フランス共和国(フランスきょうわこく、)、通称フランスは、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌは地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がり、総面積は640,679km、人口は6,660万人である。首都および最大都市のパリは主要な文化および商業の中心地である。同国は半大統領制の共和制であり、フランスの憲法制定により、人民主権を基に政教分離および民主制の国として建国された。フランスはラスコー洞窟に始まる長い歴史をもつ。鉄器時代、現在のフランスに相当するガリアにはガリア人およびケルト人が居住していた。紀元前51年、ガリア人はローマ帝国により西暦486年まで制圧された。ガリアを数百年間支配し、最終的には中世のフランス王国を建国したゲルマンのフランク人の襲撃および移住にガロ・ローマ人は直面した。1337年から1453年までの百年戦争での勝利はフランスの建国を強固にし、将来の中央集権型の絶対君主制への道を開いた。ルネサンス期、フランスは膨大な文化的発達を経験し、世界的規模の植民地帝国の第1段階を確立した。16世紀のうち40年近くの間はユグノー戦争に明け暮れていた。ルイ14世はブルボン朝の最盛期を築いたが、しかし君主制は18世紀末のフランス革命で崩壊した。革命遺産の人間と市民の権利の宣言は今日に至るまで国の理想を表現している。世界に先駆けて共和国を樹立したが、ナポレオン・ボナパルトが帝国を建国した。ナポレオンの降伏後は絶対君主制が復活した。1830年に立憲君主制となり、一時的な第二共和政、第二帝政、1870年から成立した第三共和政が順につづいた。19世紀中ごろはパリ改造が行われたりレオン・フーコーが地球の自転を証明したりして、フランスは生活と科学の両面で近代化をとげた。19世紀および20世紀初頭、世界第2位の植民地帝国を有した。第一次世界大戦において、フランスは三国協商の参加国としてドイツ帝国ら中央同盟国と戦った。第二次世界大戦では連合国に属したが、1940年にナチス・ドイツにより占領された。1944年の解放後、第四共和政が設立されたが、アルジェリア戦争の過程で解散し、シャルル・ド・ゴール率いる第五共和政に取って代わられた。1960年代、脱植民地化によりフランス植民地帝国の大部分が独立した。また、1950年代には原子力産業へ積極的に進出した。技術は軍事利用もされている。原子力部門における主要な会社には、パリバ系のINDATOMや、ロスチャイルド・系のCOFINATOME、パリ連合銀行・アルストム・シュナイダーエレクトリック・トムソン=ヒューストン(現ゼネラル・エレクトリック)他多数合弁のFramatome(現アレヴァ)などがある。アドルフ・ティエールのときに流入したモルガン資本の電気に強い系譜が呼び水となって、1960年代から1970年代にかけてフランスへ外資の波が押し寄せた(フランスの経済#ド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタンを参照)。2015年にアルカテル・ルーセントが買収された。フランスは名目GDPで世界第5位および購買力平価で世界第8位の先進国である。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である同国は世界第2位の排他的経済水域 (EEZ) をも有し、その規模は11,035,000 kmに及ぶ。。フランス国民は高い生活水準を享受し、同国は教育、医療、平均寿命、人権、人間開発指数の国際ランキングにおいて上位に位置する。フランスは世界第4位の世界文化遺産数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている。フランスは国際連合の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、フランコフォニー国際機関がこれに該当する。また、欧州連合原加盟国かつ指導国でもある。正式名称は、。通称、'。 略称、FR。日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、仏(佛)と略されることが多い。アメリカに渡るのを「渡米」と呼ぶのに対して、フランスに渡ることを「渡仏」と呼ぶ。国名の は、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国 に、 という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王は と署名している。 は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世とルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している。ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は と呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的な統一は存在しなかった。紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割され、ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名された。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となった。また、この時期に現代に続くフランス語(古フランス語)の形成が始まった。987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立した。彼の子孫のカペー朝、その後のヴァロワ朝、ブルボン朝は戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた。黒死病の大流行が起こる直前の1337年からフランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている。フランスは幾度か大敗を喫して危機に陥ったが、ジャンヌ・ダルクの活躍などもあって最終的にはイングランド勢力を大陸から駆逐でき、またこの戦争を通じて王権が強化された。1494年、シャルル8世がイタリア戦争(1494年 - 1559年)を開始してイタリアを弱体化した結果、教皇派と皇帝派の争いは、ナポレオン戦争後にオーストリア帝国(神聖ローマ帝国の後継国家)の影響下から抜け出すイタリア統一運動に姿を変え、やがて第一次世界大戦を誘発するオーストリア=ハンガリー帝国を誕生させた。1534年、ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言。16世紀にはカトリック・プロテスタントの対立(フランスの宗教改革)から大規模な内戦ユグノー戦争(1562年 - 1598年)が起こっている。1556年にユグノーが(現ブラジルのグアナバラ湾周辺)を建設。1608年にケベック()を建設。1612年に(現ブラジルのマラニョン州にサン・ルイス周辺)を建設。南極フランスも赤道フランスもポルトガルに併合された。17世紀に三十年戦争の講和条約でヴェストファーレン条約が締結され、宗教戦争に終止符が打たれた。王朝はルイ14世の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。1673年にフランス東インド会社がポンディシェリを取得。1685年にはを制定した。ポンディシェリを巡ってイギリス東インド会社との間でカーナティック戦争(1746年 - 1763年)が勃発、敗北した結果、インドではイギリスが主導権を握る。フランスはアメリカ、アフリカ、アジアに広大な海外領土を獲得していたが、1763年のパリ条約で北米植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争が終結し、ヌーベルフランスはイギリスによる植民地時代に移った。1769年、フランス東インド会社からが成立。