペラ軸内を通る変節軸内の送油管に可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油を通し、この送油管が通じるプロペラボス内のピストン後ろ側を加圧して変節軸を前進させるか、またはプロペラ軸中空部分の変節軸外側に圧力油を通し、ピストン前側を加圧して変節軸を後退させるかし、この前後動をリンク機構を介して回転運動に変換し翼角を制御した。バネによる翼角前進装置はなかった。)。可変ピッチプロペラ変節油ポンプは航海に重要なもので、各軸1台と予備1台の計3台を装備し、吐出油圧の低下を検出すると予備機が自動的に起動し、故障した舷に圧力油を送るシステムであった。また主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続された。更に第7水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、“その他の乗船者”室があり、食堂従業員や機関整備員等の居室となっており、左前方に空気調整室(第9系統)も設置されていた。更に第8水密辷戸を船尾側へ通り抜けると操舵機室で、2枚の舵を動かす2台の大きな油圧シリンダーや、その油圧を造る2台の交流電動機駆動油圧ポンプがあり、操舵室のジャイロパイロットからの舵角指令は、電気信号、油圧を介して一旦機械力に変換され、この電動油圧ポンプを制御して舵を動かしていた。操舵機は重要機器のため、その油圧を造る電動油圧ポンプは常時2台並列運転され、こちらも主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続できた。右舷主軸回転中は必ず発電している主軸駆動発電機の登場で、蓄電池を電源とする非常用の直流電動機を装備する必要はなくなった。このほか、船尾扉の開閉装置や船尾係船機械の油圧動力機械もここに設置されていた。“その他の乗船者”室からは車両甲板右舷に上がる階段があり、更に舷側を船楼甲板の2等船室最後部まで上がれる構造であった。新造時の旅客定員は、1等寝台20名、1等席310名、2等席870名の1,200名であった、なお津軽丸就航時の国鉄は2等級制で、就航5年後の 1969年(昭和44年)5月10日からモノクラス制に改められ、以後1等寝台は寝台に、1等はグリーンに、2等は普通になった。なお津軽丸型では、客室および船員居住区はすべでセントラル冷暖房完備であった。1等船室は全て遊歩甲板にあり、遊歩甲板左舷遊歩廊の1等乗船口につながる左舷中央部の前部煙突下付近に1等出入口広間があり、入ってすぐ左が売店で、その角を左折して、右舷側男子用トイレ・洗面所と左舷側婦人用トイレ・洗面所の間を通る船体中心線上の廊下を前方へ進むと、両舷にわたる大部屋があり、ここが1等指定椅子席であった。ここには津軽丸建造以前の1961年(昭和36年)6月に、在来の車載客船4隻の1等出入口広間に60席程度のリクライニングシートを設置し、好評であったため、これを更に拡充する形で、背ずりが垂直に対して65度までリクライニングし、レッグレストや読書灯も付いて、寝台代用となる1人掛けシートを、各列前後に8席、シートピッチ140cmで配置し、これを横に12列、計96席、全て前向きのゆったりとした配置であった。各列の通路と反対側は手荷物棚で仕切られ、更に船体中心線上には手荷物棚で仕切られた通路が確保され、船首側の1等寝台室区画出入口に通じていた。船体中心線上の1等寝台室区画出入口から左舷婦人用、右舷男子用の1等寝台室用トイレ・洗面所の間の廊下を進むと、左右両舷を結ぶ廊下の中ほどに丁字に交わるが、この両舷を結ぶ廊下の船首側に3室、船尾側に2室の計5室の1等寝台室が設置されていた。いずれも2段寝台4人部屋で、寝台幅は上下段とも当時の列車の1等B寝台下段に準じた91.5cmで、寝台上の空間も90cm確保されていた。室内の2段寝台手前のスペースにはソファーと小テーブルが作り付けられていたが、すべて窓なしの部屋であった。1等出入口広間の売店前を直進すると右舷遊歩廊への出入口に達するが、この通路の船尾側、前部機関室囲壁を右舷側にかわした位置には1等自由椅子席への出入口があった。