奥新冠ダム(おくにいかっぷダム)は北海道新冠郡新冠町、二級河川・新冠川本流最上流部に建設されたダムである。北海道電力が管理を行う発電用ダム。高さ61.2メートルのアーチ式コンクリートダムで、北海道初のアーチダムとして建設された。日高・上川管内をまたぐ広域大規模電源開発事業である日高電源一貫開発計画に基づき建設され、最大4万4,000キロワットの水力発電を目的とする。同計画において最も工事が難航したダム事業であり、関西電力の黒部ダム(黒部川・富山県)工事に比肩する難工事として知られている。ダムによって形成された人造湖は、日高山脈の最高峰である幌尻岳より名を採って幌尻湖(ぽろしりこ)と命名された。新冠川は日高管内における二級河川としては、静内川と肩を並べる規模の大きい河川である。日高山脈の最高峰で日本百名山にも選ばれている標高2,052メートルの幌尻岳東麓を水源として岩清水渓谷などの険阻な峡谷を形成しながら概ね南へ流路を取り、新冠町中心部を貫流して太平洋に注ぐ流路延長77.3キロメートル、流域面積402.1平方キロメートルの河川である。ダムは新冠川の源流部、幌尻岳のふもとに建設された。ダム名は河川名である「新冠」より名づけられたが、これはアイヌ語の「ニカプ」(nikap 木の皮、niが木、kapが皮の意)に由来するといわれている。新冠川ダム群の中枢である新冠ダムよりも奥地に計画されたダムであることから「奥」が付いてこの名前となった。1951年(昭和26年)北海道電力は発足すると同時に、大規模な水力発電開発計画の検討を開始した。当時の日本は戦争中の空襲による電力施設破壊により慢性的な電力不足に陥り、度重なる停電に悩まされていた。一方で朝鮮戦争による特需景気によりにわかに工場などの電力需要が急増、既設の電力施設では需要を賄うのが難しくなりつつあった。当時の第3次吉田内閣は喫緊の問題であった電力供給に加え治水・灌漑を効率的に開発するため、アメリカのテネシー川流域開発公社(TVA)方式による大規模河川総合開発事業を展開。1950年(昭和25年)に国土総合開発法を施行し、只見特定地域総合開発計画など22地域において大規模地域開発計画を進めていた。北海道においてもそれは例外ではなく、北海道開発庁・北海道開発局の発足と共に北海道総合開発計画がスタート。北海道を日本の生産基地とするための開発計画が立案された。計画を軌道に乗せるためにはインフラストラクチャーである電力の供給が不可欠だが、当時の北海道は雨竜発電所(雨竜川)のほかは小規模または王子製紙など民間所有の水力発電所しかなく、本州に比べ電力開発は遅れていた。加えて苫小牧市や室蘭市など胆振支庁沿岸部の工業地帯では生産が増加、連動して電力需要も増大していた。このため只見川などで行われている大規模電力開発計画を北海道でも行う必要性が高まった。北海道電力は十勝川水系の電力開発計画・十勝糠平系電源一貫開発計画に着手していたが資金面の問題で事業を電源開発へ移管させており、十勝糠平に代わる新たな事業を発案しなければならなかった。そこで着目されたのが日高山脈を水源とする新冠川・静内川・沙流川・鵡川であり、この四水系を利用した大規模電力開発計画が1952年(昭和27年)より調査開始された。日高電源一貫開発計画である。この計画では前記四水系に大小11箇所の水力発電所とダムを建設し、河水を合理的かつ有効に利用するためダム・発電所間をトンネルで連携して水の融通を行うことで発電能力を増強させ、合計67万キロワットの電力を新たに生み出すという壮大な計画であった。1956年(昭和31年)の岩知志ダムと岩知志発電所(沙流川)より計画が着手され、以降鵡川、新冠川、静内川の順で開発を進める方向となった。新冠川については沙流川水系より導水した水も利用した発電を行い、さらに静内川水系へと導水する役目を担うこととなり、沙流川水系からの導水拠点として新冠川最上流部の発電所を建設し、新冠川本流の水も利用することで中規模の水力発電を行う計画を立てた。この計画によって新冠川最上流部に計画されたのが奥新冠ダムと奥新冠発電所であり、1958年(昭和33年)より調査が開始され1960年(昭和35年)7月から本格的な工事に着手した。奥新冠ダムおよび発電所は日高電源一貫開発計画の中で最も工事が難航し、本計画の中で最も多くの労働災害による殉職者を出している。ダムの規模こそ中規模だが、難工事の有様は同時期に施工されていた「黒部の太陽」で知られる関西電力の黒部ダム工事に匹敵するものであった。ダムと発電所の位置は日高山脈でも幌尻岳に近い最奥の地である。