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コービー・ブライアント

コービー・ブライアント( 1978年8月23日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。NBAのロサンゼルス・レイカーズ一筋で活躍した。ポジションはシューティングガード。身長198cm、体重93kg。世界で最も危険な猛毒蛇の一種「"Black Mamba"(ブラックマンバ)」の愛称を持つ。17歳でNBA入りして以降、20年間にわたって名門ロサンゼルス・レイカーズ一筋でキャリアを過ごし、NBAチャンピオン5回、シーズンMVP1回、ファイナルMVP2回、NBA記録となる18年連続オールスターゲーム選出並びに、歴代最多のオールスターMVP4回に輝くほか、NBA歴代2位の1試合81得点の記録を持つなど、キャリア初期から大ベテランの域に入るまで、長年に渡ってリーグ最高の選手の一人として君臨し続けた、NBAを代表するスーパースターである。現役時代の背番号はシャキール・オニールとのコンビで若くして三連覇を達成した「8」と、成熟しチームリーダーとして二連覇を達成した「24」の2つの時代に分けられる。引退後にはロサンゼルス市がコービーの功績を称え、現役時代の背番号を組み合わせた8月24日を「Kobe Bryant Day(コービー・ブライアントの日)」としてロサンゼルスの記念日に制定した。引退を表明した2015-16シーズン現在、レギュラーシーズンで通算33,643得点を挙げNBA歴代第3位。プレーオフでも通算5,640得点を挙げNBA歴代第3位。また、オールスターでは通算290得点を挙げNBA歴代第2位に位置している。父親は元NBA選手のジョー・ブライアントで、母親は元NBA選手ジョン・コックスの妹であるパミラ・コックス。彼の名前”KOBE”は、父ジョーのお気に入りだったアメリカの鉄板焼きレストラン「Kobe Steak House(神戸ステーキハウス)」に妻と行った際、“KOBE”(神戸)の名前の由来を店主に聞いた事をきっかけに、両親が名前を気に入って付けたものである。コービー本人は1998年に初来日した際に、生まれて初めて自身の名前の由来となった神戸を訪れている。その際、東京で開催されたアディダス・ABCバスケットボールキャンプでの募金を市民福祉に役立てるため神戸市に寄付した。また、2001年12月13日には神戸大使に委嘱された。コービーは父親のジョー・ブライアントがNBAで3年目、フィラデルフィア・セブンティシクサーズに所属していた1978年に、2人の姉の弟として生まれた。ジョーはその後サンディエゴ・クリッパーズ、ヒューストン・ロケッツを渡り歩き、1983年にはNBAを離れ、大西洋を渡ってイタリアリーグに移籍することになった。父親に連れ立って一家もイタリアに引越し、6歳だったコービーはイタリアで約7年を過ごすことになる。その一方でNBAでは目立った成績を残すことが出来なかったジョーがイタリアではトップ選手として活躍しており、ジョーに触発されたコービーは次第にバスケットボール選手を志すようになり、ジョーの練習や試合には常に付き添ってバスケットの技術と知識を培うようになった。ジョーは1991年に現役を引退。ラ・サール大学のヘッドコーチに就任が決まったため、一家は再びフィラデルフィアに舞い戻ることになる。コービーはフィラデルフィアのローワー・メリオン高校に進学。長年イタリアで過ごしてきたコービーにとってアメリカは異文化の地であり、最初はその環境に馴染むことに苦労したが、3年生になる頃にはいよいよその才能を発揮し出し、このシーズンには31.1得点10.3リバウンド5.2アシストの成績を残して州の最優秀選手に選ばれる。またNBA伝説の巨人ウィルト・チェンバレンが長年保持していたペンシルベニア州の高校得点記録を更新するなど一躍注目選手となった彼のもとには、複数のNCAA名門校からスカウトが訪れるようになり、またオフシーズンに全米から優秀な高校バスケット選手が集うABCDキャンプに参加し、ここでも目覚しい活躍を見せたことで、プロからも熱い視線を受けるようになった。4年生のシーズンには母校を42年ぶりの州チャンピオンシップに導いている。高校に在学中のコービーは多くのバスケット選手がそうしたように、大学への進学を考えていた。ところが彼が高校を卒業する前年の1995年のNBAドラフトでケビン・ガーネットが高校を卒業したばかりの選手としては実に20年ぶりの指名を受け、高卒選手に対してNBAへの道が拓けたことでコービーは心変わりし、NBA入りを決意。高校での最後のシーズンが終了した後、会見を開いて1996年のNBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言した。