小谷野 敦(こやの あつし、1962年12月21日 - )は比較文学者、評論家、小説家。禁煙ファシズムと戦う会代表。愛称、猫猫先生。茨城県水海道市(現・常総市)生まれ。恋愛の比較文学的研究から出発し、『もてない男』を出版しベストセラーになる。「新近代主義」の提唱や反禁煙の主張などの言論を展開している。二人兄弟の長男として生まれる。父は時計職人、母は煙草屋の看板娘であった。小学校2年生のとき交通事故で入院。同じころ父親が転職したためもあり、小学校3年生のとき埼玉県越谷市に転居。転校先の越谷市立出羽小学校でいじめを受ける。同校4年生の時、国語の教科書に載っていたシェイクスピアの『リア王』の児童向けリライト版冒頭部分に影響され、学級新聞に小説『新・リア王』を連載したことがある。越谷市立富士中学校在学中は落語研究会所属で漫画家志望だったが、絵を描く能力に関してイラストレーターの叔父から疑念を表明され、高校時代に大江健三郎や太宰治を読むようになると小説家志望へ転じる。高校受験では埼玉県立浦和高等学校を受験したが失敗し、海城高等学校に進学。同校ではなかなか友人ができず、いじめっ子集団の標的にされ、成績は平均よりも下を低迷していた。このいじめは、2年生になって成績が向上するまで続いた。陰惨な環境の男子校だったため「男性的なもの」を激しく嫌悪し、女性的なものに憧れて『キャンディ・キャンディ』に熱中した。幼い頃からクラシック音楽に惹かれ、その延長線上でバレエ音楽『コッペリア』『くるみ割り人形』の原作者E・T・A・ホフマンに関心を寄せ、そのため「大学ではドイツ文学科へ進もうと思っていた」こともあるという。大学受験では一年間の浪人生活を経て東京大学文科III類に進学。1984年、3年次から英文科に進学。大江と同じように23歳で芥川賞を取って大学卒業後ただちに作家生活に入ることを考えたが、大学時代は児童文学のサークルで出している手書きオフセット印刷の同人誌に小説2篇と戯曲1篇を載せたがサークルの内部で酷評され、自信を失って挫折。しかし大学の卒論を書くことが面白かったことから学者をしながら評論めいたことを書こうと考え、大学院に進学、1990年6月、東大大学院での修士論文『英雄の生涯─馬琴、シェイクスピア、19世紀アメリカ小説における近代の運命』が芳賀徹の推薦で福武書店から『八犬伝綺想』として出版される。1990年8月からカナダのブリティッシュ・コロンビア大学アジア学科の博士課程に留学し、週に一度だけティーチングアシスタントとして日本語の授業を受け持ちつつ、鶴田欣也、モストウ、ブレイマーの指導の下で日本文学や比較文学を研究する。留学中は『日本文学』『批評空間』に論文を発表。博士論文のテーマには谷崎潤一郎を選ぼうと考えていたが、ブリティッシュ・コロンビア大学では鶴田と対立する教員から嫌われてティーチングアシスタントから外された後、英語力の不足などが理由で博士号取得資格試験に失敗。鶴田からは「評論家的な資質が自分に似ている」と評され、芳賀らとは後に学問的な対立をしたこともあり、のちに「お前の恩師は誰か、一人挙げろと言われたら、鶴田欣也をあげる」と言っている。1992年に日本へ帰国。1993年4月から帝京女子短期大学にて英語の非常勤講師を務める。1994年4月、大学院の先輩でロシア語教官であるヨコタ村上孝之助教授の世話により、大阪大学専任講師に就任。大阪府池田市石橋に転居。1997年には東大で博士号を取得。同年、大阪大学では助教授に進んだ。1998年12月12日、大阪大学吹田キャンパスのコンベンションセンター・MOホールで開催された「ジェンダー・フリー社会をめざす若者セミナー'98」主催のシンポジウム「「ダンジョサベツ」なんてカンケーない?──ジェンダー論の言葉はどうしたら社会に伝わるか──」にパネリストの一人として出席。この席上、小谷野は「私は以前、レズビアンからレズビアンだと告白されてそのあと三日間吐き気が続いた」と発言したところ、同じパネリストの伊藤悟からホモフォビア肯定と受け止められ、猛烈な非難を受けた。ただし、伊藤からの非難について小谷野は誤解であるとし、反論と弁明のメールをメーリングリストに投稿している。1999年3月に大阪大学を辞職して東京都三鷹市に移住。この辞職について小谷野本人は、酒乱の同僚から恫喝や暴言を受け続け、神経症になったためとしている。また、辞職の直前、1999年1月にちくま新書から『もてない男──恋愛論を超えて』を刊行し、新書としては異例ながら10万部を超えるベストセラーになった。