イングランド銀行(イングランドぎんこう、)は、イギリスの中央銀行。正式名称は「」となる。本店がシティのに所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」とも呼ばれる。過去には「英蘭銀行」とも書かれた。創立時は大同盟戦争とウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなか。当時は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。また、政府を通してイギリス東インド会社、ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた。中央銀行となるのはピール銀行条例以降である。1701年と1751年の株主層は概観が分かっている(#機能)。1800年8月から1816年8月までの各16ヵ年においては年平均60万ポンドの割引収入をあげて準備金を蓄え、イングランド銀行は1816年に金本位制を採用した。やがてロスチャイルドが台頭し、各国の外債発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。銀価格低下の時期にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事を務め、大不況 (1873年-1896年)にあえぐ世界経済の梶をとった。第一次世界大戦ではJPモルガンが戦時国債の独占代理人を務めた。1934-1935年、イングランド銀行は植民地の中央銀行設立に関わった。戦後は大きな権限縮小を免れ、金プールの運営に参画した。1995年以降、CSD のCREST は国際銀行間通信協会を経てユーロクリアというモルガン資本に編入された。イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票結果により、欧州中央銀行制度を脱退する見込みである。1694年、軍事費を調達する目的で創設。スコットランド人のと財務府長官のチャールズ・モンタギューによる。イングランド王国政府の銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。初代総裁は。当時、同銀行の設立に加え、証券市場の成立などの改革も進められた。1695年10月にジョン・ロックが銀貨の改鋳について建議した。ロック案は閣議決定されて、12月17日に法案となった。ロックは27日に"Further Considerations Concerning Raising the Value of Money" という論文を発表した。翌年1月に法案は裁可も得て成立した。1699年、イギリスが清から広東貿易を許される。1720年、南海泡沫事件。1734年、イングランド銀行はスレッドニードル街の現在地へ移転した。かつては街のグローサーズ・ホール内にあった。1750年、長期国債の発行権を独占する。1764年、砂糖法。1772年、いわゆるが倒産。アダム・スミスの『国富論』執筆に影響した。1780年、が起こる。以来、軍がイングランド銀行の夜間警備にあたるようになった。この警備習慣はライバル銀行家たちの怒りを買ったが、しかし伝統となって1973年まで続いた。1797年、により兌換停止。対仏大同盟に基づいた活動により正貨が流出して、。イギリスの銀行はこの年270行であったが、1810年には783行となる。1810年の地金委員会による調査で、このときの兌換停止は金高騰と為替相場下落の原因と指摘された。1807年、大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたは、息子や総裁を務めたらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた。この禁止は帝国内の経済に長期的な打撃となり、1815年恐慌と1819年恐慌の背景となった。1816-1817年に兌換が部分的に再開され、1823年で全面的に再開された。1822年にハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。このころ外債が洪水のように契約されていた。ロスチャイルドは請負人として最も活躍した。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶためにスターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。また、1823年と1825年に代理商取引法が制定されたことは契約を促した。1823年6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシ団を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった。。ラテンアメリカ投機の一部について株価の暴落したことが引き金となった。フランス銀行に正貨の供給を受けたおかげで、破綻寸前で踏みとどまった。この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量を著しく減らす。1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、が政府により創設される。1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張。勢いづいていたチャーティズムを政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内電信が敷設される。1844年、ピール銀行条例により中央銀行となる。鉄道狂時代が続く。1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、ドーバー海峡横断ケーブル開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる。1854年、高利禁止法が撤廃される。1856年、パリ宣言で私掠船の放棄が謳われる。1857年恐慌。