木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名。備中足守藩初代藩主。足守木下氏初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。天文12年(1543年)、杉原定利(道松)の長男として生まれた。父は婿養子で、その妻である朝日殿(杉原家利の娘)の尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)にあった実家に住んでいた。家定の生母は某氏ともいう。初め杉原孫兵衛を名乗っていたが、妹おね(高台院、北政所)が、木下藤吉郎(後の秀吉)の妻となったことから、秀吉の立身に従ってその家人となり、義弟の姓である木下を名乗った。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはなく、諱を家定と改めた時期や経緯については不明。また通説では、妹のおねとやや(長生院)は浅野長勝の養女となっており、浅野長政(長吉)も義弟にあたる。従妹にあたる雲照院(おあこ、杉原家次の娘)を正室とするが、先に家女とされる女性との間に歌人木下長嘯子として知られる長男勝俊をもうけており、その後、正室との間には次男利房、三男延俊、五男小早川秀秋など、嫡庶合わせて八男まであった。武将として活動した記録は特に見受けられないが、天正12年(1584年)に家次が亡くなると秀吉の一門衆で筆頭格となった。天正13年(1585年)に羽柴秀長が大和郡山城に移ると、播磨姫路城に城代として入り、天正15年(1587年)9月24日、播磨国内に1万1,341石を加増され、従五位下肥後守に叙任されて、羽柴姓を与えられた。(時期ははっきりしないが)次いで従三位中納言に叙され、豊臣姓を下賜され、秀吉が奏請して朝廷より菊桐の紋を授けられている。文禄4年(1595年)8月17日、姫路城主2万5,000石に加増された。しばしば大坂城の留守居を務めたが、その際には三男延俊が姫路城の城代となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍・西軍のどちらにも与せずに中立を保った。家定は大坂城を出て、大炊御門近くの京都新城で妹の高台院(北政所)の警護を務めていたが、本戦に西軍が敗れた後の9月16日、大津城の戦いから戻った立花宗茂が2千の兵を率いて京に入り、三条御幸町に陣をしいた。宗茂は使いを出して、「関ヶ原の役はご子息の秀秋が約束を破って東軍に属したがために石田三成は敗北したと聞く。貴殿が太閤の恩を忘れず二心なしというならば、私の兵と共に大坂城に籠城して、秀頼様に忠節をつくすべきだ」と誘ったが、家定は「大政所を守護するのみである。大坂城籠城については今の状況では判断できない。改めて相談しよう」と断っている。高台院と親しい徳川家康は、家定の中立を評価して減封せず、慶長6年(1601年)、備中国足守(同じく2万5,000石)に移封した。しかし家定は領国には下らず、京に住んで出家した。慶長9年(1604年)7月2日、二位法印に叙された。その4年後に亡くなった。享年66。臨済宗建仁寺塔頭常光院に葬られたが、高台寺にも高台院が築いた供養墓がある。菩提寺の常光院には、晩年の家定を描いた肖像画が残っている。没後、高台院が分封の約束を破り、遺領を勝俊にすべて与えたために、勝俊・利房兄弟で遺領が争われて、所領没収の憂き目に遭ったものの、大坂の陣の戦後に利房が領を復して足守藩となした。また三男延俊も豊後国日出藩を開いたが、両藩は廃藩置県まで継続した。ただし五男秀秋の岡山藩は無嗣断絶となっている。
出典:wikipedia
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