ここには、当時の国鉄特急1等車用2人掛けシートに準じながも、幅を若干広げ、シート中央部に起倒式の肘掛けを設け、読書灯付きとし、背ずりが垂直に対して49度までリクライニングする、フットレスト付きリクライニングシートを、シートピッチ125cm(列車の1等は116cm)で、全て前向きに配置した1等椅子席120席があったが、横方向最大8席で、1等車が2両横並びした状態であった。1978年(昭和53年)に、前側の44席が撤去され、普通船客も利用できる喫茶室「サロン海峡」が設置され、同時にグリーン出入口広間(旧1等出入口広間)の売店も撤去され、ソファーが置かれ、出入口広間はロビー化された。また、1等出入口広間の後方には、カーペット敷きの定員94名の雑居席の1等座席が配置され、内部で右舷の1等自由椅子席とも交通していた。なお1等出入口広間へ入室したとき、正面に見える壁(前部機関室囲壁の左舷側)には、各船の名称にちなんだ壁面装飾が施されており、津軽丸では、リンゴの断面を図案化して描いたポリエステル樹脂化粧板に、FRP製の「リンゴ園に遊ぶ子供たち」と題するレリーフを貼ったものであった。2等船室は全て船楼甲板にあった。1等乗船口よりやや船尾側で、1層下の船楼甲板左舷にある2ヵ所の舷門が2等乗船口で、この乗船口につながる、前後方向に長い2等出入口広間が左舷に配置されていた。この2ヵ所の乗船口の間に舷側を背にする形で、電報や切符類の取り扱いが行われる案内所が設置され、この向かい側やや後方の壁には、デザインは各船共通ながら色づかいの異なる、秋田、盛岡以北の東北と北海道の地図を図案化したレリーフが掲げられていた。案内所向かい側やや前方には売店が、その奥の右舷側には旅客食堂が設けられ、右舷側の窓から外を眺めながらの食事が楽しめた。なお第4船大雪丸(2代)から、食堂の窓が若干拡大された。食堂の船首側に隣接して調理室が配置され、そのほぼ中央から右舷に向け遊歩甲板へ上る階段があり右舷遊歩廊の調理室入口に通じていた。この階段の船首側に隣接して、上下に動く食料積込リフトも設置されていた。調理室船首側左端には車両甲板下第二甲板の船員食堂まで達する食料運搬装置の積込み口があり、ここで調理された食事が、この無人の食料運搬装置に載せられ、まず車両甲板天井まで垂直移動の後、車両甲板プラットホームの天井部分を前方へ約28m水平移動し、更に6m垂直移動して船員食堂まで運ばれた。2等出入口広間前方左舷側には階段があり、ここを上ると、左舷遊歩廊への出口、ならびに1等出入口広間につながっていた。この階段を上らず右側を前方へ進むと、リクライニング機能のない当時の国鉄特急2等車用2人掛けシートに準じながらも、座席下に救命胴衣を収納し、シート中央部に起倒式の肘掛けを設けた2人掛けシートを、シートピッチ96cm(列車では91cm)で、全て前向きに配置した定員206名の前部2等椅子席があった。出入口広間のすぐ後ろ隣には、定員37名のカーペット敷き雑居室の「婦人席」があったが、1978年(昭和53年)のグリーン自由椅子席(旧1等自由椅子席)への喫茶室「サロン海峡」設置時に、囲碁や将棋などを楽しめる「娯楽室」に模様替えされた。この後ろ、両舷に後部遊歩甲板へ上る階段が設置されていた。更に後方の左舷側には、前部2等椅子席と同様の椅子が並ぶ、定員118名の後部2等椅子席が配置されていた。また、前部2等椅子席の右舷側には、定員236名のカーペット敷き雑居席の前部2等座席があり、その最後部の1区画も壁で仕切られて「婦人席」とされていた。後部2等椅子席の右舷側には、定員126名のカーペット敷き雑居席の後部2等座席が配置され、更に旅客食堂と通路をはさんだ後方にも、定員147名のカーペット敷き雑居席の中央部2等座席が配置されていた。1980年(昭和55年)には、後部左舷椅子席と右舷座席の間の壁が撤去され、椅子席も撤去され、両舷にわたる普通雑居席の大広間となり、映写スクリーンが設置された。この改装では、右舷座席も含め、各区画を仕切る手荷物棚は従来より低くなり、仕切りも不完全で開放的な造りとなった。