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シャキール・オニール

シャキール・ラシャウン・オニール(Shaquille Rashaun O'Neal ,1972年3月6日 - )は、アメリカ合衆国・ニュージャージー州ニューアーク出身の元プロバスケットボール選手。「"Shaquille Rashaun(シャキール・ラシャウン)"」とは、アラビア語で「小さな勇士」という意味である。2mを超える巨人たちの集まりであるNBAにおいても、ずば抜けて巨大な体躯を誇った人物。巨躯に見合わない高い運動能力と技術を有する、リーグ屈指のスタープレイヤーの一人だった。そのコミカルなキャラクターは、「SHAQ(シャック)」の愛称で親しまれている。実の父ジョセフ・トーニーは高校時代からバスケットボールのスター選手で、シートン・ホール大学に進学したが薬物中毒で途中退学し、1972年12月には麻薬購入のために小切手を偽造した罪で連邦刑務所に収監された。そのため母ルシールは幼いオニールを連れ、フィリップ・ハリソンと再婚する。それから今日までオニールはフィリップを本当の父親と考えている(後に姿を現したトーニーはインタビュアーに「テレビでプレ・オールスターゲームを見るまで息子の行方が分からなかった」と話した。トーニーは1993年のオーランド・マジック対ニュージャージー・ネッツの試合後にオニールに会うだろうと語ったが、オニールは現れなかった。トーニーは2002年の時点でニューアークの施設に住んでいたが、オニールは彼に会う考えはないと語っている)。1992年のNBAドラフトでルイジアナ州立大学からオーランド・マジックに全体1位で指名されオニールはNBA入りを果たす。ルーキー・イヤーからバスケットのゴールをダンクシュートで2度も破壊(1度はリングをもぎ取りボードが粉々になった)するというパフォーマンスを見せ、改めてその怪物ぶりを示している(因みに両試合ともテレビで全米中継されていた。また、これが原因で現在のボードとリングの接合部は、過重を吸収するショックアブソーバー機能を持たせたバネ結合に改良された)。チームを41勝41敗と勝率5割に導いたものの1勝差でプレイオフ進出を逃した。ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞し、華々しいスタートを切った。1993-94シーズン、アンファニー・ハーダウェイがトレードでマジックに加入した。オニールを中心にマジックはチームとして機能し始め、球団初のプレイオフ進出を果たした。また、オフにはシャック・ディーゼルの名でラップのCDをリリースし、チームメートのアンファニー・ハーダウェイおよびニック・ノルティと共に映画『Blue Chips』に出演してハリウッドデビューを果たした。しかし、彼のこういった副業への取り組みは、バスケットボールに対するプロ選手としての意識の低さを示しているとして、チーム関係者に批判されることもあった。さらに初のプレイオフの敗因が、オニールがフリースローをことごとく外したためだったこともあり、まずフリースローの練習をしろ、という批判も多かった。1994-95シーズン、マジックに新たにホーレス・グラントが加わりオニールは毎試合インサイドを牛耳るようになり、前年逃した得点王の座についた。オニールとスーパースターに成長を遂げたハーダウェイとのコンビは「マジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル=ジャバー以来の強力デュオ」といわれた。オニールはチームをイースタン・カンファレンス最高勝率に導き、プレイオフでのホームコートアドバンテージを獲得した。そしてチームを初のNBAファイナルへと進出させることに貢献した。だが、ファイナルではアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーを擁するヒューストン・ロケッツの前に1勝も出来ずに敗退した。