同書が反響を呼んだ原因について、小谷野は「誰も言っていなくて、だけど、みんなが思っていたことを言ったからでしょう。そんなのはコロンブスの卵みたいなもんで」と分析している。小谷野はまた、「これまでのところ、私はある種の強運を持っていると思っている。たまたま阪大を辞めたのと同時に本がベストセラーになったため、今日まで食うに困るわけでもなく生き長らえているのは、一つの強運だろう。(中略)だが、庇護者運は悪いらしい」とも発言している。1999年10月、5歳上の言語学者で大阪大学助教授の由本陽子と「結婚」し、週刊誌から「裏切り」と報道された。この「結婚」は挙式のみで婚姻届なしの遠距離別居であり、小谷野によれば「恋愛できない人間にお勧めの『友愛結婚』の実践」だったが、婚姻届の提出について由本の同意が得られなかったため、2002年夏、事実婚から3年弱で小谷野の側から「離婚」を申し入れた。しかし、2003年秋ごろにはやはりもう一度結婚したい、あるいは恋人が欲しいという思いが強くなった上、2004年春、好意をもっていた大学院生の女性の一人に、手ひどい振られ方をしたことがきっかけで結婚情報サービスに入ろうとしたり、出会い系サイトで女性遍歴を重ねたり、で「結婚相手に求める七か条」を書いたりするなどの試行錯誤を経て、2007年、ブログで知合った21歳年下の東京大学大学院修士課程在学中(当時)の柴田葵(のち、作家となって筆名:坂本葵)との婚姻届を提出した。また、個人的な趣味としては「古典的なものが好き」で、歌舞伎、落語、相撲などを愛する。また、NHKの「大河ドラマ」に関してもマニアックなファンである。音楽ではクラシック、オペラなどが好きであり、大学院では歌舞伎とオペラの比較研究を志していたこともある。その一方、「ロックなどという若者向けの音楽を論じて、受けを狙う学者は気にいらない」「ミステリのような通俗小説を、学者で愛好する人がいるのが理解できない」「筒井康隆のようなSF的設定の小説は面白いが、SF小説自体は、SF漫画やSF映画に乗り越えられている」などと語っている。その他、特撮を愛好する一面もある。2008年8月、東京大学駒場キャンパスにおける歩行喫煙の是非を巡って東京大学教授下井守と争ったことがきっかけで、禁煙に関する東京大学の方針に従わない態度が問題となり、2009年3月をもって東京大学非常勤講師を雇い止めにされる。これに伴い、2009年4月9日、東京都杉並区で人文系教養塾「猫猫塾」を開設した。ただし講座は2012年度をもって募集停止となっている。研究対象は恋愛の比較文化論で、博士論文『<男の恋>の文学史』では、従来、成立したものとしてしか論じられてこなかった恋愛を「片思い」の視点から記述、中世以前の日本文芸では、男の片思いは共感をもって描かれてきたが、徳川時代の文芸では、恋愛の主体が女性に移ると共に、もてる男が英雄視されるようになり、それが近代になって男の片思い文学が復活したと論じた。また『<男の恋>の文学史』の続編、『恋愛の昭和史』では、近代的な「恋愛」観念が国民的レベルで成立したのは昭和30年代であると主張し、大衆小説における恋愛観念の変遷を辿っている。これら歴史的な研究と並行して、従来の恋愛研究の批判を展開する。博士論文の総論「日本恋愛文化論の陥穽」を収めた『男であることの困難』では、「恋愛」という概念が明治期に輸入されたという説に対し、それは徳川時代と比較しての話に過ぎないと論駁した。また『江戸幻想批判』では、徳川時代の遊里などを過剰に美化する風潮を批判している。これらは、歴史的事実をきちんと検証しないまま、現代人の願望を過去に投影して安易に書かれた「恋愛の比較文化研究」が、刊行・評価されることに危惧を表明したものである。『江戸幻想批判』では佐伯順子の『遊女の文化史』を、中世に関しては成立している遊女神聖説を近世に適用したとして批判していたが、2007年の『日本売春史』では、中世に関してもそのような説は成立しないと主張、佐伯説を「密輸入」したなどとして網野善彦らをも批判している。なお同書は、古代から現代までの売春の変遷を辿ると同時に、各時代の売春が後世の都合によりどう解釈されてきたか追跡したものである。また2008年には『江戸幻想批判』の増補改訂版も刊行した。『反=文藝評論』では、村上春樹の『ノルウェイの森』や俵万智の『サラダ記念日』が刊行された1987年以降、現代文学が新たな恋愛幻想に取り憑かれ、カジュアル的なセックス描写を批判するとともに、男女関係の現実を描くリアリズムの文学として、藤堂志津子や佐川光晴を高く評価した。