1969年(昭和44年)には、普通船室前部男子用洗面所内にシャワー室が設置され、その後好評につき、1970年(昭和45年)には普通船室前部婦人用洗面所内に1ヵ所(通路から直接入れるようにしたため男子も使用可)、1973年(昭和48年)にはグリーン船室中央右舷にも1ヵ所設置された。1937年(昭和12年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7081.74総トン)で、当時鉄道省と呼ばれていた国鉄は世界初となる船内全室冷房を実現していたが、その後戦争もあり、青函連絡船の船内冷房は実現していなかった。しかし、1960年(昭和35年)12月には上野-青森間の特急「はつかり」が全車冷房完備のキハ81系気動車に置き換えられ、1961年(昭和36年)10月には大阪-青森間特急「白鳥」と、函館-旭川間特急「おおぞら」が同じく全車冷房完備のキハ82系気動車で運転開始され、青函連絡船と接続する両岸の特急は窓の開かない空調完備の車両に近代化されていた。これら特急を接続する青函連絡船の客室冷房は当然の流れで、津軽丸型にはセントラル方式の冷暖房装置が搭載された。車両甲板下の第1補機室船艙に75kW交流電動機駆動の26万kcal/hの海水による水冷式ターボ冷凍機が2台搭載され、ここで造られた冷水が船内9ヵ所の空気調整室の冷却コイルへ送られ、室内から戻った空気や船外から取り入れた空気をこのコイルで冷却し、冷風をダクトで各室へ送るセントラル冷房方式であった。暖房は第2補機室の補助ボイラーからの蒸気を各空気調整室の加熱コイルへ送り、温風を同じダクトで送風したほか、各室設置のラジエーターによる暖房も併用された。セントラル冷房の施行範囲は、全客室と全船員居住区、その他の乗船者室、無線通信室で、電子機器等の発熱の多い総括制御室と電気機器室、調理のため発熱の多い調理室に隣接する旅客食堂には、セントラル冷房休止中でも冷房可能なパッケージ型エアコンが装備された。操舵室はラジエーター暖房のみで冷房はなかった。当初2台のターボ冷凍機はそれぞれ受け持ちの系統が分担され、冷水回路も独立していた。1号機が第1系統(1等寝台室)、第2系統(1等指定椅子席、1等出入口広間)、第4系統(前部2等椅子席・座席、2等出入口広間)、第6系統(無線通信室、高級船員室)、第7系統(第1船員室)、第8系統(第2船員室)、第9系統(その他の乗船者室)の7系統を受け持ち、2号機が第3系統(1等自由椅子席・座席、1等出入口広間)、第5系統(後部2等椅子席・座席、中央部2等座席、婦人席、2等出入口広間)の2系統を受け持った。ところが、これでは片方のターボ冷凍機が故障すると、その受け持ち系統の冷房が全く効かなくなる問題が生じ、就航後ターボ冷凍機の前後で両冷水回路の冷水管をつなぐ改造を行った。しかし、それでも両回路の冷水が十分混じり合わないため、冷房の不均衡は十分改善されず、第4船の大雪丸(2代)からはターボ冷凍機の前後にそれぞれ小さなタンクを設け、両冷凍機で造られた冷水が完全に混じり合い、また各系統から戻って来た温まった水も完全に混じり合わせて両冷凍機の負荷が均衡するよう設計変更された。船体の大型化で軌道有効長も伸び、左舷側から船1番線95.8m、船2番線111.6m、船3番線85.4m、船4番線95.8mとなり、車両積載数は船1番線から ワム換算で、順次12両、14両、10両、12両の合計48両と、当時の国鉄連絡船最多となり、1,000トン列車1本をほぼそのまま積載できた。船内軌道船首端には、翔鳳丸型以来自動連結器の装備された車止めが設置されていたが、入換機関車に押されて来た列車の、たび重なる衝撃で、車止め自体が損傷されるため、宇高連絡船 讃岐丸(初代)では、この連結器と車止め本体との間に油圧緩衝器が装備された。津軽丸型では、これの細部を改良した同一性能の、重量50トンの列車が時速6kmで衝突したエネルギーを、約9cmのストロークで吸収できる油圧緩衝器が、同様に装備された。また積載列車のブレーキ管と繋いで、ブレーキの締め直しができるよう、機関車用自動ブレーキ弁も設置された。なお油圧緩衝器付き車止めの場合は、列車先頭車両の最前部車輪に、レール上に載る小型車輪止めのヘムシューをかます必要があった。