保科 正俊(ほしな まさとし、永正8年(1511年) - 文禄2年8月6日(1593年9月1日))は、戦国時代の武将。保科正直、内藤昌月、保科正勝の父。通称は甚四郎。官職は弾正忠。父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。最初は武田信玄の信濃侵攻に抵抗したが、天文21年(1552年)頃に降伏してその家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の1人として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した。特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦では高遠城守備を命じられ、信玄から28か条の印判を与えられている。天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐の際には飯田城を守備したが、織田軍によって落城すると、正俊は水内郡の大日方氏を頼った(『赤羽記』)。本能寺の変で瓦解した旧武田遺領を巡って後北条氏、上杉氏、徳川氏の三者が対立すると(天正壬午の乱)、後北条氏に仕えた正直・昌月兄弟が高遠城を奪回したが、甲斐黒駒合戦で後北条氏が徳川氏に惨敗したのを見て、徳川方に転じた。天正13年(1585年)11月、石川数正が家康の下から出奔すると、信濃松本の小笠原貞慶も呼応して高遠に攻め入ったが、正俊は鉾持除の戦いで小笠原軍に大勝した。
出典:wikipedia
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