『リアリズムの擁護』では、田山花袋の『蒲団』に遡り、赤裸々な事実の暴露という意味での、リアリズムの系譜を掘り起こしている。『私小説のすすめ』でも、自分や周囲のことを書いた小説を「私小説」と定義し、私小説とは流派、洋の東西を問わず存在する小説形態であると主張している。また志賀直哉に始まる「心境小説」系私小説を「随筆」として否定すると同時に、『蒲団』以降の「暴露型破滅型」私小説を高く評価し、自らの成長のためには、情けないこと、苦しい思い出こそ書くべきだと読者に勧める。私小説の再評価と併行するかのように、文芸批評における伝記研究の復権を主張し、自ら作家評伝の執筆を手がけている。『片思いの発見』所収の「恋・倫理・文学」では、文学と倫理の関係を論じて作家の伝記の問題に及び、国木田独歩の評伝がロマン派的な恋愛幻想により歪曲されていると指摘した。『谷崎潤一郎伝──堂々たる人生』では、従来、自律した虚構としてその作品が論じられてきた谷崎の生涯を論じて、多くの作品が実生活を素材として書かれていることを主張し、「松子神話」など性や恋愛をめぐる谷崎幻想の超克をめざした。『里見弴伝──「馬鹿正直」の人生』では、ヨコタ村上孝之ら「近代恋愛」論者が、「恋愛」が西欧から輸入されたと見なしている明治以降の日本においても、ポリガミックな男女関係が残存していたことを、里見の生涯と文筆を通して検証した。小谷野の文藝評論は、日本の前近代の文藝や、海外の文学をも対象にしている。江戸文藝に関しては、八犬伝をめぐる論文を『日本文学』に発表した他、『八犬伝綺想』、『夏目漱石を江戸から読む』等の著書がある。また、アメリカ文学を論じた『聖母のいない国』では、従来、ロマン派やモダニズムの視点から語られていたアメリカ文学史を、リアリズムの観点から見直すという論を展開し、サントリー学芸賞を受賞した。『『こころ』は本当に名作か』では、古今東西の名作に独自の評価を下し、江戸文藝や漱石、ドストエフスキーの価値を疑問視している。2004年に書かれた『評論家入門』では、19世紀に隆盛を極めた小説という表現ジャンルは20世紀半ばには衰退しはじめており、次に流行りそうなのはエッセイだと書いている。恋愛文化研究の成果を踏まえ、1990年代後半からは、ジャーナリズムにおける評論活動を積極的に展開し、現代日本の恋愛文化に対する批判を進めていく。『もてない男――恋愛論を超えて』(ちくま新書)では、自らを「もてない男」と規定し、その実存の真実に立脚して、「誰にでも恋愛ができる」というのが近代恋愛思想の最大の嘘であるとの主張を展開した。本書の斬新な主張は注目を集め、10万部を超えるベストセラーとなった。後年、小谷野は「今の日本には、『非モテ語り』というものがある。自分がいかに異性にもてないか、それがいかに苦しいかを語る様式で、男女を問わず、特にネット上でよく語られているけれども、外国にはない。なぜならそれはかくいう訳者が『もてない男』で発明した様式だからである。それ以前は『もてない』ことは自己責任である、恥ずかしくて語れないことである、と思われていたのだ。証拠歴然である」と発言している。続く『恋愛の超克』では、「誰もが恋愛、セックスをしなければならない」と若者を洗脳しているとして、現代の各種メディアを批判し、資本主義社会の御用イデオロギーとしての恋愛の超克を主張した。また本書では、「売春反対論者」であったが、現在は「必要悪としての容認論」に転じている。「もてない男」を標榜する反面、「美人好き」をも公言している。いずれの議論も、現代のフェミニズムが隠蔽している、男女それぞれの内部における深刻な格差を問題化するものである。『美人好きは罪悪か』では、自らをとらえている「知的な美人」への嗜好を、社会的・歴史的に分析している。また、文学や学問の世界でも美貌の女性が得をするのであり、それならば偽善を言わないで、美人作家などはどんどんその美貌を活用して売ればいいと主張する。また、清岡純子の少女ヌードの愛好家であることを明かし、児童ポルノ規制の強化(単純所持で処罰)に反対の意を表明している。「美人好き」といっても、女性は誰もがきれいになるべき、なれるという立場には否定的である。同書では、「どんなにブスでもデブでもバカでも、外見さえ整えれば、ダイエットすれば、男が付き合ってくれるだろう、などとは言えまい。もっとも、そういう嘘は女性雑誌が盛んに言っているが、あれは化粧品会社がスポンサーだったりするからで、美容産業と結託しているのである。」と批判している。また「エステなどの美容産業」が「女性雑誌あたり」と結んで、女性に「加齢による容貌の衰え」を気に病ませるよう誘導しているとも指摘した。