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、莫大な歳入をフランスにもたらした。パリ外国宣教会のピニョー・ド・ベーヌは、阮福暎に働きかけて、フランスの支援のもとに西山朝と戦わせた()。18世紀にはフランスの知識人の中から多くの啓蒙思想が生まれ、科学的な大発見がなされている。はフランス革命の基本原則となり、1789年の『人間と市民の権利の宣言』として結実した。1789年にフランス革命が起きて王政は倒れ、1791年にハイチ革命が勃発。1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となっている。政治的混乱ののち、1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政(1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている。1803年にフランス領ルイジアナをアメリカに売却。1804年のハイチ革命が終結し、ハイチが独立する。1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた後、フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約されていた。1830年、7月革命によって立憲君主制による7月王政が立てられた。1830年にフランス領北アフリカ(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)が成立。この王政は1848年の2月革命によって終わり、第二共和政に移行するが、の1年後の1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開く。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法で国内を固め、中国、インドシナ半島、メキシコや日本などに積極的に出兵したが(アロー戦争、、メキシコ出兵、下関戦争)、1870年の普仏戦争敗北の際に退位、パリ・コミューンの騒乱を経て第三共和政が成立した。1873年、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。アルザス・ロレーヌ地方での使用言語はアルザス語、、など多様であるが、そういった事情は一切隠蔽した反独プロパガンダが行なわれた。19世紀には、国家観について、ナポレオン戦争期のヨハン・ゴットリープ・フィヒテ『』(1808年)と普仏戦争後のエルネスト・ルナン『』(1882年)の対比などからと民族主義との相違が明確にされていたが、欧州では高まる民族主義が世界大戦へと向かわせた。また、一方でルナンは、『知的道徳的改革』()において、フランスの植民地主義による侵略を正当化している。(1882年)と清仏戦争(1884年 - 1885年)に勝利し、フランス領インドシナ(1887年 - 1954年)が成立。ブーランジェ将軍事件(1886年 - 1889年)。1893年、シャムと。普仏戦争後のアルザス・ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金を発端とする反独運動からドレフュス事件(1894年)が勃発。アフリカ分割の時代には、1895年にフランス領西アフリカ(モーリタニア、セネガル、マリ共和国、ギニア、コートジボワール、ニジェール、ブルキナファソ、ベナン)が成立。1894年に露仏同盟を締結し、フランス資本がシベリア鉄道に出資したが、ファショダ事件(1898年)や日露戦争(1904年 - 1905年)でグレートゲームの成り行きを見た後、1904年に英仏協商(三国協商)を締結、フランスがモロッコ進出するとドイツが反発して、1905年に第一次モロッコ事件が起こった。1910年にフランス領赤道アフリカ(ガボン、コンゴ共和国、中央アフリカ共和国、チャド)が成立。1913年、アルザス・ロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件。フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。戦間期には人民戦線政府によって様々な改革が試行された。1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間でオスマン帝国領の分割を約した秘密協定「サイクス・ピコ協定」を締結。1917年にオスマン帝国を占領して(1917年 - 1920年)が成立。1917年10月、ロシア革命中のボリシェヴィキがサイクス・ピコ協定を暴露。1918年11月8日、ウッドロウ・ウィルソン米大統領の支援でアルザス=ロレーヌ共和国()が出来たが、11日後にフランス軍の占領で解体、フランス領となる。1919年1月にパリ講和会議でファイサル1世がアラブ地域の独立をフランスに求めたが拒否。1920年3月8日にファイサル1世がとして独立すると、(1920年4月19日 - 4月26日)でフランスとイギリスの委任統治範囲を決定。7月24日にが始まり、フランスが占領してフランス委任統治領シリアとした。1920年8月10日、オスマン帝国とセーヴル条約を締結。キリキアをめぐりソ連の支援を受けるアタテュルク率いると(1920年5月 - 10月)を始めるも、トルコが勝利。フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外植民地を有しており、その植民地帝国は大英帝国に次ぐ規模だった。1919年から1939年の最大時にはフランスは12,347,000km²(フランス本国を含む)の領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていた。第二次世界大戦ではドイツの電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、後に全土が占領された。タイ・フランス領インドシナ紛争(1940年11月23日 - 1941年5月8日)。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国につき、苦しい戦いを続けた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。戦後、フランス第四共和政が成立し、経済は再建されたものの列強国としての地位は崩れかけていた。1946年、フランス委任統治領シリアがとしてフランスより独立。フランスは植民地体制を守ろうとしたが、脱植民地化時代の潮流には逆らえず、すぐに苦境に陥ることになる。フランス領インドシナの支配を回復しようとして、抵抗するベトミンとの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年にディエンビエンフーの戦い(3月 - 5月)でベトミンに大敗を喫してインドシナから撤退している。そのわずか数ヶ月後の11月1日にをインドに返還してポンディシェリ連邦直轄領が誕生したが、その同日に今度はより厳しいアルジェリア戦争に突入する羽目になる。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還を巡って国論は割れ、内戦になりかけていた。1956年にはモロッコとチュニジアが独立を達成していたが、インドシナやマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動は進んだ。(1957年 - 1958年6月30日)ではフランコ体制のスペインを支持。弱体で不安定な第四共和政は、1958年6月1日にド・ゴールの強力なリーダーシップに後を委ねることとなった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立する。