油圧緩衝器の装備を受け、津軽丸では従来の機関車用坐付連結器に代わり、通常の上作用式の並型自動連結器が設置された。更に車両甲板船尾から、車止めの自動連結器の遠隔解錠ができるよう、車止めに設置したエアシリンダーで、連結器解錠レバーに繋いだワイヤーを、滑車とテコを介して引っ張って解錠する仕組みとした。しかし構造が複雑なため、第2船の八甲田丸以降では、連結器内部が改造された特殊な自動連結器が設置され、連結器直下に置かれたエアシリンダーで、連結器の解錠レバーを直接押すという単純な構造になった。油圧緩衝器が装備されたとはいえ、車止めはあくまでも積載車両を固定することが目的で、入換機関車の“暴走”を止めるものではない。このため、陸上の入換機関車の機関士が目視できない列車先頭と車止めまでの距離を、機関士からも分かるよう、電光表示器が、青森第1岸壁、第2岸壁、函館第1岸壁、第2岸壁の各可動橋の門構え上に、1965年(昭和40年)9月30日に設置され、車止め付近の表示操作器ダイヤルから、有線で車止めまで「あと何両」という電光表示と音声放送もできるようになり、そのため船内軌道各線の中ほどから終端部にかけて、ワム換算で「あと5両~1両」の標記看板が車両甲板天井に設置され、軌道内には「あと5m~1m」の目印の白線がペイント標示された。その後、可動橋の電光表示器は、青森第3岸壁には1969年(昭和44年)11月20日に、函館第3岸壁、第4岸壁には1970年(昭和45年)3月にそれぞれ設置された。国鉄連絡船では、翔鳳丸以来、積載車両転倒防止のため、車両台枠を横から斜め下の甲板につなぎ止める甲種緊締具と呼ばれる緊締具が使用されてきた。この緊締具の車両側はハサミ状で、このハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ込み、甲板側はフック付きで、甲板上の緊締用レールの穴に引っ掛け、ターンバックルで締め上げる方式であった。しかし、ハサミ部分が重く、常に張力がかかっていないと緩んでしまう、などの欠点があった。津軽丸型は1日2.5往復するため、折り返し時間が55分に短縮され、車両積載数も増加し、更に人員削減のため、この甲種緊締具の操作性改善が強く求められた。このため、両側をフック付きにして、重量を20kgから13kgに軽量化した緊締具が考案され、これに対応するため、国鉄では1962年(昭和37年)4月から1966年(昭和41年)3月までに、11万両に及ぶ車両にフック掛けを設置した。更なる軽量化を目指した鎖を用いたレバー・ブロック方式も開発され、第6船の摩周丸(2代)以降、羊蹄丸(2代)、十和田丸(2代)で、船首から25mの範囲で採用された。しかし、車両のフック掛け位置を気にせず使用できた従来型のハサミ式甲種緊締具も、青函連絡船終航まで一部で使用され続けた。列車最後尾を固定する乙種緊締具は、従来は二股の鎖を用いて一端を連結器に巻きつけ、二端を軌道外の甲板上の鉄環にフックで掛け、ターンバックルで締めて積載列車の前後動を防いだが、津軽丸からは、最後尾車両の一端を連結器に巻きつけ、他端は後方下の軌道内に設置された鉄環にフックをかけ、レバー・ブロックで締める形の小型の乙種緊締具となった。また檜山丸型同様、軌道の間に梁柱を密に立てることで、積載車両がたとえ傾いても、横転して左右へ大きく移動することなく、船体横転につながらないよう配慮された。陸上の鉄道では、車両がはみ出してはならない限界の車両限界と、トンネルやプラットホーム、跨線橋等の建築物が線路に近付き過ぎてはならない限界の建築限界が定められており、高速走行等を考慮して、車両限界は幅3.0m、高さ4.1mなのに対し、建築限界は幅3.8m、高さ4.3mとかなり余裕を付けていた。しかし、船内軌道では制限速度4km/hと低速で、船内の限られた容積内に、できるだけ多くの車両を積載するため、特別に幅3.4m、高さ4.265mの縮小建築限界が採用されていたが、幅3.6m、高さ4.25mの第1種かつ大貨物にも対応できるよう、船2番線の船尾側約40mには一般の建築限界が採用された。