この言論に関係して、『江戸幻想批判』における「吉原の遊女の平均寿命は23歳」という主張に関する誤りについて「絶望書店日記」という一般人のブログで指摘され、これに反発した小谷野は「匿名批評は卑怯だから実名を名乗るかさもなくば日記の当該エントリを削除せよ」と要求を突きつけたが、拒否されたため、2006年3月30日、小谷野は絶望書店を「違法無届営業」と罵倒し、「杉並警察に通報しようかな」と書いたこともある(その後、絶望書店は古書を売るのみの営業であり届出の必要な古物商の定義には該当しないことが判明)。やがて小谷野は「絶望書店主人」の指摘について「重箱の隅突つきでしかない」とした上で、「本質に関わりない点で私が誤っただけだ」と弁解している。このトラブルに平行して、2006年の3月から4月にかけ、或る匿名のはてなブロガーからインターネット上で「キチガイ」「大学の恥」「馬鹿学者」「狂犬」などと揶揄されたため、当該箇所をプリントアウトして警視庁高井戸警察署に相談したが埒が明かなかったため、株式会社はてなや当該ブロガーに対する問題の記述の削除要請を経て、2008年2月5日、はてなを相手取って東京簡裁に情報開示および損害賠償請求の訴を起こし、裁判所の和解勧告に従って同年7月3日にはてなと和解すると共に情報開示を受けた。これによって当該ブロガーの個人情報を突き止めたものの、小谷野は「高卒じゃしょうがないね。高卒の者の言論相手に裁判起こしたりしないから安心しな。実はぱっと見て怒り狂ったんだけど、本当に高卒だと知って怒りは収まった」「最近はおとなしくしているので、すぐ提訴する気はない」と言っている。小谷野は社会問題全般に関しても積極的な発言をしている。小谷野の恋愛研究は、前近代を賛美して近代の制度を批判する傾向に対する反措定であったが、社会思想においても、ポストモダン思想の虚妄を批判して、近代的理念を再評価する「新近代主義」の立場を取り、現代日本の論壇人への苛烈な批判で知られる。『すばらしき愚民社会』では大衆批判を展開しているが、小谷野の言う大衆とは知的大衆、すなわち一般知識人、読書人階層である。いわゆる大衆の迷妄よりも、知的な言論において暗黙のうちに前提とされ、ドグマと化す観念の迷妄を撃つことに小谷野の批評のモチーフがある。『中庸、ときどきラディカル――新近代主義者宣言』では自らの政治的立場を、「共和主義者」と規定している。小谷野によれば、日本のいわゆる右派、保守派はロイヤリスト(王党派)に過ぎないが、これとは異なり、身分差別に基づく天皇制を否定する、近代的なナショナリズムが「共和主義」である。ゆえに小谷野は天皇制廃止論者であると共に、憲法第9条改定論者でもあり、アメリカのイラク戦争を支持した。戦争に反対する知識人は恵まれた特権階級であるが、栄誉と縁のない普通の民衆は戦争によるカタルシスを欲している以上、戦争は止められないと分析した。『なぜ悪人を殺してはいけないのか』では、死刑制度の存続を主張している。死刑廃止を主張する者は、釈放された凶悪殺人犯が自分の家の隣に住んだらどうするのかと小谷野は問う。この世に明らかな「悪」が存在する限り、正義の実現としての死刑は必要であるという。また死刑を廃止するかわりに敵討ちを認めればいいという議論に対しては、敵討ちをしてくれる遺族のいない孤独な被害者はどうなるのかと問い、国家による制裁が必要であると主張している。また、学歴偏重主義については「「学歴差別」という言葉自体、おかしな言葉である。今の日本で、貧しくて上の学校へ行けなかったなどという人はあまりいないのだし、能力で人を区別するのは当然である。能力差別がいけないなら、試験はいけないのか。「差別」というのは、「いわれなく人の地位を定めること」だから、生まれで差別する天皇制は差別だ。しかし、生まれつき大東文化大学卒というやつはいない」「東大出身者同士の間では、三流私大なんかさんざんバカにされているに決まっているのであって、事実そうなのである」と発言し、これを肯定している。職業差別についても「言うまでもないが、体育教師は、どこでも、バカで野蛮である。私は体育教師を差別する。私が独裁者になったら、体育教師をガス室送りにするかもしれない」と公言し、これを肯定する立場を取る。現在の反タバコ運動は「禁煙ファシズム」であると主張し、『禁煙ファシズムと戦う』を共著で出版している。受動喫煙を問題視する風潮や喫煙規制について、排煙の害を隠蔽しようとする自動車メーカーや石油会社の陰謀だという説を唱えている。