北海道炭礦鉄道の客車(ほっかいどうたんこうてつどうのきゃくしゃ)本項では、かつて官営幌内鉄道およびそれを引き継いだ北海道炭礦鉄道に在籍した客車について記述する。いずれも、1906年(明治39年)に鉄道国有法により買収され、鉄道院所属となった。官営幌内鉄道および北海道炭礦鉄道に所属した客車は、開業時にハーラン・アンド・ホリングスワース(Harlan and Hollingsworth)社で製造された8両以外は、一部部材を輸入の上で、すべて自社の手宮工場および岩見沢工場で製造されている。これらの客車はいずれも、設計当時のアメリカで一般に使用されていた客車の様式をほぼそのまま、あるいは寸法を縮小して持ち込んで製造された、開放デッキ形木製小型2軸ボギー車である。屋根は、二等以上がモニター型のダブルルーフ、三等以下がアーチ型のシングルルーフとされており、二三等合造車では、二等室と三等室で律義に屋根形状を変えていた。これらは車体ばかりでなく台枠も木製で、さらに台車についても、台車枠を所定の寸法にカットしたスプルース材をボルト・ナットで組み立てる構造としており、森林資源が豊富で木材価格が廉価でもあったこの時代のアメリカの国情を反映し、木材の活用が徹底していた。また、この台車は軌道に対する追従性が良好な釣り合い梁(イコライザー)式を採用し、脱線時に台車枠が大きく飛び出して破損するのを防ぐため、車体から吊り下げられたチェーンをその四隅に取り付けて連結するなど、軌道条件の良くない開拓地に適した構造が採用されているのも大きな特徴の一つである。なお、最初に輸入されたものには、直通空気ブレーキが装備されていた。また、連結器もやはりアメリカの流儀に従って当初より自動連結器を装備しており、その取り付け高さはレール面上673mm(2ft2in)である。このため、鉄道国有化後、国鉄が連結器を自動連結器に統一することになった際には、この低い連結器高さがネックとなって本州から航送される客貨車と連結不能となり、対処が求められた。この際、これらの客車については、新造時の床面高さが939.8mm(3ft1in)と著しく低く、連結器を据え付ける端梁の高さを変更するのが困難であったことから大部分は連結器高さの変更予定のない樺太庁鉄道へ譲渡されるが、内地に残る一部車両は台車心皿部分と側受部分にスペーサーを挿入し、床面高さを嵩上げすることで対処されている。このように小型車であり、しかも主要部を木製として軽量でもあったことから、国有化後の1911年(明治44年)に制定された鉄道院の車両称号規程では、最軽量の「コ」級に分類された。北海道炭礦鉄道に所属する客車は、以下の6グループに分類され、番号を持たない特等車を除いて1から連番が付された。なお、下記のうち緩急車とあるのは、後年の荷物車のことである。用途を表す記号は、ひらがなが使用されており、その対照は次のとおりである。合造車は、記号を次の順番で重ねて使用する。一等車は1グループ2両、一二等車はいに3 - 9の7両が存在し、いに3, 4、いに5, 6、いに7、いに8, 9の4グループに分かれる。に1 - 9の9両が存在し、次の3グループに分かれる。
出典:wikipedia
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