車両の積卸し時、船体中心線から離れた船内軌道に、列車を載せたり卸したりすると、その重みで船体が横傾斜するため、両舷側のタンク間で海水を移動させて、その横傾斜を抑制するのがヒーリング装置で、青函連絡船では1924年(大正13年)建造の翔鳳丸以来、全船に装備されて来たが、全てヒーリングタンク1対、ポンプも1台の装備であった。津軽丸型のように、車両甲板に4線の船内軌道を持ち、かつ船楼甲板上の大部分に2層の客室を有する船は、国鉄連絡船としては初めてであった。このため、大容量のヒーリングタンクと、強力なヒーリングポンプを備えることが必要となったが、大き過ぎるヒーリングタンクは、損傷時の非対称浸水による横転を招きかねず、また強力過ぎるヒーリングポンプは、タンク底内部に突出した肋骨による段差で水の流れが滞り、ポンプ吸入口への残水の流れ込み量が、ポンプ吸引量に追いつけなくなり、ポンプが空気を吸ってしまって残水量が増え、結局タンク有効容量の減少を招くため、前後2組の独立したヒーリング装置を装備することとした。このため、第1ヒーリングタンク(片舷163.9トン 有効容量約130トン)は、発電機室とタンク後端は第1主機室水密区画の一部の両舷に達する形で設置され、両舷タンク間は、発電機室の一つ前に隣接する第1補機室を迂回する太いパイプで繋がれ、第1ヒーリングポンプは第1補機室に設置された。第2ヒーリングタンク(片舷238.8トン 有効容量約200トン)は、第2主機室両舷を中心に、その前後端は前後の隣接水密区画舷側まで達したやや大きなタンクで、両舷タンク間は第2補機室を通る太いパイプで繋がれ、第2ヒーリングポンプは第2補機室に設置された。更にこの太いパイプは船尾方向へも分岐し、第3補機室を経由して、“その他の乗船者”室船底のトリミングタンクに繋がり、船尾喫水の調節も迅速にできるようになった。このトリミングタンクまで繋がる配管は讃岐丸(初代)に始まるものであった。このような経緯で、ヒーリング装置を2組装備することになったが、1組故障した場合、タンク容量の少ない第1ヒーリング装置単独でも、貨車が80%載貨状態以下であれば、積卸し速度を規程の半分の2km/h程度に落とすことで、どうにか48両の積卸しは可能であった。なお津軽丸ではヒーリングポンプに、十和田丸(初代) や讃岐丸(初代) で採用された交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプは採用されず、110馬力三相交流誘導電動機駆動の可変吐出量型油圧ポンプで駆動される定容量型油圧モーター駆動の可逆転固定ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、第3船の松前丸(2代) でも、この方式が採用された。なお、第2船の八甲田丸では、85kW三相交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、上記2隻以外の津軽丸型5隻でも、この可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用された。このように、津軽丸型では2種類のヒーリングポンプが採用されたが、いずれのタイプも、ポンプ容量は1台当たり2,200m³/h×7.5m(水頭)と、檜山丸(初代)のものと同程度で、車両積卸し時に、“自動ヒーリング操作”を選択すれば、横傾斜1度になると、自動的に傾斜を補正するようにポンプが動き始め、±0.5度以内になると、ポンプは自動停止した。また讃岐丸(初代)同様、ボタン操作での、個別の手動操作も可能であったほか、車両積卸し開始時に、船体傾斜が1度に達して自動ヒーリング運転が始まる前に、数秒間手動操作を介入させて、船体傾斜を更に軽減することもできた。このポンプ容量は、車両長1m当たり3トンの満載貨物列車を、船1番線または船4番線に平均時速4kmで積卸しても、片舷への最大傾斜が3度以内に納まる、という容量であった。なお可動橋を架けての車両積卸し時の船体横傾斜の許容角度は、可動橋のねじれによる2軸貨車の3点支持脱線の危険性からは4度以内であったが、安全のため余裕を持って3度以内とされた。