自身も1日40本の煙草を吸うヘビースモーカーであり、著書『すばらしき愚民社会』において、結婚を考えている相手が嫌煙家だったので、1999年ごろ禁煙外来に通院したが禁煙に失敗したとしている。小谷野はさらに、「禁煙外来へ行ってもやめられなかった私は、身体障害者として認定してもらいたい。そのことはいずれ厚生労働省へ正式に要請するだろう」とも発言している。JR東日本が一部の列車を除き車内を全面禁煙したことに対して、禁煙措置の取りやめを求めて訴訟を起こしたが、棄却されている。また、訴状において、自らが閉所恐怖症であり、喫煙ができないと症状の悪化を来たすとの主張をしている。「大気の汚れた東京で、たばこの煙ぐらいを問題にすること自体がばかばかしい」「健康に害を及ぼすものはほかにもいろいろあるのに、たばこだけが狙い撃ちされている」というのが小谷野の主張である。また、他の連載コラム等において、自らが禁煙のプラットホームで敢えて喫煙し、駅員に注意されるとクレームを付けたり、怒鳴ったりしていることを明らかにしている。2004年10月15日には、やはり反禁煙家である筒井康隆と東京都千代田区のパレスホテルにて初対面を果たした。このとき小谷野は筒井から愛煙家団体「Go smoking友の会」への参加を求められたが、「嫌煙権論者とは喧嘩しないという主宰者の方針が気に食わない」との理由によりこの誘いを拒否。小谷野はさらに筒井から喫煙者と嫌煙権論者との公開シンポジウムにも参加するよう誘われたが、「嫌煙権論者は馬鹿ばかりであって、論争するに値いしない」との理由によってこの誘いをも拒否したと筒井に書かれた。ただし小谷野自身は、この時の対面について「私は「嫌煙派とのシンポジウム」を断ったわけではなく、やっても新聞等が報じないだろうし、たとえ嫌煙派が議論で負けても、負けたとかバカだったとかは死んでも報道せず「議論は平行線をたどった」などと書くだけだろうから、ムダだろうと思い、黙っていただけです。」と述べている。また、「1999年に大阪大学を、耐えられなくなって辞めて以来、27件近くの大学の公募に応募してきたが、2004年に、比較文学の公募で、明らかに私より業績のない者が採用されたのを機に、応募もやめてしまった。大学は禁煙ファシズムがひときわ厳しいし、それと戦っている私を採用する大学などというものはもうないだろう」とも述べ、自らが阪大辞任以後、どの大学でも常勤の職を持てずにいる背景にも「禁煙ファシズム」の存在があるとの見解を示している。ただし小谷野は「地方の立派な大学への就職を平川先生が斡旋してくれたことがあって、ただ飛行機に乗れない私がそんな遠方へ行くのは不可能だったから断った」とも発言している。『週刊現代』2008年8月2日号では「何よりも私が不愉快なのは、禁煙運動家の人たちとは議論が成立しないことです」と言いつつも、「以前、日本禁煙学会の理事長が公開討論をやりたいと言ってきたことがありますが、応じませんでした。どうせ禁煙運動家を動員して、こちらを袋叩きにするのは目に見えているからです」と述べた。また、「私はいま『禁煙ファシズムと戦う会』を結成していますが、かくも理不尽な世の中と立ち向かうには、もはや『日本喫煙者党』(笑)を結成して国政に出るしかないでしょう。心ならずも世間の隅に追いやられた愛煙家たちの熱い支持が得られるものと確信しています」とも発言している。ただし「咽頭に病気を抱える者の前では喫煙を控えるべき」とブログで書き込んでいる。同時に、喫煙者である室井尚が喫煙に関する文章を出し、山形浩生が抗議したときは、山形を以下のように非難した。また、これらの言論活動の過程で、元喫煙者でフリーライターの藤本祥和から、2006年9月30日、ミクシィに投稿された『禁煙ファシズムと戦う』についてのレビューの中で、「論理の組み立て方の基本ができていない」などと批判されたため、同年10月1日に、小谷野も自身のミクシィアカウントで「自分ではかつて吸っていながら、やめられたというのでファシストになるというのはずいぶん身勝手な話だ」と反撃し、論争へと発展。藤本は、ミクシィ上で小谷野に公開討論を申し入れたものの、小谷野は登録名を変更した上で、藤本をコメント禁止にし、最後まで議論に応じなかった。その後、藤本はこれらの応酬を自らのウェブサイトで揶揄的に紹介している。山本一郎は、この論争事件を、『週刊SPA!』2006年12月26日号に掲載したネット上でおきたゴシップをまとめた「mixi事件ベスト10」において、「ミクシィの2ちゃんねる化」ととして第3位に取り上げている。