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは国内の統一を維持し、戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造の中でフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもあるが、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線を取り、米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。アルジェリア戦争中の1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行したが、1962年に和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。1973年の石油危機以降、フランスは深刻な経済危機と低成長を経験しており、政権の交代が繰り返された。その為、1986年 - 1988年、1993年 - 1995年、1997年 - 2002年にはコアビタシオン(所属党派の異なる大統領と首相になってしまう、保革共存政権)が起こっている。1950年代からのドイツとの和解と協力によって、両国は欧州経済共同体(EEC)や1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たして来た。フランスは欧州連合(EU)の主導国の一つであり、ヨーロッパの政治的統合を強く支持しているが2005年の欧州憲法批准は国民投票で拒否されてしまった。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。2012年5月6日(CEST)に行われた大統領選挙では社会党のフランソワ・オランドが現職のニコラ・サルコジを破って当選し、同15日に第7代大統領に就任した。また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが両者が対立し政権が不安定になることもある。議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。主要政党としては、国民戦線(極右・移民排斥)、国民運動連合(保守・右派)、フランス民主連合(中道・若干右寄り)、社会党(中道左派・社会民主主義)、フランス共産党(左派)がある。また、以下は議席を持たないが、反資本主義新党(極左)、労働者の闘争(極左・トロツキスト政党)も存在する。特徴的な社会風土としてよく挙げられる点は、強烈な中央集権社会、エリート主義社会、および役人社会(官僚主義)であることなどである。労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達し、世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造自体を指して、しばしば批判的な意味を含めたうえで『官僚天国』『役人王国』などと形容されることがある。フランスの国防政策は1959年にシャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳令の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと標準的な軍事費を維持している。フランス軍は陸軍、空軍、海軍および憲兵からなり、2002年の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9千人がいる。また核兵器を保有しており、海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦により運用される。現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカやポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカのコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入において、進展の遅れから軍の兵站が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている。徴兵制廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜、掃海、潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備は弾道ミサイル搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。憲兵は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置した上で内務省に属し、警察業務を担当する。フランスは歴史ある大国であり、ヨーロッパ世界においてはその動向がヨーロッパ自体の情勢を左右していた。第二次世界大戦中も英米と一歩離れた独自外交を展開しており、第五共和制成立後も冷戦構造の中でフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦との提携や、NATOの軍事機構からの脱退や、1973年から始まったフランス・アフリカ首脳会議の開催などアフリカ諸国との友好関係の強化が行っている。また西ドイツ(当時)と共に欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。また、アメリカ合衆国による2003年のイラク戦争には終始反対した。フランスは旧植民地との間にフランス共同体を結成しており、一首の連携関係を構築している。またアフリカの旧植民地においては、暴動や内戦の際に親仏政権の維持のための軍事介入が行われることなどもあり、現在もセネガルやジブチにはフランス軍の軍事基地がある他、1994年のルワンダ紛争や、2002年に始まったコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ。2012年からマリ北部紛争に介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。またフランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関を結成し、連携を強めている。欧州連合加盟各国が北朝鮮と国交を結んでいる中、フランスは2016年8月現在も日本やアメリカと同様に北朝鮮と国交を締結していない。2015年1月、パリでシャルリーエブド本社やユダヤ教徒向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派との間で緊張が高まっている。フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、後の国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。またフランス第一帝政時代の対仏大同盟は、イギリスが盟主的存在であった。こうした歴史的経緯から、フランス人とイギリス人の間には根深い対抗意識が根付くこととなった。英単語でフランスを意味する「フレンチ」がつく単語はあまり良くない意味であることが多く、フランス語でイギリスを意味する「アングレーズ」がつく料理は簡単かまずいかのどちらかであるといわれている。またアメリカ英語では「フレンチフライズ」というフライドポテトのことを、イギリス英語では「チップス」という。英語での生きている牛 (cow) もしくは生きている豚 (pig) と死んだあとの食肉としての牛 (beef) と豚 (pork) の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。即ち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる)。政治的には1904年の英仏協商締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はスエズ危機のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。