アメリカ株を中心に市場が弱気となる。イングランド銀行は単独で割引を継続。11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止。以後、イギリスが世界の実質的な手形交換所と化す。1861年、それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止。で。発端はの失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの銀本位制廃止。これにより横浜へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。公定歩合10%。二度目の特許状停止。同年、ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定。1857年恐慌から1873年恐慌を経て、が詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ。途中の1868年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事に就任している。終わりの1878年には首相のローズベリーがネイサンの孫ハンナと結婚した。1880年からのボーア戦争では、植民地政府などのために次の金融機関と組んで、非難を浴びながらも国債発行の代理人となった。モルガン・グレンフェル、ベアリングス銀行、ロスチャイルド、JPモルガン1890年、デフォルト寸前のベアリングス銀行を救済。同行の損失を秘匿しつつ、政府・シ団と組んで保証基金を設置、450万ポンドの外債をとりつける。やがて公衆の知るところとなり、1893年恐慌に発展する。1895年、横浜正金銀行の指図でか、イングランド銀行は下関条約の賠償金を市場に放出。資金は供給過剰となる。1899年、インドを金為替本位制とする。インドは植民地であり、世界的な銀消費国でもあった。1ポンド=銀貨15ルピーとした。前もってブリュッセルで国際通貨会議が開かれていた。飢饉に困ったインド人が銀製品の装飾品を売ることで銀価の低落が起こらないように、それから税収を安定させるために、植民地政府は世界で初めて本格的な灌漑事業をインドに展開した。1901年、ルピー銀貨の鋳造益を充てていたインドの金本位準備をロンドンへ移送。翌年、インド政庁管轄の紙幣準備の一部をイングランド銀行へ預託させるとともに、同政庁に金の自由鋳造を断念させる。こうしてルピーを弱めたイギリスは、その輸出においてインド全輸入の6割超を占めた。1901年4月に6千万ポンド、1902年4月に3200万ポンドのコンソル債を一括引受で発行。1903年、プランテーション植民地のマレーシアが、インドと同様に現地政府手形で通貨を保証する金為替本位制に編成された。1907年恐慌をはさんで、1895年と1908年に増収目的で保有証券を売却。また、この恐慌以後はライヒスバンクが、兌換を部分停止したり、またイングランド銀行に対抗して金利を設定したりして、正貨流出の抑止に努める。1909年以降、金本位準備の一部を預金銀行やマーチャント・バンカーに短期通知貸。さらに金本位準備は、もともと新規国債の消化と市場に流通する国債の買い支えに利用されていた。1914年7月30日に4%だった金利を翌日に8%へ、8月1日には10%まで一気に引き上げ。特許状は停止せず。第一次世界大戦中はJPモルガンがイングランド銀行で発行する戦時債券の独占代理人であった。1919年4月、金本位制離脱。1925年9月に復帰する。この離脱期間に世界恐慌の第一波が起こる。国際カルテルが流行。1924年10月、JPモルガンと引受地域を分担しドーズ公債を起債。翌年5月、政府が借款を受ける。1928年、ヴィッカース・アームストロングの合併を援助していたのが実現。大蔵省紙幣とイングランド銀行券の発行が統合される。1929年9月26日、世界恐慌の直前に金利引き上げ。FRB が6.0%であったが、イングランド銀行は5.5%から6.5%に。1931年8月1日、フランス銀行とニューヨーク連邦準備銀行から5千万ポンド借り入れ。9月21日に金本位制離脱。金解禁していた日本からは10-11月に各月とも1.3億円超の正貨が流出した。1934年、ニュージーランド準備銀行ができる。翌年、カナダ銀行とインド準備銀行が開設される。1939年、ナチス・ドイツがチェコスロバキア中央銀行から略奪した金塊を売却するのに協力。1946年、国有化されるが運営目的は何も制限されず、金融監督権限を得る。1947年7月、国際通貨基金に登録されたポンド平価での交換性を一時的に回復するも、交換要求が殺到して6週間後に制限。1949年、ポンド切り下げにより輸出が増加。準備総額は1950年代半ばごろ20億ドル以上に達した。1954年、ロンドン金市場再開。1939年の開戦以来。同市場で南アフリカ準備銀行の代理人を務める。ロイ・ブリッジという為替ディーラーの仲介で国際決済銀行と以下の諸点を確認。イングランド銀行への事前の照会や合意がなくても国際決済銀行は南ア銀行とイングランド銀行金庫室=ロンドン金現物市場で取引をする。国際決済銀行は南アフリカから週あたり最高10万オンス以上は購入しない。その最高額を引揚げるときは事前に通知する。1957年、ポンド危機。公定歩合7%に上昇。1958年、他のヨーロッパ主要国とともに、非ドル地域で保有するポンドに限り交換性を回復した。1962年初め、の代理人として参加国中央銀行に承認される。認められる前は、金プールの前身となるシンジケートにおいて、そこから使用した正金の量をイングランド銀行は毎月末ニューヨーク連邦準備銀行に報告し、そのあとイングランド銀行がシンジケートの誰に保証金を支払わなければならないかNY連銀の指示を待った。1964年、1966‐1967年、ポンド危機。1968年、金市場崩壊。1971年、シリングを廃して1ポンド=100ペンスの10進法とする。また、スミソニアン協定で1ポンド=約2.60ドルに切り上げた。1973年から1975年まで、。これに関するイングランド銀行アーカイブ資料が何ゆえか失われている。イングランド銀行は、ライフボートを通じて26金融機関を援助。