日南郡(にちなん-ぐん)は、現在のベトナム中部に設置された中国古代の行政区画。漢代から唐代にかけて、断続的に設置された。語源は、太陽の影が南側にできる地という意である。秦代に象郡とされたが、秦末の混乱により南越国が成立しこの地を支配していた。前111年、前漢が南越国を滅ぼすとその版図に南海郡、蒼梧郡、鬱林郡、合浦郡、交趾郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡、象郡の10郡を設置し、交州の管轄に置いた。当時の日南郡は下部に朱吾県、比景県、盧容県,西巻県を管轄し、馬援の南征後に新たに象林県が設置され、1万4千余戸、人口6万9千人を擁していた。新朝が成立すると一時日南亭と改称されたが、後漢により日南郡の名称に戻されている。当時は中国支配に対する反乱が相次ぎ多くの官寺が焼き討ちに遭うなどの混乱がたびたび発生している。後漢末の西暦192年、区連による大規模な反乱が発生、象林県を支配下において林邑国(チャンパ王国)を建国している。三国呉のとき、林邑国は盧容県を占領した。南朝梁のとき、林邑国が日南郡全域を支配下に置いた。605年(大業元年)、隋の劉方が林邑国に遠征して日南郡の故地を奪回し、蕩州・農州・沖州の3州を置いた。607年(大業3年)、驩州(晋の九徳郡)が日南郡と改称された。日南郡は九徳・咸驩・浦陽・越常・金寧・交谷・安遠・光安の8県を管轄した。622年(武徳5年)、唐の南徳州総管府が置かれた。625年(武徳8年)、徳州と改められた。627年(貞観元年)、驩州と改められた。628年(貞観2年)、驩州都督府が置かれた。742年(天宝元年)、驩州は日南郡と改称された。758年(乾元元年)、日南郡は驩州と改称され、日南郡の呼称は姿を消した。
出典:wikipedia
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