明治維新後には西園寺公望をはじめとする政治家、大山巌らの軍人、黒田清輝らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が「米欧回覧実記」に詳しく記されている(一部スケッチ入り)。日本は民法・刑法改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。義和団の乱では共同歩調を取ったが、日清戦争後にフランスは、日本に遼東半島を返還するよう働きかける三国干渉を行っている。第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成している。その後の第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナへの進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐)。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結しタイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書には臨時政府のフランス代表も署名している。1951年、日本国との平和条約締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国として有名であり、毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、在仏日本人は3万5千人に及ぶ。これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである。経済面では、1992年から2000年にかけフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度は他の先進国や中進国と比較してさほど高くない。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている。しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度があり、これにプジョーを加えフランス車も、ドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。古くは江戸幕府の幕府陸軍、および明治以降の日本陸海軍もフランス軍の影響を相当受けていた(第一次・第二次・第三次フランス軍事顧問団)。陸軍はその健軍にあたってフランス陸軍を師とし、鎮台制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。なお、旧陸軍および現在の陸上自衛隊の制式行進曲である『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』は、明治初期に御雇外国人としてフランスから派遣されたシャルル・ルルー陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、1888年(明治21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく(明治38年・45年制式の軍服にフランス式の肩章を採用)、また第一次大戦から1930年代までは、銃火器・火砲・戦車および航空機(後述)等の開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。海軍は健軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者ルイ=エミール・ベルタンなどを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の軍艦を設計させている。そのため19世紀が終わる頃まではフランス海軍の影響も大きかった。航空分野においては、1910年(明治43年)に徳川好敏・日野熊蔵両陸軍大尉がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン複葉機を持ち帰り、同年12月19日に代々木練兵場で初飛行した。なお徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の1914年(大正3年)に編成された日本発の実戦飛行部隊たる陸軍の臨時航空隊は、フランス製の軍用機と技術をもって青島の戦いに参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の1918年(大正8年)1月、陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐( Jacques-Paul Faure)を団長にした61名のフランス航空教育団 ( Mission militaire française au Japon (1918-1919))を迎え、所沢陸軍飛行場(現・所沢航空記念公園)など各地で教育を受けている(少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加)。このように、のちの陸軍航空部隊、しいては日本の航空・航空戦力の原点はフランスであった。フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス)の位置するヨーロッパの領土は22の地域圏(レジオン région)に区分され、その下に100の県(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2~8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカに1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸やインド洋などには、4つの海外県と、複数の海外領土がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年3月29日、アフリカ東部沖のコモロ諸島にあるマヨット(人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。フランス・メトロポリテーヌの地域圏再編が行われ、2016年1月1日より地域圏の数は26から18となった。表は市内の人口順ではなく、都市圏の人口順に並べている。フランスの人口は、パリへの一極集中が目立ち、同市に次ぐ都市は規模が小さい。フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南米のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である。フランスの地形のおもな特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境がある他は、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ)。北部、西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパから続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候と併せて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ国境にはヴォージュ山脈、スイス国境にはジュラ山脈が延びる。ヴォージュ山脈はライン川の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川を越えると、アルプス山脈につながっていく。南部イタリアとの国境を成すアルプスの山々は、多くが標高4000m以上で、その最高峰がモンブランである。アルプス越えには古代ローマの時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのが、サンベルナール峠である。