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大内山平吉

大内山 平吉(おおうちやま へいきち、1926年6月19日 - 1985年11月1日)は、茨城県那珂郡平磯町(現:ひたちなか市)出身の元大相撲力士。本名は大内 平吉(おおうち へいきち)。1926年6月19日に茨城県那珂郡平磯町(現・茨城県ひたちなか市)で漁師を営む家に長男として生まれる。幼少時代から潜水が得意で、鮑や蛸を捕る腕はプロの潜水士にも劣らなかった。小学生の時は際立って大きくなく、平均よりやや高い程度の身長だったが、小学校を卒業してから船に乗って漁を手伝う内に急激に背が高くなった。1943年に家の漁船が大日本帝国海軍に徴用され、父と共に対潜哨戒部隊に配属されたが、海軍軍属の立場で食事に不自由しなかったことからさらに体格が大きくなり、周囲の軍人達の勧めと口利きで、1944年に双葉山相撲道場へ入門した。四股名は、入門当初から「大内山」を名乗りたかったが、大内山は当時の言葉で皇居を意味していたため、戦時中は不敬罪に問われることを恐れて本名の「大内」で相撲を取っていた。戦後になって不敬罪が廃止されたこともあって、1948年5月場所で十両昇進を果たすと、ようやく念願の「大内山」を名乗ることが許された。その後も努力を重ね、1949年1月場所で新入幕を果たした。ちなみに、昭和天皇はこの四股名を意識していたらしく、戦後の力士の中では特に大内山を気に入っていたと言われる。1955年3月場所は大関獲りとして迎え、14日目を終えた時点で12勝2敗という好成績だった。千秋楽の対戦相手は前場所優勝し、この場所も絶好調、13勝1敗の横綱・千代の山雅信だった。当時横綱は他に3人(鏡里喜代治、吉葉山潤之輔、栃錦清隆)いて、通常なら関脇が千秋楽の結びの一番に起用されるはずもないが、鏡里と吉葉山の両横綱にくわえてただ一人の大関である三根山隆司も途中休場、栃錦は皆勤したものの千代の山とは同門のために本場所で対戦することが出来ず、優勝争いを面白くさせるためもあってこの割が組まれることになった。大内山は本割で千代の山を破って両者が13勝2敗で並び、優勝決定戦での再戦では破れて優勝は出来なかったが、場所後に大関昇進が決定した。この決定は当時大関争いと言われていた若ノ花幹士・松登晟郎より先に決まったもので、江戸時代の看板大関を別にすれば史上初の身長2m越えの大関誕生となった。古くから「大き過ぎる力士は出世しない」という悪いジンクスが存在していたが、大内山はこれを破ったと言われた。巨体ゆえに土俵四方の房に頭がぶつかるという珍事も起きたため、土俵の釣り屋根の高さが引き上げられるきっかけにもなっている。大関昇進を果たした大内山は、1955年5月場所の千秋楽にこの場所優勝の栃錦と対戦、大内山が立ち合いから猛烈に突っ張り、再三食いつこうとする栃錦をあくまで突き放して追い詰めるも、最後は乾坤一擲の首投げでその巨体が宙に舞った。勝利した栃錦、敗れた大内山、両者とも後々まで語り草になる一番となった。勝利した栃錦にとっても、取組後に師匠春日野(元横綱栃木山)から「優勝が決まった後の千秋楽で、よくあれだけの相撲を取った」と言われ、春日野から生涯で唯一、褒められた相撲だったという。後日、栃錦はこの取組について「(大内山の突っ張りに)土俵で脳震盪を起こしたようになり、もう一突きでもされたら危なかったが、何故か相手(大内山)が組んできたので、一か八かの首投げを打った」と述懐しているが、大内山によると「栃(錦)関の顔がどんどん赤くなるのが判ったので、『ああ可哀想だな』と思うとつい力が抜けてしまった」のだという。しかし、「考えてみれば千秋楽で、それからしばらく顔を合わせることもなかった。もっと(勝負を)やればよかった」とも語っている。1951年5月場所では痔のため8日目のみ休場(不戦敗)しながら翌日から再出場、10日目に千代の山を降した。千代の山はこの場所を優勝して横綱昇進が決まったため、「休場力士が再出場して優勝力士を破る」という珍記録となった。また大関陥落後の1957年5月場所7日目には栃錦を破り、元大関が金星を獲得するという珍しい記録を残した。その後は膝の負傷に苦しみ、1958年1月場所に12勝3敗の好成績で優勝次点となり、元大関の意地を見せるが、1959年3月場所は前頭19枚目の幕尻で7勝8敗と負け越し、十両陥落が決定的となったことで現役を引退、年寄・錣山(後に立田山へ名跡変更)を襲名し、勝負検査役を務めた。しかし、身長2mの大内山は座っても大きいので真後ろの観客は取組が見えなかったが、検査役からの異動は無かった。その後、部屋の後継者争いに敗れた立田川が、現役力士を一人も連れずに1971年9月に独立した際には同行した。しかし、部屋での関取誕生を見ることなく、1985年11月1日に転移性脳腫瘍のため、東京都千代田区内の病院で死去。。死去から1年余りが経過した1987年3月場所で森乃里治重が十両に昇進し、立田川部屋第一号の関取となった。晩年には両国で「割烹ちゃんこ 大内」を経営し、長男の大内明が引き継いでいる。この店舗は、テレビ東京系ドラマ「孤独のグルメ」Season2・第八話でも紹介されている。身長2m超えの巨躯だが、足腰が柔軟で粘り強いために小兵力士が相手でも速さ負けせず、体重を乗せた猛烈な上突っ張りや素早く上手を取っての鋭い寄り、豪快な小手投げは大物らしい底知れぬ強さを感じさせた。悠然とした土俵態度は揚子江の流れに喩えられ、横綱昇進を期待されたが、優しい性格や膝の故障、および先端巨大症に侵されて果たせなかった。1956年1月場所13日目に若ノ花幹士との対戦が組まれ、掬い投げで投げ飛ばされた際には、大内山の長い脚が土俵上の行司を跳ね飛ばしてしまう一幕があった。この時、跳ね飛ばされて勝負が決まる瞬間を見逃した行司は、検査長(現在の正面審判長)席にいた藤嶌に「どちらが勝ちましたか」と確認をとったという。                  

出典:wikipedia

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