北海道電力が計画の前線基地としていた静内郡静内町より約80キロメートル離れており、現在でも新冠町中心部から車で約2時間30分も掛かる奥地であるが、当時はダム建設予定地(ダムサイト)に向かう道路がなく、まずは全長66キロメートルにおよぶ工事用道路の建設から始めなければならなかった。しかし新冠川上流部は両岸に断崖絶壁が迫る険阻な峡谷で、黒部川の日電歩道のようなものすら存在しなかった。ダムを建設する際にはまずダム地点の測量や地形・地質調査を行うが、これら測量資材を運搬するには道路がなく、静内・新冠地域のポーターである「ダンコ」を利用、または社員自らがダンコとして資材や食糧、ドラム缶風呂など日用品を背負い、現地の長老を案内に立てながら険しい山岳地帯を踏破し、急流を徒歩で渡渉した。こうした徒歩による過酷な調査に約一年を費やし、工事用道路のルートが決定して道路工事が開始された。だが詳細な設計図は無く、国土地理院作成の5万分の1地図を頼りに手探りでの道路工事となり、ブルドーザー1台と作業員数名が削岩機を使って掘り進める作業となった。しかもダム地点に近づくに連れて断崖絶壁の度合いは増し、場所によっては高さ70メートルの垂直な絶壁が行く手を阻んだ。1959年(昭和34年)11月より厳寒期を含めた1年2ヶ月間の突貫工事によって、トラック1台がようやく通れる工事用道路が完成した。この間2名の殉職者を出したが、全体の工程からすればまだ序盤であった。ダム本体および発電所の工事は1961年(昭和36年)より開始された。新冠川本流のほか導水元である沙流川水系の3河川から水を運ぶ導水トンネルも建設しなければならないため、工事現場は広範囲に及んだ。何れも厳寒期には氷点下20度以下に達する極寒の地であり、現地には作業員宿舎があっても木造のバラックに近い宿舎で不便な生活の中工事は進められた。厳しい環境の中、ソフトボールや麻雀、冬季は特設スケートリンクを造るなどレクリェーションで鋭気を養いながら作業員は難工事に当たっていた。しかし本工事開始後最も悩まされたのが自然災害であり、夏季の集中豪雨による洪水や冬季から春季にかけての雪崩、さらに落石や転落事故などが度重なり、労働災害による殉職者は増えていった。特に凄惨だったのが1961年4月5日に発生した雪崩事故である。事故は奥新冠発電所に沙流川水系からの水を導水する全長24キロメートルの長大なトンネルの最後の中継地点、発電所下流で新冠川に合流する支流・プイラルベツ川の取水設備工事現場付近で起こった。日高山脈は豪雪地帯であり積雪も数メートルにおよぶことは普通であったが、この年は春先に温暖な日が続き、雪崩の危険が高い状態であった。そこに4月3日より大雨が降り、積雪は一層緩んだ状態となり工区を担当する大成建設と佐藤工業は厳重な警戒に当たっていた。しかし4月5日午前5時45分ごろ広範囲にわたり表層雪崩が発生し作業員宿舎は一瞬にして倒壊。新冠町の消防団や鹿島建設などダム工事に従事する他の建設会社作業員などが救助に当たったが、佐藤工業と大成建設の作業員34名が死亡し11名が重軽傷を負う大惨事となったのである。早朝で就寝中の所を雪崩が襲い、避難する間もなく雪崩の下敷きになったことが、被害を拡大した。北海道警察や浦河労働基準監督署などの合同現場検証が行われたが、「事前予知が到底困難な自然災害」との結論に至った。工事用道路も雪崩に埋まり復旧に1ヶ月を費やしたほか、雪崩事故を目の当たりにした労務者が集団で離散し、工事の完全再開には2ヶ月を要した。奥新冠ダム・発電所工事では1959年から1963年(昭和38年)までの4年にわたる工事期間内に10回の自然災害が襲い、その復旧に全工事期間の16~25パーセントを費やした。災害復旧の合間に本工事を進めるような状態であったと当時従事した北海道電力の社員は語っている。自然災害のほかにも雨による崩落で通信線や電話線などが寸断され、電話の不通や停電にも悩まされた。この難工事により24名が労働災害で、34名が雪崩災害で殉職し計58名が新冠川に命を散らした。現在発電所傍に慰霊碑が建立されているほか雪崩事故の現場付近には事故で犠牲者を出した大成建設の現場責任者が自費で建立した慰霊碑がある。幌尻岳へ向かう登山ルートにあるこの慰霊碑には、登山客が通る際に手を合わせている。北海道のインフラ整備という大義の下で58名の尊い犠牲を伴いながらダムと発電所は1963年8月に完成し、運転を開始した。奥新冠ダムは北海道電力として、また北海道に建設されたダムとしては初となるアーチ式コンクリートダムである。アーチダムはコンクリートの量を節減できるが水圧を両側岩盤に伝えて安定性を保つため堅固な岩盤が存在しないと建設できない。