南西部のスペイン国境にはピレネー山脈が延びる。峠がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地の最高峰はドール山 (1,866m)。ピレネー山脈の最高峰アネト山 (3,404m) はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン (4,810m)。主な河川は北から反時計回りに、セーヌ川 (776km)、ロワール川 (1012km)、ガロンヌ川 (647km)、ローヌ川 (812km)。フランスの気候は大陸性、海洋性、地中海性の気候区に分割される。西岸海洋性気候は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候は東ヨーロッパ、つまりポーランドやルーマニアが西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように三種類の気候が共存している例はヨーロッパの中でフランスだけである。2014年のフランスのGDPは2兆8468億ドルであり、アメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリスに次ぐ世界第6位である。また、同年の一人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較しても僅かに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。観光客入国数では世界一、農産物輸出額では世界第2位を占める。農業は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。第二次世界大戦後は、鉄道や航空、銀行、炭田の国有化が行われた。マーシャル・プランを原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。1981年のフランソワ・ミッテラン大統領の社会党政権時代には産業国有化がさらに進められたものの、経済成長の鈍化で頓挫した。1986年に保守派シラクが首相になって国家の役割が縮小されたものの(第1次コアビタシオン)、アメリカ合衆国やイギリスなどと比べても金融・保険・電力・運輸・国防産業などの分野で依然として政府は大きな影響力を有し、国家資本主義の色彩が濃い。つまり、国債や租税等の財源がを通じて基幹産業に運用されている。投資対象にはエンジー(旧スエズ運河会社)と既に冒頭で説明したアレヴァがあり、これらはオートバンクと関係している。他の投資対象には自動車のルノーとプジョー、航空各社、電気通信各社があり、少なからず欧州の鉄鋼カルテルと関係している。1990年代後半は、ヨーロッパ通貨統合に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、2000年を境にGDPの実質経済成長率は大きく低下して、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEUの財政協定の基準(収斂基準)を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%をこえる失業率も、90年代末から改善されて2001年には8%台になったが、その後は再び悪化して2005年初めには10%を突破した。しかし、05年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、世界金融危機_(2007年-)で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている。デクシアの救済劇は、資本輸出先であるベルギーとで両国政府が大株主も伴い64億ユーロも注入する有様となった。2008年度版フォーチュン・グローバル500によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本のトタル(本社パリ、8位)、保険のアクサ(パリ、15位)、金融のBNPパリバ(パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル(パリ、23位)、小売のカルフール(ルヴァロワ・ペレ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル(パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー(パリ、66位)、電力会社のフランス電力(パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム(パリ、84位、現Orange)、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ(パリ、97位、現エンジー)が並ぶ。2009年3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万~250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。2010年にをスタートし、などへ投資をするようになった。2012年5月からフランソワ・オランドが政権をとり、翌年にを設けて中小企業を支援するようになった。公的投資銀行に国家出資庁が出資する程度はごく僅かである。公的投資銀行は公営である本部と加盟企業に分かれている。本部へは国が出資庁を介さずに直接資金を提供する。加盟企業はその本部から、または預金供託公庫から資金を調達して、これを原資に中小企業の債権や株式を引受ける。ヨーロッパ連合(英語表記ではEU、但しフランス語表記での略称はUE-"Union européenne"-となる。本項目では特に断りがない限りEUと表記する)の歴史的創立メンバーの1国であり、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。フランスの金融政策はフランクフルトのヨーロッパ中央銀行で決定され、ナポレオン1世の時代以来使用されていたフランスの通貨フランは、1999年のヨーロッパ通貨統合への参加により2002年始めに完全にユーロに切り替わった。EU最大の農業国で「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955~2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、小麦、大麦、トウモロコシ、根菜はじゃがいも、テンサイ、畜産ではブタ、鶏卵、牛乳の生産が際立つ。このほか、亜麻やなたねの生産高も多い。テンサイの生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図る他、農業経営の近代化、若年層の就農促進等の政策を実施している。第二次世界大戦後までは、ルール地方の鉄と石炭が鉱業の大半を占めていた。21世紀初頭においては、既に鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。最も規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位 (3.3%) の塩(700万トン、2002年時点)である。有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。例えば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源ではカリ塩、硫黄を採掘している。フランスの工業は食品工業、製材、製紙、運輸、機械、電気機械、金属、石油化学工業、自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2のチーズのほか、バター、肉も五本の指に入り、製糖業も盛ん。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、プラスチック、合成ゴム、タイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。