1967年(昭和42年)6月1日から、遊歩甲板後部の遊歩スペース上に、乗用車6台を積載航送するサービスを開始した。これに先立ち、一般旅客領域と車載領域の仕切り柵を設置し、この部分にあったベンチを撤去し、乗用車が甲板上でUターンしなくて済むよう、左右両舷の柵の一部を開閉可能な構造とし、ここを乗用車乗降口とした。青森では第1岸壁の船尾右舷が接岸する副岸方向から、斜路で右舷乗降口へ至り、函館側では、第2岸壁の待合所と岸壁の間にエレベーターを設置して、左舷乗降口に至ることとし、乗用車は全車船の進行方向に横向きの、2台縦列が3列の6台積載であった。当初2往復(夏期多客時3往復)で開始し、翌1968年(昭和43年)6月からは6往復(夏期多客時8往復)、1970年(昭和45年)5月からは8往復(夏期多客時10往復、閑散期6往復)とし、1971年(昭和46年)4月からは車両間隔をつめ、2台縦列4列の8台積載とした。更に1972年(昭和47年)7月までに、船尾係船作業場の上、遊歩甲板からポンプ操縦室屋上の入渠甲板に至るまでの空間に、係船作業に支障が出ないよう、左舷側1/4程度を残して屋根掛けする形で車載領域を拡張し、右舷の横向き積載車を船尾側へ1台増やして5台としたうえ、船尾側拡張部分に船の進行方向向きに3台積載して合計12台積載に改造したが、依然露天積みであった。なおこの改造に伴い、遊歩甲板室後端から係船機械のある船尾船楼甲板へ降りる階段が撤去された。航送自動車台数は順調に増加し、1973年(昭和48年)度には40,427台に達したが、これをピークに、同年秋の第1次オイルショックや1976年(昭和51年)の国鉄運賃の大幅値上げ等の影響で、減少に転じ、1976年(昭和51年)度は29,492台まで減少してしまった。このため、国鉄では、荒天時の無料洗車券の発行や往復割引回数券を発売し、以後微増に転じた。1982年(昭和57年)には津軽丸と松前丸(2代)が引退し、その代船として、乗用車20台積載可能な改造客載車両渡船石狩丸(3代)と檜山丸(2代)が就航し、1983年(昭和58年)度には35,172台まで増加した。1984年(昭和59年)2月1日の有川桟橋廃止後は夏期多客時9往復となったが、東北自動車道の延伸もあり、1987年(昭和62年)度には37,462台を航送してその幕を閉じた。また1985年(昭和60年)4月1日からは、横向き積載の乗用車積載位置を若干船尾側へ寄せ、車載領域前側にわずかなスペースを捻出し、そこへ数台のオートバイ・自転車の積載を開始し、同時期には船尾の進行方向向き積載の乗用車数を4台に増やし、乗用車13台まで積載していた。十和田丸(初代)以前の青函連絡船では、船首係船作業場には揚錨機が1台あり、これで両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面には、ワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出していた。入港時、岸壁前で速力を落とし、近寄ってきた綱取り艇という小舟に、甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車(フェアリーダー)を通して降ろした係船索(フォアライン)の一端を持たせ、これを岸壁まで運ばせ、岸壁のビットに掛けた後、フォアラインをこのワーピングドラムに数回巻き付け、甲板員が3名がかりで引いたり緩めたりして、フォアラインとワーピングドラムのスリップを調節することで、その張力を調節しながら、フォアラインを巻き込んで船体を岸壁に引き寄せて行った。着岸作業では通常、補助汽船は船尾しか押さないため、このフォアライン巻き込み力は船首を岸壁方向へ引き寄せる唯一の力で、重要なものであった。また船尾にも、車両甲板の曝露部、あるいは船楼甲板の両舷に、ワーピングドラムを垂直にした形のキャプスタンが1台ずつあり、甲板員2名で船尾を可動橋に合わせる作業を行っていた。この危険で、人手のかかる係船作業の自動化・遠隔化の試みが、青函航路よりは条件の緩い宇高航路の1961年(昭和36年)建造の讃岐丸(初代) で行われ、国鉄連絡船初の電動油圧式の揚錨機や、係船ウインチが開発された。