オニールはオラジュワンにベテランとしての上手さを見せ付けられた。それでも復帰したばかりとはいえマイケル・ジョーダンのいるシカゴ・ブルズをカンファレンス準決勝で破りファイナルに出場したことはオニールに取って大きな経験となり、NBAにとっても新たな時代を予感させる出来事であった。1995-96シーズン、オニールは28試合を欠場するが、その間にハーダウェイが目覚しい活躍を見せマジックは勝ち星を積み重ねていた。ハーダウェイがオニールを上回る契約をマジックと交わしていたこともあり、この辺りから二人の不仲が徐々に表面化し始める。チームは2年連続で地区優勝を果たしプレイオフで再びブルズと対戦したが、今回は全く歯が立たずに敗退、オフにフリーエージェントとなったオニールは、ロサンゼルス・レイカーズへ移籍した。1996年オフ、オニールは7年間1億2,000万ドルという契約でロサンゼルス・レイカーズに入団した(オニールは昔からレイカーズのファンだった)。レイカーズはオニールを含め複数のオールスター選手を抱えるチームだったが、オニールの唯我独尊のスタイルは相変わらずで、同じ年に入団したコービー・ブライアントとの確執も度々取り沙汰されるようになり、彼が移籍してから3年の間はファイナル進出はほど遠い状態だった。1999年オフ、チームがフィル・ジャクソンをヘッド・コーチに迎えるとレイカーズはオニールを主軸にトライアングル・オフェンスを布いて一気にウェスタンカンファレンス屈指の強豪へと生まれ変わった。オニール自身もチームプレーヤーへと変貌、1999-2000シーズンはチームを破竹の連勝に導きホームコート・アドバンテージを獲得する。プレイオフでは勝負強い試合運びを見せ、遂に念願のNBAチャンピオンとなる。オニールはこの年、レギュラー・シーズン、オールスター、ファイナル全てのMVPを独占している。2000-01シーズン、ホームコート・アドバンテージはサンアントニオ・スパーズに譲ったものの、プレイオフに入るとレイカーズはウェストの対戦相手をことごとく無敗で退け、最終的にこの年のプレイオフを15勝1敗という強さで乗り切りNBA2連覇を果たした。オニールは2年連続でファイナルMVPに選ばれた。翌2001-02シーズンは、足の怪我の影響で15試合を欠場するが、プレイオフでは調子を上げまたもファイナルへ進出。フィル・ジャクソンに3度目のNBA3連覇(スリーピート)、初の4勝0敗でのファイナル勝利をもたらし、オニール自身も3年連続ファイナルMVPに選ばれた。3連覇達成は史上3チーム目(他はボストン・セルティックスとシカゴ・ブルズのみ)という偉業である。2002-03、03-04シーズンはプレイオフに進出するも、それぞれカンファレンス準決勝、ファイナルで敗退してしまう。チームでは以前から噂が絶えなかったオニールとコービー・ブライアントの確執が一層騒がれるようになり、結局オニールはレイカーズを去った。オニールのトレードは、オフにFAとなるコービーが球団に「若い自分を採るか、オニールを採るか(これ以上オニールとプレーする気はない、彼が残るなら自分が出て行く)」と迫ったことによる、と言われている。2004-05シーズン、イースタン・カンファレンスのマイアミ・ヒートへと移籍、これにより東西の勢力図は大きく変化する。オニールはチームメイトでオールスターガードのドウェイン・ウェイドとともにヒートをイースタン最高の成績に導き、チームを一気に強豪へと押し上げた。シーズン後の2005年8月、ヒートと5年で1億ドルの長期高額契約を結んだ。そして2005-06シーズン、プレイオフ開始前の下馬評は高くなかったが、デトロイト・ピストンズをカンファレンス決勝で破った後、ファイナルではダラス・マーベリックスと対戦、4勝2敗でチームを初優勝へと導き、自身4つ目のチャンピオンリングを手に入れた。ヒート移籍の前後から、以前のような圧倒的な支配力に陰りが見え始めたオニールだが、このシーズンはその衰えが数字にもはっきりと現れ、ルーキー時代から続いていたシーズンアベレージのダブル・ダブルが初めて途絶えたが、それでもオールNBAファーストチーム入りを果たし、リーグのトップセンターであることを証明した。