石神井川(しゃくじいがわ)は、東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。流路延長25.2km、流域面積61.6km²。東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。東京都小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区の各自治体を経る。小平市花小金井南町の小金井カントリー倶楽部西側付近に源を発している。かつての源流はさらに西に遡っていた(後述)。同ゴルフ場内を大部分暗渠で流れ、嘉悦大学の南側で開渠の川になる。同大裏門から小金井公園通りまで蓋がけされた後、小金井公園沿いは柵渠となる。西東京市の南を流れ、練馬区に入る。西東京市では、1980年度に芝久保調整池および南町調整池、1983年度に向台調整池が設けられ、増水時に川の水を貯留する。小平市・西東京市に含まれる上流部は湧水のみによって涵養される小河川であり、流量は少ない。練馬区に入ると、武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水を合わせ、流量を増してくる。現在、富士見池や三宝寺池は湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されている。三宝寺池と石神井池は石神井川に接続していないが、富士見池はわずかな溢水が石神井川に流入している。富士見池は調整池の役割も果たしている。水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北三丁目)が1973年度に建設された。城北中央公園で板橋区に入り、桜川一丁目で田柄川を合わせて、川越街道、東武東上線、中山道を横断し、JR埼京線を潜って北区に入る。その後、王子駅の下を抜けて北区堀船三丁目で隅田川に注ぐ。石神井川は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていた。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっている。直線化の結果残った旧流路の一部は、氷川町つりぼり公園、音無もみじ緑地、音無さくら緑地などとして整備されている。現在は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、一級河川起点は「左岸:小平市花小金井南町三丁目1218番地先、右岸:同市同町三丁目1217番地先」(住居表示では「小平市花小金井南町三丁目2番地先」)である。かつてはさらに西に遡り、小平市鈴木町一丁目の鈴木小学校敷地に水源があった。現在でも、川を埋めた跡や地形からそれらが偲ばれる。途中でゴルフ場「小金井カントリークラブ」の中を通るが、ゴルフ場の一部において川が地上に露出していた。しかし、2000年代初頭頃に埋め立てられた。かつて中流域には関の溜井と呼ばれる池があった。この池は現在残っていないが、武蔵関公園内にある富士見池がほぼ同じ位置に存在する。井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵の台地上の湧水池で、かつては石神井川の主水源であったが年々湧水量が減少したため、現在は地下水をポンプで揚水して補給している。三宝寺池からの流れが石神井川に合流する三宝寺川の途中の低地で水田などになっていたが流量が減ったため、1933年、石神井川への三宝寺川を途中で堰き止めて池とした。1959年、三宝寺池とともに二つの池を中心に石神井公園を整備、周辺は風致地区に指定された。下流の三宝寺川は暗渠とし、地上を和田堀緑地として公園化している。玉川上水からの分水である千川上水は水量が常に不足していたため、この対策として、西早宮橋付近で揚水し、豊島園通りの下を通り、練馬駅大踏切(当時)西側を通り、千川上水に揚水弁を設け流入させていた。水路は、1942年-1943年ころに暗渠となった。現在の板橋区常盤台1丁目付近から「中用水」「北耕地川」などと呼ばれた用水が北に分岐した。かつては稲付川とも呼ばれたが、現在はほとんどすべてが暗渠化されている。石神井川の南側を流れていた谷端川は、かつては水道橋付近で合流する神田川の支流だった。この上流部の流路が大きく蛇行する板橋大山付近では大雨によりたびたび氾濫していた。この対策として1925年、下板橋付近から中山道の尾根の下を通し、北側の石神井川へ向けて放水路が開削された。石神井川は現在の板橋区加賀付近から谷の底を深くして王子へ続く蛇行した渓流となっていた。この渓谷は「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれていた。滝野川の町境の北側が石神井川上から一部半円状に外れる部分はかつての流路で、現在「音無さくら緑地公園」になっており、江戸名所図会『松橋弁財天窟 石神井川』に描かれる江戸の名所だった。現在は川岸は整備されてかつての渓谷の風情はない。この後、石神井川は王子駅の直下を通り東側の豊島の低地へ抜けて隅田川へ注ぐ。しかし原初の石神井川は飛鳥山の西側を南下していた。いつこの河道の変わったのかは議論があるが(後述)、これにより飛鳥山西側より南の河道は切り離されて無能谷となった。以降の元河道は、周辺の雨水を集めて流れ、その小河川は「谷田川」と呼ばれていた。江戸時代の明暦2年(1656年)、永田九郎兵衛の普請により現在の音無橋付近に石堰を設置した。これは、隅田川からの海水の遡上の防止と、旧石神井川河道を流れる谷田川流域への利水のためである。石樋を落ちる石神井川本流は王子の大滝と呼ばれ、王子七滝とならぶ名所として絵図にも書かれた(歌川広重「名所江戸百景『王子音無川堰世俗大滝ト唱』」)。堰からは用水が引かれ、石神井川から流れ出ているために「逆川」と呼ばれた。