『狼王ロボ』(おおかみおうロボ、 )は、アメリカ合衆国の博物学者アーネスト・トンプソン・シートンによる創作物語。日本では『シートン動物記』の一つとして知られる。原題は「Lobo」。邦題は翻訳書によって異なり、原題をそのまま邦訳した「ロボ・カランポーの王」、「ロボー」「狼王ロボ」などと一定していない。子供向け書籍やテレビアニメなどに採用されている例が多いことから、本稿では「狼王ロボ」として解説する。著者であるシートンは元々博物学者志望だったが、諸事情により画家を志すようになりイギリスに留学後、その傍らで博物学を学び、特に野生動物の生態に強い関心を寄せていた。後年カナダに帰国したシートンは画家として活動を始めるが評価は芳しいものではなく、1892年頃に博物学者に転向。そして1893年、アメリカで牧場を営んでいる実業家からシートンへ「牧場の牛が狼に襲われて困っている。助けて欲しい」という旨の内容が記された手紙が届く。この報せを受けたシートンはニューメキシコ州へ向かい、現地で次々と家畜を襲っていた狼の群れを追う。その群れを束ねる古狼「ロボ」を巡る逸話を基に創作したのが本作品「狼王ロボ」である。なおシートンは同時期に多くの狼狩りに参加した経験があり、各地での体験談を統合した作品が「ロボ」であるとする説もある。本作品が記された19世紀末頃のアメリカで狼は害獣として駆除の対象とされ、各地で狼狩りが盛んに行われていた。当時米国西海岸で約50万頭の牛や羊が狼に虐殺されたという統計が残っている。1896年、ニューヨークに移住したシートンは雑誌に「狼王ロボ」を発表し、1898年の第一作品集「私の知る野生動物」("Wild Animals I Have Known")冒頭に収録した。これが大ヒットになり、シートンの名前は全米で知られるようになった。カナダの博物学者、シートンのもとにある日一通の手紙が届く。送り主はアメリカで実業家として成功し、牧場経営をしている知人だった。手紙を読むと彼が経営している牧場がある地域では、近年家畜が狼に殺される事件が多発しており、動物の生態に関して豊富な知識を持つシートンの助けを借りたいのだという。本来なら狼狩りを専門に行うウルフハンターに依頼するはずが、なぜ学者である自分に助けを求めるのかという疑問を抱きながらも、シートンは牧場があるニューメキシコへと向かった。ニューメキシコの一地区カランポーに到着したシートンは、現地の人々から「魔物」と呼ばれ恐れられる古狼、ロボの存在を知らされる。ロボはがっしりとした巨躯の狼で、自分の倍以上もある体重の牛を引きずり倒す体力と「悪魔が知恵を授けた」とさえ称される知性を持ち合わせていた。今までも何人もの牧場主やハンターたちがロボに挑んだが、策は全て徒労に終わり何百頭もの家畜や猟犬が殺されたという。人間を翻弄し続けるロボに万策尽きたカランポーの人々は、今まで数々の狼の群れを退治してきたシートンに白羽の矢を立てたのだった。依頼を受けたシートンはロボの群れの追跡を開始した。ロボ自身も含めて6頭の小さな群れでありながら、群れを構成する狼たちはいずれも普通の狼より大きく強力な精鋭ぞろいであり、整然とした統率に裏付けされた鮮やかな狩りを見せるロボの賢さにシートンは驚嘆する。シートンは有らん限りの知恵を絞りロボを捕らえようとするが、いかなる巧妙な仕掛けも通用せず、ロボたちは人間を嘲笑うかのように罠をかいくぐっていった。そして追跡開始から3ヶ月が経った頃、シートンはロボの群れの足跡を見てあることに気付く。それは群れにいる特定の一頭にのみ、厳格なロボが例外的に寛容な態度を取っているというものだった。シートンはその特徴から、足跡の主はロボの群れにいる唯一の雌であり真っ白な毛色を持つ「ブランカ」と呼ばれる狼のものと断定する。ロボにとってブランカは妻と言える特別な存在であり、これがロボの唯一の弱点と悟ったシートンは、捕獲の対象をロボからブランカへと変更。間もなくブランカは罠にかかり、投げ縄で絞殺される。妻であるブランカを奪われたロボは冷静さを失い、シートンが仕掛けた罠に捕らわれる。ブランカを殺され、鎖に繋がれたロボはかつての荒々しさを無くし、与えられた食べ物や水を一切口にしないまま餓死する。あくまでも人間に屈服しないロボの最期を見たシートンは、その野生の中にある気高さに敬服すると同時に、誇り高き狼王に対する自身の卑劣を恥じた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。