故障による欠場が多くなり始めたオニールの2006-07シーズンの出場試合数は僅か40試合に留まった。シーズン後半には復帰し、ウェイド不在という災難にも見舞われていたチームを牽引するも、プレイオフでは1回戦でブルズに4戦全敗で敗れた。シーズンの成績は初めて平均得点が20点台を割り、12年間続いていたオールNBAチーム入りも途絶えた。翌2007-08シーズン、ヒートの低迷の度合いは一層強まり、シーズン序盤から大きく負け越した。そしてシーズン途中の2月に、ショーン・マリオンとマーカス・バンクスとの交換で、フェニックス・サンズに放出された。この背景には、2007年秋に夫人との離婚を申請したことなど、私生活における問題を抱えていたことや、パット・ライリーとの確執も影響している。なお、ヒート入団時には「俺がこのチームを優勝させてやる」と発言し、それを見事に実践してみせたが、退団時には「もうこれで、クリス・クインやリッキー・デイビスのような選手と一緒にプレーしなくて済む」と、ライリーを皮肉る発言をした。サンズに移籍したオニールだったが、数年前にMVPの価値観を巡って舌戦を繰り広げ、不仲説が取り沙汰されていたスティーブ・ナッシュとの関係にも注目が集まった。移籍当初こそチームのスタイルとプレーがかみ合わずに負けが先行、チームも一時地区首位から転落するが、その後チームのスタイルとプレーがかみ合いだすとオニールも復調し、チームはプレイオフに進出。ただプレイオフ1回戦でチームはサンアントニオ・スパーズに敗れてしまう。なお2008-09シーズンは、オールスターゲームに出場した際に11分間の出場ながらコービー・ブライアントと共にオールスターでは3度目となるMVPを受賞。かつてレイカーズ時代に不仲で知られた二人であったが、MVP受賞記者会見の後で抱き合うなど、関係が改善している様子が明らかになった。2008-2009シーズン、プレイオフ圏内に残れずシーズンを終了した。2009-2010シーズンよりクリーブランド・キャバリアーズに移籍。2010年にボストン・セルティックスに移籍。しかし、慢性的な膝の怪我で欠場が多く、衰えも隠せなかった。チームはプレーオフ・カンファレンスセミファイナルでレブロン・ジェームス、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュのビッグスリー擁するマイアミ・ヒートになすすべなく破れた。そしてオニールも膝だけでなくアキレス腱も痛めるなど満身創痍の状態で殆ど出場機会もなく、プレーオフ敗退後にドック・リバースHCから "引退勧告" を告げられた。2011年6月1日、フロリダ州オーランドの自宅から、自身のツイッターで19年にわたる現役生活からの引退を表明した。オニールが引退を表明して間もなく、ロサンゼルス・レイカーズは、オニールが着けていた背番号「34」を永久欠番にすると発表した。通算得点で歴代6位の2万8596得点、通算リバウンド数で歴代12位の1万3099本、通算フィールドゴール成功率(2000ゴール以上)はアーティス・ギルモアに次ぐ歴代2位の58.2%。なお、苦手としていたフリースローの成功率は52.7%だった。2013年4月2日、ロサンゼルス・レイカーズ時代に着けていた背番号「34」が永久欠番になるセレモニーが、ステイプルズ・センターで行われた。2016年2月9日、マイアミ・ヒートは、オニールがヒート在籍中に着用していた背番号「32」を永久欠番にすると発表した。巨躯に似つかわしくない素早い運動能力を発揮し、ペイントエリアで唯一無二の存在感を放つプレイヤーであった。オニールの象徴は“SHAQ ATTACK”と称される豪快なダンクシュートである。本人としてはボールを受け取りリングに叩き込むだけだが、一連のムーブでことごとく相手選手を吹き飛ばす規格外の破壊力を誇る。