その後、このやり取りがきっかけで、2009年2月16日に、小谷野が藤本を名誉毀損と公然侮辱で刑事告訴することを発表し、「訴状提出は三月に入ってからだろうから、期日は四月だろう」と予告、藤本のウェブサイト記事「小谷野敦逃亡記」「小谷野敦文通メモ」、ブログ「ワイネフパーム・ブログ」の一部削除ならびに慰謝料300万円の支払いを要求した。ただし藤本は、訴状が届いたのは2009年4月になってからだったと主張している。2009年5月12日に東京地裁民事第49部第530法廷で第1回口頭弁論が行われ、6月23日に第2回口頭弁論が行われて結審。9月17日に下された判決で、小谷野側の全面敗訴となった。敗訴確定後、小谷野は藤本を提訴した動機について「私が被告を提訴したのは、匿名掲示板で「たばこ屋の看板娘だったお母様への感情が整理しきれないのでしょう」などと、亡き母を引き合いに出して私を揶揄したからだ」と説明している。『バカのための読書術』などの啓蒙書も多い。評論家としては呉智英の影響を大きく受けている。エッセイについては群ようこを師匠と呼び、「学者っぽいところは高島俊男先生、怒ってばかりいるところは筒井康隆の日記、あたりが師匠筋に当たろうか」と述べている。また少年期からの歴史好きもあり、純粋な歴史の研究書『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』や、シェークスピアの作品内容と歴史的事実とを比較研究した『リチャード三世は悪人か』なども刊行している。啓蒙書『バカのための読書術』でも、歴史に関する本を読むことの重要性を説いている。また系図マニアでもあり、現代の学者、作家などの係累関係について造詣が深い。その趣味は、2007年の著書『日本の有名一族』に結実した。大学の現状についても発言している。「定年延長というのは、若い研究者の就職を遅らせることで、よくない」と指摘、国立大を定年退官した者が私立に勤めることについても、「国立大を定年になった教授を雇うより、若い人を雇ったほうが給料は安くあがるんだから、定年になった教授に就職口があるのは、人脈の賜物でしかない」と述べる。そして「私立を含めてすべての大学が定年を65歳にすれば、オーバードクター問題は解決する」と提言している。大学改革にも批判的であり、「今の大学の困難ってのは多くは90年代の大学改革が原因なんだから、それをやった連中の罪を問うべきで、元に戻せ、と言うだけでいい」と主張する。インターネット上ではブログ「猫を償うに猫をもってせよ」を運営しており、自己の主張の提示や、他者への批判などを活発に行っている。「匿名批判というのは、基本的に卑怯である」「私を匿名で批判する権利があるのは、たとえば大学で私の授業に出ている学生だけ」と、匿名・本名を公開しない筆名による言論を厳しく批判した。しかし現在は、「私は最近、そういう怒りからは次第に遠ざかっている」という心境を漏らすに至っている。その他、jun-jun1965というIDではてなダイアリーキーワードをたびたび編集している。その他、選択的夫婦別姓制度導入に反対などしている自らの文学的主張の実践として、2007年には、自身の恋愛体験を元にした表題作を含む小説集『悲望』を刊行。2008年には、第二小説集『童貞放浪記』を刊行した。評論活動と平行して、小説を発表していく意向を示している。小谷野によると、若い頃は人間を描くことができなかったが、谷崎の評伝を手がけた際、谷崎の小説は想像力で書き上げたものではなく実体験に基づいていたものであることを発見すると共に、実体験を生かしてフィクションを書く技術を谷崎作品から習得し、その技術を発揮するために再び小説を書き始めたという。小説に関しては「今の新人作家は、私小説でないものを書こうとしすぎると私は思う」「小説は「私語」であって、恨み言でも手記でもいいのである」「私は小説を書く時に、まだ他の人が書いていないことを書くよう努めている。それは評論でも同じことで、どこかで見たような評論を書いていてもダメに決まっている」、ただし「事実を自分に都合よく捻じ曲げておらず、公表したらモデルが特定されて社会的損失をこうむるようなことは書くべきではない」と発言している。モデルの存在に関しては、『悲望』と『童貞放浪記』に収められた私小説作品のみでなく、架空の物語として書かれている『美人作家は二度死ぬ』(山室なつ子の生涯)についても、「事故死する女性は安藤美保という、別の形だが24歳で事故死した歌人がモデルで、これは武藤(康史)さんがその日記の抜粋をずっと雑誌に連載していた人である」と明かしている。