細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名、豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩初代藩主。細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子。幼名は光千代。はじめ長岡姓を称したが、慶長5年(1600年)に徳川家康の命で細川へ復姓し、細川内記を名乗った。幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれている。 同母兄に細川忠隆(細川内膳家)、細川興秋。世子だった長兄の忠隆が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃嫡されたために、江戸に人質に出されて第2代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が慶長9年(1604年)に世子となった。次兄の興秋は翌年の慶長10年(1605年)に細川家を出奔した。弟の家督相続の決定に不満を持ったためとされる。慶長13年(1608年)、小笠原秀政と登久姫(松平信康の娘)の次女で徳川秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、千代姫は慶長14年(1609年)4月24日、豊前国中津城に輿入れした。元和5年(1619年)、長男光利(のち光尚と改名)が誕生。元和6年(1620年)に父から家督を譲られて小倉藩主となる。元和8年(1622年)には、慶長12年(1607年)に出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちには家老にした。寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された(後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任した)。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。寛永14年(1637年)の島原の乱にも参陣し、武功を挙げている。寛永18年(1641年)、父に先立って死去した。享年55。長男の光利(光尚と改名)が跡を継いだ。墓所は熊本県熊本市の妙解寺。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。