特に後者では、係船索を自在に巻き込んだり繰り出したりができたほかに、係留中も係船索を一定の張力で引張り続ける“自動係船運転”と呼ばれるオートテンション機能をも持たせることができた等、一定の成果を上げることができたため、津軽丸型でも電動油圧式係船機械が導入された。この国鉄連絡船で使用された電動油圧式係船機械とは、三相交流誘導電動機駆動で、回転数一定のまま、その吐出量を無段階に変えることのできる可変吐出量型油圧ポンプで油圧を発生させ、配管を通して油圧を揚錨機やウインチへ導き、それらの機械の定容量型油圧モーターを任意の方向・速度で回転させる仕組みであった。この油圧回路では、係船機械の油圧モーターへの負荷が増大し、回路の油圧が規定値を越えても、安全弁あるいはリリーフ弁を通して油圧を低圧側に逃がせるため、停止状態でも過負荷にならないで一定のトルクを発生し続けることができ、更に、予め回路油圧と連動させつつ油圧ポンプの吐出量を制御するシステムを導入することで、係船ウインチとして望ましい荷重速度特性を得ることができた。津軽丸型では、船楼甲板船首係船作業場には、揚錨機のほか、着岸前、最初に岸壁のビットに繋いで船首を岸壁へ引き寄せるフォアラインを巻き込む左舷の主ウインチ、左舷が岸壁から離れないよう固定するブレストラインを巻き込む右舷の補助ウインチ、そして船体を後方へ引き寄せて船尾を岸壁ポケットへ押し込むスプリングラインを巻き込むスプリングウインチが、それぞれ別個に設置されたが、船首係船作業場が狭いため、スプリングウインチだけは1層下の左舷中甲板に設置され、船楼甲板上にはスプリングラインを出す穴が設けられた。いずれのウインチ・揚錨機も、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから遠隔操作されたが、揚錨機だけは、操舵室内前面左舷側の操縦スタンドからも遠隔操作できた。しかし錨鎖をロックしている制鎖器のカンヌキの解除は現場でしかできず、そこまで行くなら船首スタンドを使う、ということで、結局操舵室のスタンドは使われず、第7船十和田丸(2代)では設置されなかった。なお、船首係船機械の油圧を造る油圧ポンプを含む動力機械は、揚錨機とスプリングウインチ用が左舷中甲板に、主ウインチと補助ウインチ用が右舷中甲板に設置された。船楼甲板船尾係船作業場でも、左舷後方の岸壁ビットに左舷アフターラインをかけ、これを巻き込んで船尾を後進させ、可動橋に押しつける船尾左舷ウインチの1ドラム、ならびに、左舷船尾から前方のビットにかけ、左舷アフターラインの張力に対抗してブレーキをかける船尾スプリングラインを巻き込む船尾左舷ウインチの1ドラム、の2つのドラムを持つ船尾左舷ウインチと、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウインチが設置された。この2台のウインチは船尾船楼甲板左舷の台の上に設置された操縦スタンドから遠隔操作された。なお、船尾係船機械の動力機械は、車両甲板下の操舵機室に設置された。このように各係船索をそれぞれ個別の電動油圧式ウインチで、自在に巻き込んだり繰り出したりが遠隔操作で可能となり、少ない人員で安全に係船作業が行えるようになった。なお船尾左舷ウインチのみ2ドラムで兼用となったのは、船楼甲板の甲板室が大きく船尾係船作業場が狭くて、ウインチを3台設置できなかったためであった。停泊中の車両積卸し作業による船体の傾斜や喫水の変化、潮位の変化などに対し、係船索が緩んだり張りすぎたりしないよう、係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、津軽丸の係船機械を製作したメーカーが讃岐丸(初代)の係船機械を製作した東洋電機製造でなかったこともあり、結局所定の性能が出せず、この機能は使われなかったが、第2船の八甲田丸以降は予定通り、船首では補助ウインチとスプリングウインチ、船尾では左舷ウインチの左舷ア
出典:wikipedia
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