なお、幕末期に西側の高台に引かれていた千川上水から王子分水が堀られてこの付近に作られた反射炉併設の錐台の動力用水に利用するために引かれたが、明治になるとその跡地に建てられた鹿島紡績所の動力源へ転用され、この水は石神井川の上を渡されて、対岸の渋沢栄一が建てた抄紙会社、それを利用する大蔵省紙幣寮抄紙局が建てられて、一帯は明治初期の日本の製紙の一大拠点となった。かつては音無渓谷は王子駅付近は飛鳥山(上野台地)と北側の王子稲荷のある高台との狭い間を通って東へ流れていた。流路の狭さのため、戦後には板橋大谷口付近でたびたび洪水があり、1958年の狩野川台風では王子駅の改札口が冠水するなど北区だけで5000世帯が被害にあった。そこで、石堰を廃止するとともに1966年から1968年にかけて飛鳥山の下をトンネルで通す飛鳥山分水路(バイパス)が建設され、1969年3月に完成した。旧流路は、音無親水公園となり、現在は汲み上げた地下水が流されている。石神井川のかつての本流で不忍池を経由して東京湾に流れていた部分。石神井川が切り離された後は上野台と本郷台の湧水による小河川が流路跡に流れる。現在は全て暗渠化されている。付近は藍染めが盛んであった事から、藍染川とも呼称されていた。石神井川は武蔵野台地東端の北区王子付近で渓谷(音無渓谷)を作り、いくつもの滝を落としていた。これは埋没谷上の沖積低地をゆったり流れることの多い、武蔵野台地の川の流れ方としては例外的である。武蔵野台地を流れる川で渓谷を持っているのは、他に谷沢川(等々力渓谷)と神田川 (お茶の水渓谷)のみである。同時に、上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地は飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の谷田川が流れる谷底低地へと地形的に連続している。これらのことから、石神井川がかつては谷田川へと流路を取っていたが、河川争奪によって現在のように隅田川へ流れるようになったとする説が、戦前は地形学者の東木龍七、戦後は地形学者の貝塚爽平などによって唱えられていた。流路変遷が起こった原因と時期については諸説ある。1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている。歴史研究家の鈴木理生は1978年の自著において、石神井川が現在の石神井川と谷田川に分断されたのは人為的な工事の結果であると主張した。鈴木は飛鳥山付近の台地が東から広義の利根川、西から石神井川の浸蝕を受けて人為的に短絡しやすい地形であったこと、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったと鈴木は推定した。後の2003年、鈴木は大著『江戸・東京の川と水辺の事典』の中で、上述の中野らによる自然現象説を紹介するとともに、再び人為変更説を主張した。まず鈴木は『源平盛衰記』に「滝野河」の名前があるのは、この時期にすでに滝のような水流で渓谷ができていたと解釈できるとして、この時期の工事説は述べなかった。代わりに、江戸時代に刊行された多くの地誌で不忍池とお玉が池の説明ぶりが不自然である点、軍用道路であった岩槻道(現在の本郷通り)は石神井川をまたぐより台地の縁沿いに通るほうが自然である点を指摘し、江戸氏・太田道灌・後北条氏あるいは徳川氏初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張した。2008年11月14日放送のテレビ番組『タモリ倶楽部』では、石神井川の流路変遷について取り上げられた。番組の中で漫画家の江川達也は、石神井川が上野台地を貫いて東へ流れているのは、江戸時代の治水工事によるものと主張。それに対し、出版社之潮社長の芳賀啓は『寛永江戸全図』を示し、江戸時代初期にはすでに現在の流路をとっていたと分かっていると反論。また、石神井川下流へ人工的に流したとすると直線的に隅田川に流れるはずだとする説を唱えた。第二次世界大戦終戦直後は田園を流れる小川にすぎなかったが、宅地化に伴い汚染が進み、1970年代(昭和50年前後)にはドブ川と化した。その後、流域の下水道普及率が進み、水質は改善され、晴天時であれば水質はかなり良好で透明度は高いレベルにある。しかし、豪雨時などには下水が排出されるため、水質は一時的に悪化する。1時間あたり75mmまでの大雨に耐えるための拡幅工事が進んでおり、川沿いに存在する「桜の辻」と呼ばれる桜の名所が失われる可能性がある。魚はコイ、アブラハヤ、モツゴなどが生息し、甲殻類はモクズガニやアメリカザリガニが生息する。北区王子付近の流路変更に伴い、魚が遡上できないため、アユなどは確認されていない。2009年(平成21年)3月2日には、JR王子駅構内のトイレの汚水が下水道工事の不備により40年以上にわたって川に垂れ流しされており、川から発生する悪臭の一因となっていたことが判明した。ごく最近まで石神井川の本流は三宝寺池から流れ出す川とされ、小金井からの流れは大川と呼ばれる支流であった。しかし、徐々に流域の都市化が進行し三宝寺池の湧水が減ると、池から合流点(山下橋)までの流れは三宝寺川と呼ばれるようになり、大川が石神井川本流となる。石神井川の名称は、石神井村を貫流する川だったために村の名前にちなんで呼ばれたと言われている。石神井村の名前は、村内に昔からあった「石神」(石棒を神体として祭ったもの)に由来し、この「石神」は三宝寺池から出たとも、井を掘っていたら土中から出たとも伝えられる。石神井川は、小平市・西東京市では「悪水」、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」と呼ばれていた。「滝野川」という別称は北区滝野川の地名にも残っており、近藤勇の墓所がある。かつて、この地域の石神井川が「滝の様に勢いよく川の流れが激しかった」ことに由来する。上流より記載
出典:wikipedia
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