また、イングランド銀行単独で14の金融機関にベイルアウト。1976年の銀行法でイングランド銀行は、銀行制度全体を揺るがす大失敗をやりそうな銀行を直接所有監督する権限を得た。1977年、 なる子会社を設立。株主が指名制で会社法との整合性を問われた。1979年、国家債務、868億8500万ポンド。全預金受託機関に対する認可・監督権限を得る。翌年7月まで最低貸出金利17%。1984年、カルボプラチンを開発したの貿易金融子会社が倒産した。救済措置としてイングランド銀行などが1億5000万ポンドの債務保証を与えた。1985年、1ポンド硬貨導入。史上最安の1ポンド=1.04USドル。1986年、ビッグバン。1988年、ジョンソン・マッセイ・バンカーズへの債務保証に使われた資金が全て返還された。1990年、欧州通貨制度に参加。1991年、国際商業信用銀行に営業停止命令。ときの重役の複数がロスチャイルド家と関係。1992年、ポンド危機。この年の国家債務、2145億2800万ポンドに達する。欧州通貨制度を離脱。1995年、証券集中保管機関であるのクラウドプロバイダーに国際銀行間通信協会を選択。1996年7月、ロスチャイルド家当主となるはずであったロンドン家の がパリのホテルで変死。1997年、金融政策委員会へ政策金利など金利設定の権限を移譲。2002年8月、CREST がユーロクリアに買収される。2003年2月、公定歩合3.75%に。48年ぶりの低金利となる。同年7月に3.5%へ。2004年、新ロンドン証券取引所がオープン。スレッドニードルからの移転。2007年、ノーザン・ロックに特別融資。2009年、発券数の週次決算報告を廃止。同年3月末の時点で、ポンド相場は1.42ドル。2011年11月以降、総裁のマービン・キングが国際決済銀行主要会合の議長を兼ねる。2013年7月1日から初めての外国人のマーク・カーニーが総裁になった。2015年5月、イングランド銀行はビットコインフォーラムメンバーになった。イングランド銀行は、ブロックチェーン技術に基づいた法定電子通貨の発行を検討している。政府も1460万ドルの研究資金を提供すると謳っている。創立時から当分は事実上の財務省として機能した。政府に対する直接融資、国債の引受と消化もこなした。1697年に議会の条例により、イングランド・ウェールズでは、イングランド銀行を除いて株式会社銀行がつくれなくなった。株主の銀行家たちが独占するため制定に圧力をかけたのである。これで機能はともかく、地方金融の面倒まで見る立場となった。しかし、この条例は1825年の恐慌で批判された。会社形態の独占が地方金融機関の成長を阻害し、ひいては恐慌を招いたというのである。そこで翌年に解禁される。ただし、ロンドンから半径65マイルに限った。完全解禁は1833年である。1701年の株主は1903人であったが、このうち107人が総裁の資格たる4000ポンド以上の株式を保有していた。その107人は、創立時の出資者を多数ふくむ。創立時の出資者で核となるのはセファルディムだった。筆頭は。総裁資格をもつ107人のうち、およそ9分の1がユダヤ人であった。メディナとスペイン系のは同行で大口の地金売りであった。1751年では、3294人の議決権を有する出資者のうち約1000人がオランダ人またはフランダース人であった。総裁資格のある者495人のうち、少なくとも105人がオランダ人であった。10年ほどするとアムステルダム銀行で信用危機が起こった。スイスの株式保有者で4000ポンド以上にのぼったのはベルンが最初。ケンブリッジ大学の31あるカレッジで最古のも株式を保有。1944年までに国内ロンドン外支店は17店舗をつくっている。このうち14は中央銀行としてスタートするまでに設立され、そのうち5つは大不況の始まるまでに閉鎖されている。この数は同時期の大陸系中央銀行と比べると少ない。実は準備率も同様である。産業革命を先駆けたイギリスの金融市場は大陸より手形制度を早く発展させた。それでイギリスの銀行は一般に預金通貨の発行高が大陸系銀行よりも高く、イングランド銀行も例外ではなかった。そうした中でイングランド銀行がベアリング危機等でベイルアウトするときは、ロンドン手形交換所加盟銀行と連携した。欧州の国際決済銀行ネットワークを小さくしたようなものがイギリスにはずっと早くできていたことになる。イングランド銀行にとり加盟銀行はよほど可愛いと見える。1930年8月9日、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドは加盟銀行ウィリアムズ・ディーコンズ・バンク" の経営破たんをネット価格23万5千ポンドで買収することにより、株主がピンチをかぎつけるまえに救済した。イングランド銀行は病み上がりのディーコンズが再出発できるように西部支店を譲渡した。以後もロイヤルバンクを通じて資金を融通していたが、1940年で321万2千ポンドも焦げついていた。渉外事業でも加盟銀行と連携している。1931年7月にピアソンが50%を支配するロンドンラザードが休業瀬戸際となって、翌年5月イングランド銀行はフランスの有価証券を担保に加盟銀行の1行と共同融資にふみきった。現在は1998年イングランド銀行法で制定された諸機能、つまり物価安定の維持と英国政府の経済政策支援を遂行する。かっては銀行業界の規制・監督も行っていたが、この責任は1998年以来、に移行した。スコットランドと北アイルランドの通貨発行権はその地域の銀行がもっているが、イングランド銀行に通貨発行額とほとんど同額の預け入れを義務付けられている。中央銀行という範疇を超えて機能している可能性が疑われている。イングランド銀行は国際決済機関セデルに数十の匿名口座を持っていた。セデルは内緒で①金融機関の支店が②国際金融市場で決済する便宜のために、匿名口座を開いていた。イングランド銀行が匿名口座を持つ場合、述べた①②のいずれにもあてはまらない。1899~2014年現在までのイングランド銀行の歴代総裁は以下の通り。ただし、以下の表はイングランド銀行ホームページの資料を基に作られたものである。
出典:wikipedia
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