奥新冠ダムの場合はダムサイトが狭い上に両側岩盤が堅固であったために初の導入となった。北海道ではこの後北海道開発局によって1972年(昭和47年)、札幌市の豊平川に豊平峡ダムが建設されているが、これ以降現在に至るまで北海道にはアーチダムが建設されていない。発電所である奥新冠発電所は出力4万4,000キロワットのダム水路式発電所である。発電所に送られる水は奥新冠ダムからの水のほか沙流川水系の河川からも取水される。すなわち沙流郡日高町を流れる沙流川の支流、パンケヌシ川と千呂露(ちろろ)川、および現在平取ダムが建設されている沙流郡平取町の額平(ぬかびら)川にそれぞれ取水堰を設けて取水、トンネルで新冠川支流のプイラルベツ川で再度取水した後奥新冠ダムから導水された水と合流し、発電所に送られて発電される。沙流川水系を連結するトンネルの総延長は24キロメートル以上におよび、屈指の長さを誇るトンネルである。日高電源一貫開発計画では沙流川から新冠川へ導水したあと、さらに静内川へと導水される。奥新冠発電所より放流された水は下流にある新冠発電所と下新冠発電所で発電され、岩清水ダムの貯水池である岩清水調整池で取水される。取水された水はトンネルで静内川支流の春別ダムに導水、貯水された後二つのルートで静内川本流へ送られる。一つは春別ダムから直接トンネルで高見ダムへ導水され高見発電所で発電されるルート、もう一つは春別ダム下流の春別発電所で発電された後再度取水されてトンネルで静内ダムに送られ、静内発電所で発電されるというルートである。複雑ではあるが高度に水を利用することで、効率的な発電を行う。このように、複数の水系間で本来の流路とは異なる形で流水を変えることを専門的には「流域変更」と呼ぶ。流域変更は水力発電だけではなく、例えば利根川における武蔵水路のように上水道供給や紀の川・熊野川のように灌漑目的の分水として流域変更を行う場合もある。しかし本来流れるはずの水が別な河川に奪われるため、従来より取水される河川を利用していた流域自治体や住民からは慣行水利権や漁業権の問題から反対運動が起こる場合も多い。新冠川の場合は静内川へ流水が結果的に「奪われる」ことから、流域自治体である新冠町は事業に難色を示した。灌漑用水として取水する水量の減少、河口閉塞による治水上の問題、漁業環境への影響など町政の根幹に関わることから新冠町では「新冠町議会電源開発特別委員会」が設置され、事業者の北海道電力との間で交渉が持たれた。町側は従来通りの流水量補償を求めたが北海道電力は計画の大幅変更に関わる取水量減少要求に難色を示し、交渉は難航した。最終的には町側が譲歩し「減水による影響を北海道電力は最小限に抑制する」ということで合意が成立した。現在最下流の岩清水ダムより河川維持放流が行われている。奥新冠ダムは幌尻岳のふもとに位置し、日高山脈でも奥深い位置にある。ダム湖はその幌尻岳より名を採って「幌尻湖」と命名された。幌尻岳山頂からは遠く幌尻湖を望むことができる。周辺は原生林に覆われ、北海道電力職員が管理のための巡回に来るほかは人影はない。ダム・発電所は遠隔操作による管理が行われ、通常は無人である。ダムへは公共交通機関ではJR日高本線・新冠駅が最寄駅であるが、そこから先は公共交通機関で行くことはできず、車で行くほかない。車の場合は日高自動車道・日高富川インターチェンジ下車後国道235号に入り、新冠泥火山付近で北海道道209号に左折、北海道道71号平取静内線に入り新冠川を渡河する直前の交差点より道道を外れ林道に入り、ひたすら北上する。途中岩清水ダム・下新冠ダム・新冠ダムを経て、林道起点より38kmでイドンナップ山荘に達する。山荘前のゲートは施錠されており、ここから先は北海道電力管理道路となり、事前に北海道電力の許可を受けた車両(自転車や二輪車も含む)以外は通行禁止である。許可を受けたとしてもイドンナップ山荘より先は極めて悪路であり、車一台がようやく通過できる狭隘な幅員、連続するカーブや未整備の路面、ガードレールのない断崖絶壁路が約17キロメートルも続くことから初心者や四輪駆動車ではない普通乗用車での走行は極めて危険なため、避けた方が無難である。主に幌尻岳登山者のために、徒歩のみ通行が許可されているが、新冠ポロシリ山荘までは奥新冠ダムを経て約19km、5時間の行程である。大雨の際には林道全体が通行止めになる場合もあるので注意。また新冠川上流はヒグマの生息地であり目撃例も多いため、笛やクマ鈴、クマ撃退スプレーなどの対策が必須である。
出典:wikipedia
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