主なメーカーとして現在日本の日産自動車を傘下に収めるルノーや、PSA・プジョーシトロエンなどがある。国防産業では、タレス、DCNS、サフランなどの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。フランスのフラッグ・キャリアは、エールフランスであり、スカイチームに設立時から所属している。EADSやエアバス、マトラ、ダッソーなどの企業が代表するように航空宇宙産業も発達しており、ロシアを除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。エネルギーでは原子力発電への依存率が世界で最も高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電は約11%、水力発電は約10%にすぎない。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。主な原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県)、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県)、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県)。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。フランスは伝統的に西ヨーロッパにおける最も重要な農業国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内の工業国としてもドイツに次いで重要な位置を占めるようになった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3660億ドル、輸入額は3696億ドルである。輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。主な輸出国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズでは第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。主な輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大して来たことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている。特に西アフリカや中東、北アフリカなどの元植民地からの移民とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動が度々起きている。とりわけ2005年10月27日に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリを始めとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった(2005年パリ郊外暴動事件を参照)。就業者を上げるために、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇出来るという、青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働組合も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGVをはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキが行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。ド・ビルパン首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。欧州最大の多民族国家であるフランスでは、本土ではケルト人・ラテン人・ゲルマン系のフランク人などの混成民族であるフランス人が大半を占める。基本的にはラテン化したケルト人を少数のゲルマン人が征服して成立した国、と見なすことが多いが、今も議論の的である。世界、特に欧州では混成民族でない国民はほとんど存在しないとはいえ、たとえばドイツ人がゲルマン人を主流としていることに異論は少ないのに対し、フランス人はそうした主流を挙げることが困難なほどに三つの流れが拮抗した比重を持つのが特徴である。また、本土でもブルターニュではケルト系のブルトン人、スペインとの国境付近にはバスク人、アルザスではドイツ系のアルザス人などの少数民族が存在する。また、コルシカ島もイタリア人に近い民族コルシカ人が中心である。一方、西インド諸島やポリネシアの海外県や海外領土では非白人の市民が多い。人種差別は存在しないわけではないが、もともと混成民族をベースにすることもあり、ナチス時代のドイツのような純血主義に走る例は少なく、フランス語とフランス文化に敬意を払う人間は他国人であっても同胞として遇する傾向がある。パリが芸術の都として世界中から画家や音楽家を集めた背景にもそうした気風があり、イタリア訛の抜けなかったナポレオンも国民の英雄としてもてはやされた。前大統領サルコジも移民2世であり、これは移民国家のアメリカの大統領ですら過去に例がない。ドイツ人とアルジェリア人を両親に持つ女優イザベル・アジャーニが国民的トップ・アイドルとして敬慕されるのも、この気風に根ざしている。伝統的にフランスはスペイン、ポルトガル、東欧諸国などから多くの移民・政治的難民を受け入れており、低賃金労働に従事する労働者もいた一方、フランスに移住した有数な才能の手で文化や科学を発達させてきた。近年では、アフリカ(主に1960年代までフランスの植民地であった地域)・中近東からの移民が多い。フランスは早くから少子化対策に取り組み、GDPのおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度を様々に取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど住民税や所得税などが低くなる『N分N乗税制』や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率は2000年1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。現在先進国で出生率が2人を超えている国は他にアメリカ合衆国とニュージーランドぐらいであり、フランスはヨーロッパ一の多産国となった。ただ一方で子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活する事が可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対してINSEE(フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している。医療制度も評価が高くユニバーサルヘルスケアが達成されており、WHOによる2000年の医療制度効率性ランキングにおいてはフランスが第一位となった。現行の憲法第二条によると、1992年からフランス語はフランスの唯一の公用語である。ただし、オック語、ピカルディ語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語(ブレイス語)、アルザスではドイツ語の一方言であるアルザス語、北部フランドル・フランセーズではオランダ語類縁のフランス・フラマン語、コルシカではコルシカ語、海外県や海外領土ではクレオール諸語など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在は様々な度合いで幾つかの学校では教えられている。その他にも移民によってポルトガル語、イタリア語、マ
出典:wikipedia
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