中田 喜直(なかだ よしなお、1923年(大正12年)8月1日 - 2000年(平成12年)5月3日)は、日本の作曲家。東京市(現在の東京都渋谷区)出身。『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』、『夏の思い出』など、今日も小中学校の音楽の時間で歌い継がれている数々の童謡、楽曲を作曲した日本における20世紀を代表する作曲家の一人である。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章、兄は作曲家・ファゴット奏者の中田一次である。妻の中田幸子は、音楽出版ハピーエコーの代表であり、喜直の作品を多数出版している。また、はいだしょうこの声楽の師匠でもある。因みに甥の中田佳彦は大瀧詠一と細野晴臣共通の友人で、ポップスの勉強会を立ち上げる等交流のあった人物、大瀧と「EYES」というデュオを組んでいた時期がある。後に大瀧のアルバム「大瀧詠一」収録の「おもい」のアレンジを手掛ける。それが縁でアルバム「多羅尾伴内楽団Vol.1」において「雪の降る街を」をインストでカバーしている。中田章の三男として生れる。父は物心ついた頃にはすでに病床に伏しており、音楽については兄の一次から教わったという。1933年には最初の歌曲を書いている。1935年には、映画『別れの曲』の影響でショパンに心酔しピアニストを志望するようになる。青山学院中等部を経て1940年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)ピアノ科に入学。戦時(太平洋戦争)のため繰り上げ卒業をした後は、特別操縦見習士官(第1期)となり宇都宮陸軍飛行学校に入校、帝国陸軍航空部隊の戦闘機操縦者となる。陸軍少尉に任官し、四式戦闘機「疾風」を装備する飛行第51戦隊附としてフィリピン戦線やインドネシアに赴き、本土で特攻隊要員として終戦を迎えた。ジャズピアニスト志望であったが、手が小さいことから断念し、終戦後の1946年には作曲家グループ「新声会」に入会。歌曲の伴奏をつとめるかたわら、作曲家としての活動を本格的にスタートさせる。NHK「ラジオ歌謡」や「歌のおばさん」、「えり子とともに」などラジオ番組にも積極的にかかわり、これらの番組において「夏の思い出」や「かわいいかくれんぼ」「雪の降るまちを」などを生み出している。1953年にはフェリス女学院短期大学音楽科講師に就任し、その後40年にわたって教職を勤め上げた。在職中、教え子であった妻幸子と出会い結婚。同校とのかかわりのなかで生まれたものに、プロ合唱団「フェリス女声合唱団」(のちの日本女声合唱団)のために書いた多くの女声合唱曲や、著書『実用和声学』(音楽之友社)がある。1988年からは神戸山手女子短期大学でも教えた。1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。1969年に設立された日本童謡協会にもかかわり、のちに会長に就任する。2000年5月3日に亡くなるまでに書かれた作品は3000近くといわれている。その全貌はまだ明らかになっていない。校歌や社歌・自治体のための歌も少なくない。のちに合唱曲に編曲された作品も少なくない。
出典:wikipedia
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