ポール・ガーナー・マホーム(Paul Gurner Maholm, 1982年6月25日 - )は、アメリカ合衆国ミシシッピ州グリーンウッド出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。発音としては、Mah・HALL・uhmなので、「マホーラム」のが近い。選手名鑑によっては、「マホーラム」で掲載されているものもある。のMLBドラフトでミネソタ・ツインズから17巡目(全体492位)指名されたが、契約せずミシシッピ州立大学へ進学。のMLBドラフトでピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全体8位)指名され、7月9日に契約。A-級ウィリアムズポート・クロスカッターズで8試合に登板し、2勝1敗・防御率1.83だった。はA+級リンチバーグ・ヒルキャッツで8試合に登板し、1勝3敗・防御率1.84だった。7月からはルーキー級ガルフ・コーストリーグ・パイレーツでプレー。3試合に登板後、8月にA級ヒッコリー・クロウダッズへ昇格し、1試合に登板した。はAA級アルトゥーナ・カーブで開幕を迎え、16試合に登板。6勝2敗・防御率3.20だった。7月にはフューチャーズゲームに選出され、AAA級インディアナポリス・インディアンスへ昇格。6試合に登板し、1勝1敗、防御率3.52だった。8月27日にパイレーツとメジャー契約を結び、8月30日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で先発起用されメジャーデビュー。8回を4安打無失点に抑え、メジャー初勝利を挙げた。この年は6試合に登板し、3勝1敗、防御率2.18だった。2月24日にパイレーツと1年契約に合意し、開幕ロースター入りした。この年は先発ローテ3番手として30試合に登板し、8勝10敗、防御率4.76だった。3月7日にパイレーツと1年契約に合意。4月24日のヒューストン・アストロズ戦ではメジャー初完封を記録した。この年は29試合に登板し、自身初の二桁勝利となる10勝を挙げたが、チーム最多の15敗を喫し、防御率は5.02だった。3月10日にパイレーツと1年契約に合意。この年は9勝に終わり、2年連続の2桁勝利はならなかったが、登板した全31試合で5回以上を投げ、投球回は200の大台を上回った。チーム防御率が5.46とリーグワーストとなるなど、投手陣が総崩れとなったが、急成長したマホームに対し、ジョン・ラッセル監督は「ポールはウチの投手陣で最も成長しているよ。グラウンドだけでなく、私生活から先発ごとに準備をしているのも素晴らしい」と絶賛した。1月30日に総額1450万ドルの3年契約(2012年・975万ドルの球団オプション付き)を結んだ。この年は31試合に登板し、8勝9敗・防御率4.44だった。はチーム最多の32試合に先発し、9勝15敗・防御率5.10だった。は例年通り先発ローテーションに定着していたが、8月19日に左肩の故障で15日間の故障者リスト入りし、9月6日に60日間の故障者リストへ異動した。この年は26試合に登板したが、6勝(14敗)にとどまり、防御率は3.66だった。複数年契約を結んだ2009年からの3年間は合計で89試合に登板したが、23勝38敗と大きく負け越し、防御率は4.43と期待を大きく裏切ったため、オフの10月31日に2012年の球団オプションを破棄され、FAとなった。1月10日にシカゴ・カブスと475万ドルの1年契約(2013年・650万ドルのオプション付き)を結んだ。開幕後は21試合に登板し、9勝6敗、防御率3.74だった。2012年7月31日にアローディス・ビスカイーノ、ジェイ・チャップマンとのトレードで、リード・ジョンソンと共にアトランタ・ブレーブスへ移籍した。移籍後は11試合に登板し、4勝5敗、防御率3.54だった。この年は5年ぶりに二桁勝利となる自己最多の13勝(11敗)を挙げた。オフの10月30日に2013年・650万ドルの球団オプションが行使された。は開幕後20試合に登板していたが、7月22日に左手首の故障で15日間の故障者リスト入りした。8月22日復帰。この年は26試合に登板し、10勝11敗、防御率4.41だった。オフの10月31日にFAとなった。2月8日にロサンゼルス・ドジャースと150万ドル+出来高の1年契約に合意した。開幕後は先発として登板していたが、ドジャースにはクレイトン・カーショウ、ザック・グレインキー、ダン・ヘイレン、ジョシュ・ベケット、柳賢振とリーグ屈指の先発陣を擁していたため、5月からリリーフに転向。しかし8月2日に右の前十字靭帯断裂で15日間の故障者リスト入りし、8月4日に60日間の故障者リストへ異動した。そのまま、シーズンを終えた。オフに、契約満了でFAとなった。2月1日にシンシナティ・レッズとマイナー契約を結んだ。3月30日に解雇となる。
出典:wikipedia
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