2012年1月には、初の歴史小説『遊君姫君――待賢門院と白河院』を発表。2012年4月から、商業誌に採用してもらえない未発表の私小説を新規ブログで発表している。2010年に「母子寮前」で、2014年に「ヌエのいた家」でそれぞれ芥川賞候補となったが落選。自著『私小説のすすめ』の中で「小説は…手記でもいい」と言い張っていたが、いずれの作品に対しても、選考委員の宮本輝から「はたしてこれは小説なのか、癌と宣告された母親を看取る作者の看病記録なのか」、「私小説ではなく個人的手記の域から出ていない」との批判を受けた。同じく島田雅彦からは、「ヌエのいた家」について「人は往々にして、自分が嫌う相手に似てしまうもので、それこそが近親憎悪の最もおぞましい部分なのだが、自分と父はあくまで違うという思い込みに対する批評が欠落している」と批判された。落選直後から「わら人形五個できた。あとは五寸釘」「選考委員たちが乗った飛行機が無人島に不時着するという小説を構想している」「正確を期すが、とれなかったのはまだいい。小野、というのと、あのバカな講評、最初に落とされたというのが納得がいかん」などと芥川賞選考委員たちに対する恨みのツイートをおこない、話題となった。そして、芥川賞に「入学」さえしていないにも拘らず、2015年に「芥川賞卒業宣言」をおこなった。小谷野は、自身の権利を侵害したと信ずる相手に対しては積極的に法廷闘争を挑み、あるいは提訴を警告している。2005年には自らのブログで日本学生支援機構(理事長・北原保雄=当時)から再三にわたり貸与奨学金返還の督促状を受けていることに触れ、「連帯保証人(父)に催促するとか、債権回収会社から電話で督促させるとか、まるで脅迫状である。私は昨年来、研究者を育てるのが目的の大学院奨学金なのに、いくら研究をしていても専任ではないからといって返還させ、研究していなくても専任なら返さなくていいというのはおかしい、と北原宛に手紙を書き、国際日本文化研究センターからの在職証明書も送っている。機構は、これは常勤職ではない、と言うのだが、私が貸与を受けていた時期の約款には、「客員助教授」は常勤ではない、とは書いていない。1999年に施行された「細則」によって分かるのであり、事後的な契約は無効であるといっているのに。違うと言うなら法廷で戦うのみである。下手に債権回収会社など使ったら脅迫罪で訴えるぞ」と宣言したこともある(2005年9月8日「金は返さん」。削除済みのエントリ)。その後、2006年に小谷野は国際日本文化研究センターの客員助教授を雇い止めとなり、奨学金返済拒否の口実を完全に失ったが、今日に至るまで貸与奨学金を返済していない。なお、小谷野個人の年収は、当人の発言によると「一千万円前後を行ったり来たり」しているという。2006年1月16日、衆議院議員杉村太蔵による「多くの若者にとって、たばこは汚い、くさい、カネがかかるの3K」との発言等により苦痛と屈辱を受けたと主張して国家賠償を請求し、東京地裁にて日本国を提訴した。一審では2006年5月24日に原告小谷野が敗訴。2006年5月31日、原告が東京高裁に控訴したが棄却となり、最高裁への上告は受理されなかった。このとき小谷野は弁護士を探したが引き受ける者がなかったため、法曹界でも禁煙ファシズムが広がっていると批判した。2007年3月24日、特急や新幹線の全面禁煙措置等が喫煙者に対する差別であり、日本国憲法第13条に定められた幸福追求権の侵害にあたり違憲であるとの主張のもとにJR東日本を東京簡裁に提訴した(2007年12月21日、裁判移送先の東京地裁にて小谷野側が全面敗訴)。「控訴しても棄却されるのは目に見えているし、上級審で変な判例を作っても何だから」との理由により控訴は断念した。2006年2月23日、1998年12月の大阪大学吹田キャンパスでのシンポジウムにおける小谷野の発言へのインターネット上での批判をめぐり、フリー編集者井上はねこを名誉毀損で東京地裁に提訴。井上によると、小谷野はこのシンポジウムで「私は以前、レズビアンからレズビアンだと告白されてそのあと(嫌悪感から)三日間吐き気が続いた」と発言したという。このシンポジウムにおける小谷野の言動を、井上は「流れに関係なく、言いたいことを言っては話をわき道にそらす」「ホンネだけに頼って自分本位に語り(中略)話の腰を折っていることに無自覚」と批判したものである。この裁判では被告井上が法廷に現れなかったため、2006年10月27日、自動的に小谷野の勝訴となったが、被告が損害賠償請求を無視しているため、小谷野は30万円の賠償金を取立てることができずにいる。