島 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。本項目でも特に断りが無い限り「左近」と記す。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である。三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)。島氏は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたという。島氏の出自は明らかでないが、本姓は藤原姓であるという。また、清興の出身を対馬国とする説もあったが、現在では大和国出身であることが明らかとなっている。なお、近年では「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りとする説もある。大和平群郡の国人の家系に生まれ、当初は隣国河内の守護で、大和国にも勢力を扶植していた畠山氏に仕えた。畠山高政が三好長慶と戦った教興寺の戦いに参加したが、高政は敗北し、清興も敗走している。その際、筒井順昭の指揮下で戦ったことが縁で畠山氏の没落後、筒井氏に従属する領主の一人となったようであるが、史料からは確認出来ない。筒井氏縁戚の山田順延(添下郡山田城主、筒井順延ともいう)の口碑には「永禄2年に平群郡の島と紀が松永弾正より逃れてきたのを匿ったために山田城は松永に攻められて落城し順延以下城兵は殆ど討死した」とある。この「島」が左近である可能性がなくはないが、確かなのは永禄年間に嶋左近が平群谷で活動した形跡が史料にみえない。筒井順昭の後をわずか2歳で継いだ筒井順慶を侍大将として盛り立てたといわれるが、当時の筒井家の家臣団の中には名が見えない。『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、当時の筒井家の有力家臣には八條相模守長祐、松蔵権助秀政、飯田出羽入道、中坊飛騨守秀祐などの名が知られるが、嶋氏関係の氏名は見当たらない。筒井家の家臣関係の伝承や文献類に島左近の名が初めてみえるのは元亀2年(1571年)の辰市合戦直前で、「嶋左近尉殿」とある。それ以前までに順慶が大和国の覇権を争って松永久秀と戦った筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦いなどでは動向が不明であるが、宇陀郡秋山氏の伝承では嶋左近を「宇陀ノ城主」とする(どこの城かは不明)。辰市合戦に際して宇陀より出撃したとの伝承もあるが、これが「宇陀ノ城主」とする伝承と関係するかもしれない。いずれも確証を欠くが、なぜ宇陀郡に左近の名が伝わるのかはよく分からない。確証はないが、何らかの形で筒井順慶を支え続けたといい、その功績によって筒井家の重臣に加わったという。一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼「右近左近」と並び称されたというが史実ではなく、『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、実際に筒井家の両翼と呼ばれたのは松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝だったようだ。順慶はやがて松永久秀を倒し(信貴山城の戦い)、本能寺の変といった存亡の危機も乗り越え、筒井家による大和国の統一を成し遂げたが、その後の左近は吐田城を接収するなど内政面で順慶を支えていたらしい。椿井城主となったのもその頃というが、その後まもなく主君である順慶が病に倒れてしまった。跡を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、筒井家を辞することになった。筒井家を辞したのは定次の将来を見限ったと言われているが、実際は島領の農民と中坊秀祐領の農民との水利をめぐる争いが原因とされる。筒井家を辞したのは天正16年(1588年)2月で、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食したと言う。その後、蒲生氏郷に仕えた。山鹿素行の『武家事記』には筒井家を去った後に豊臣秀長に仕え、秀長の没後は豊臣秀保に仕えたという。石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であった(『常山紀談』)。もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説も有力であるが、それでも破格の待遇であったことには違いがない。屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられた。石田三成は小姓の頃に知行400石全てを投げうって、柴田勝家や主君・豊臣秀吉が1万2千石で召し抱えようとした豪傑・渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱えており、その話を元にして左近召し抱えの逸話が作られたとの説もある。『多聞院日記』には、天正20年(1592年)4月に左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と書かれており、その頃には三成に仕えていたとされるが、三成の佐和山城主就任は文禄4年(1595年)であり、時期のずれがいずれの史書でも見受けられ、この逸話も史実かどうかに疑問が持たれている。左近が石田三成に仕えていた時代の動向はこれまで不明なことが多かったが、近年、左近が記した書状が2通見つかった。2通はいずれも、天正18年(1590年)7月、小田原征伐の後に書かれたもので、常陸国の戦国大名、佐竹義宣の重臣小貫頼久と佐竹義久に宛てており、左近は三成の下、佐竹氏との交渉で重要な役割を果たしていたことが分かるという。従って、左近は少なくとも小田原征伐の頃には三成に仕えており、既に重臣クラスの立場にあったと考えられる。その後、左近は三成に従って朝鮮出兵に従軍したと伝わる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの家康の美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利した。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わった。関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。その最期については、とする説がある。最期の折の勇猛さ・狂気じみた左近の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となった。特に左近を討ち取った黒田長政軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの俗説が伝わるほどである(『常山紀談』)。江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老いた武将達がその服装について若侍相手に語り合ったが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。久能山東照宮博物館に左近が使用したと伝わる兜が収蔵されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。