圧倒的なパワーだけでなくアスリートとしての走力まで備えており、速攻時にその巨体がコートを駆け上ってアリウープを叩き込むさまは圧巻。「黒いハリケーン」と称され、ブロックに立ち向かう者は皆無である。キャリア初期には技術で相手に立ち向かうよりも、そのパワーで圧倒することをプレイの身上としていた。当時のオニールに対抗できる選手は、同ポジションのアキーム・オラジュワン/パトリック・ユーイング/デビッド・ロビンソン/同期のアロンゾ・モーニング/フォワードのデニス・ロッドマンといったところだった。1994-95年のファイナルでは、オラジュワン率いるロケッツに4連敗した。オニールはオラジュワンとのマッチアップにおいて終始圧倒され、オニール自身「パワーだけではダメだ」と格の違いを見せつけられた。(後にNBA入りするティム・ダンカンもパワーで押すシャックよりもテクニックのあるモーニングの方が手強いとルーキー時代のインタビューで語っている)その後はスピンムーブや、高さと幅を活かしたフックシュートを身に付けるなど、年々技術的な向上を見せ、パワーと技術を兼ね備えるリーグトップクラスのセンターとなっていった。その一方で、オニールは非常に自己中心的な選手としても有名で、自分が目立った上で勝たなければ気が済まないというきらいがあった。しかしフィル・ジャクソンの下で考えを改めると一変、チームのためにディフェンスやリバウンドに精を出し、オフェンスでは味方が攻めやすいようにスクリーナーとして働き、パスを捌いて(元々パスセンスにも優れている)勝利に貢献するようになる。初優勝を果たすとこの傾向はさらに顕著になり、大黒柱としてチームを支える存在となった。またヒート移籍後はチームのエースであるドウェイン・ウェイド中心のオフェンスに、不満をもらすことなくプレーした。現役最強センターと謳われたオニールだが弱点はいくつか存在し、特にフリースローは彼の最大の弱点となっている。フリースロー成功率は毎年50%前後で、フリースロー専門のコーチがついてもさほど改善されなかった(フィールドゴール成功率のほうがフリースロー成功率より高いが、これは通常では考えられない)。そのため、相手チームがわざとオニールにファウルをしてフリースローを打たせるハック・ア・シャックと呼ばれる作戦が展開されるようになった。2000年のトレイルブレイザーズ戦がその代表である(上述の5月20日の試合)。オニールのフリースローの失敗が敗因となることもたびたびあった。オニールの手の大きさに対して、ボールのサイズが小さすぎるためにコントロールしづらいということも、フリースロー失敗の大きな要因となっている。またシュートエリアの狭さも大きな弱点となっており、ポスト以外でのシュートが極端に苦手である。全盛期の3連覇時には、上述のオラジュワン、ユーイング、ロビンソンが年齢による衰え、モーニングは腎臓の疾患により対抗できるセンターは明確に存在しなかった。パワーフォワードのティム・ダンカンとラシード・ウォーレス、センターフォワードのベン・ウォーレスが、インサイドでオニールに対抗できる存在だった。オニールとダンカンの優勝回数は共に4回で、事実上2000年代はオニールとダンカンがNBAの中心的な存在だったと言える。自身のプレイスタイルの後継者とも云うべき、ドワイト・ハワードの登場により、本格派センターの対決が実現となった。ハワードはオニールと同じく、パワーと身体能力で相手を圧倒するプレースタイルをとるため、若き日のオニールを思わせる。フリースローが大変苦手である部分も共通している。単なるライバルを超えた、師弟関係のようなものが出来上がりつつある。キャリア終盤は体重過多や体脂肪率の激増などの問題により、結果としてスタミナ不足や膝の故障を抱えるようになるなど衰えを見せていたが、パワーで相手をねじ伏せるよりも大きな身体をうまく使い、技術で相手を翻弄するスタイルを身に付け、その支配力は健在であった。

出典:wikipedia

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