2006年3月、かつて遊女の平均寿命をめぐって論争をおこなったインターネット古書店「絶望書店」の店主に対し、同書店ブログに引用された自らのメールの文面を削除するよう要請。削除されない場合は名誉毀損で提訴する可能性があると警告し、これを削除させた。2006年の12月には、作家笙野頼子が連載小説『おはよう、水晶──おやすみ、水晶』の中で実名を出さぬまま小谷野を批判し「やってる仕事は女叩き」等と書いたため、名誉毀損で笙野を提訴しようとしたことがある。ウィキペディア日本語版でとして活動していたが、自らの編集活動をめぐりと衝突。2007年11月20日には「仮に私の編集停止措置などをとれば、公示送達によって提訴し、日本版ウィキペディア(ママ)の責任者を引きずり出してやる」と宣言した。これらの言動がサイトの規則に反するものとして、最終的には恒久的にウィキペディアへの投稿が禁止された。2010年12月1月以降、ツイッターで佐藤亜紀が小谷野の著書『現代文学論争』を批判したところ、小谷野は佐藤に内容証明を送って当該ツイートの削除を求め、「本状到着後一週間以内に削除されない場合、民事提訴もありえます」と警告した。2012年、藤原書店の雑誌『環』2009年秋号所収の粕谷一希との対談「本をめぐる対話 第4回 比較という思想‐西洋・非西洋・日本」p.367-368, 376における平川祐弘の発言をめぐり、同誌への謝罪文掲載を要求して藤原書店を東京地裁に提訴したが、「平川の当該発言は原告(小谷野)の社会的地位を低下させるほどのものではない」との理由で2013年2月に敗訴した。これについて、小谷野は当初「原告勝訴」と勘違いし、その旨のエントリをブログに載せている。「原告敗訴」であることに小谷野が気付いたのはその2日後であった。兵庫県姫路市の同人誌『文芸日女道』531号・532号・533号で元賢明女子学院短期大学教授の森本穫から「小谷野は『剽窃の名人』である」、『久米正雄伝』は関口安義の『評伝松岡譲』を基礎にして成り立っているが、どこにも関口著の題名は出てこない、などと悪口を書かれ、2012年9月、森本に提訴を警告し、内容証明を送り、謝罪文を書かせた。2013年2月、アマゾンジャパン株式会社を東京地裁に提訴して係争中であることを明らかにした。「大河好き。」と名乗るレビューアーから小谷野の著書『遊君姫君――待賢門院と白河院』(アルファベータ、2012年)に対して「大河ドラマと渡辺淳一『天上紅蓮』の便乗作で、これがなければ書かれることもなかっただろう」とのカスタマーレビューを投稿され、これを自らへの名誉毀損とみなした小谷野が「大河好き。」の個人情報開示を求めて提訴したものだったが、2013年9月、小谷野の敗訴に終わった。小谷野はまた、「大河好き。」の正体と信じる私人の実名をブログで公開しているが、「大河好き。」の正体に擬せられた当人は人違いであると発言している。このほか、「知のトレッキング叢書」から刊行される予定だった小谷野の著書の企画が一編集者に潰されたとされる件をめぐり、集英社インターナショナルを提訴している。これら一連の法廷闘争について、小谷野は「裁判って中毒性がある」「裁判をやってもらうために税金を払っていたわけで、これは納税者の重要な権利である。どうも日本人は訴訟狂でなさすぎる傾向があるね」と発言している。2009年、2ちゃんねるへの書き込みをめぐって京都府在住の女性と揉め事になった小谷野は「必ず復讐はします」「あなたの名前を明らかにします」というメールを女性に送信。その後、2010年、このメールが脅迫罪にあたるという女性の申し立てで刑事告訴が受理され、京都府警の任意事情聴取を受けたことがある。書類送検を経て、京都地検で不起訴となった(起訴猶予)。この一連の騒動について、小谷野は小説と称してブログに書き、さらに女性を攻撃した。さらに、京都府警の任意事情聴取の録音をyoutubeにアップロードしたこともある。のち、小谷野は告訴人の代理人弁護士を所属弁護士会に懲戒請求したが、却下された。2015年、小谷野は「代理夫婦」と題する私小説をブログに発表した。小谷野を師と仰ぐフリーライター小林拓矢夫妻をモデルとした作品であったが、作中の描写をめぐり小林夫妻から抗議を受け、東京都迷惑防止条例違反で警視庁調布警察署に通報される騒ぎに発展した。評論・エッセイ・評伝などを挙げる。小説を挙げる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。