またコービーは当時すでに引退を目前に控えていた、憧れのマイケル・ジョーダンと対戦したかった事もひとつの理由であると語っている。前年にガーネットが全体5位という上位指名を受けたとは言え、当時はまだNBA関係者の大半が高校を卒業したばかりの選手が即プロで通用するとは思っておらず、この年のドラフト候補生の中ではコービーは特別評価の高い選手という訳ではなかった(この年のドラフト候補生にはアレン・アイバーソンやステフォン・マーブリー、レイ・アレンなど、名だたるスター候補生が揃っていた)。しかしドラフト前に行われたワークアウトでコービーの才能を見抜いていた当時ロサンゼルス・レイカーズのゼネラルマネージャーだったジェリー・ウェストがコービー獲得に動いた。ドラフト当日、コービーは全体13位でシャーロット・ホーネッツからの指名を受けるが、コービーは「レイカーズに入団できなかったら、デューク大学に進学する」と譲らなかった。そこでウェストはホーネッツとトレードを行い、生え抜きのベテランセンターブラデ・ディバッツを放出し、かわりにコービーを獲得(このトレードはシャキール・オニール獲得のためのサラリーキャップ調整のためでもあった)。コービーは名門レイカーズの一員としてNBAのキャリアをスタートさせることになったのである。なお、レイカーズが持っていた24位指名権は、コービーと後に多くの栄光を共にするデレック・フィッシャーに行使された。またこの年のドラフトは先の3人のほか、マーカス・キャンビーやシャリーフ・アブドゥル=ラヒーム、アントワン・ウォーカー、ジャーメイン・オニール、スティーブ・ナッシュらが指名を受けており、ドラフト史上でも屈指の豊作の年と評価された。ルーキーイヤーとなった1996-1997シーズンはシューティングガードの他にスモールフォワード、ポイントガードもこなしたが出場時間は約15分とまだ少なく、このシーズンは平均7.6得点の成績に終わった。それでも随所で才能の片鱗は見せており、1月28日のダラス・マーベリックス戦では故障者が続出したことも手伝って初めて先発に抜擢され、18歳と158日で当時のNBA先発出場最年少記録を塗り替えた。またオールスター・ウィーク・エンドではスラムダンクコンテストに出場し、レッグスルーダンクを決めコチラも見事にNBA史上最年少での優勝を果たした。その他、ルーキーチャンレジでも当時の歴代最多得点となる31得点をあげている。2年目の1997-1998シーズンになると出場時間も増え、その才能を発揮し始める。そのプレーはファンの心を掴み、ベンチスタートであったが、試合途中に交代で出場すると大きな歓声が起こり、多くのファンがいたことがうかがえた。その人気を象徴する出来事がこの年のNBAオールスターゲームだった。コービーはレイカーズでは控えにもかかわらずファン投票によりNBA史上最年少でオールスターに選出され、しかも先発出場という異例の出来事となった。所属チームで控えの選手がオールスターの先発に名を連ねるのは過去にも先にもNBA史上コービーだけである。試合では周囲の期待に応えるように派手なダンクやテクニカルなプレーで観客を沸かせ、プロ2年目、わずか19歳でスターの仲間入りを果たす。レイカーズはコービーの急成長もあってチームは61勝21敗の好成績を残し、コービー自身もシーズン途中までは平均20点近い得点を挙げ、6thマン賞受賞は確実と目されていたが、シーズン後半に調子を落としてしまい(最終成績は15.4得点)、記者投票では2位に終わった。ロックアウトで50試合に短縮された1998-1999シーズンにはリック・フォックスから完全に先発を奪い、成績を19.9得点5.3リバウンドまで伸ばして初のオールNBA3rdチームに選出される。名実共にリーグトップレベルの選手に成長したコービーだったが、彼の活躍、人気が増すごとに、レイカーズの大黒柱、シャキール・オニール(以後シャック)との摩擦も大きくなり、2人の“不仲説”が公に報じられるようになった。この頃のレイカーズはレギュラーシーズンこそ高い勝率を残すもののプレーオフでは敗退を繰り返しており、1997-98シーズンにはユタ・ジャズに、そしてこの年もティム・ダンカン、デビッド・ロビンソンのツインタワーを擁するサンアントニオ・スパーズに2年連続でスウィープ負けを喫していた。なかなか優勝に手が届かないレイカーズは新シーズン開幕を前にチーム改革に踏み切った。最も大きな動きは、コービーもその招聘を待望していたシカゴ・ブルズを2度の三連覇に導いたフィル・ジャクソンのヘッドコーチ就任だった。彼の指導により、コービーとシャックは少なくともコートの中では共存の道を見つけることが出来るようになった。またベテランのロン・ハーパーらが加入してロスターも大幅に入れ替わり、レイカーズは新たな指導者と新たな陣容で新シーズンを迎えた。1999-00シーズンが始まるとレイカーズは快進撃を開始。終わってみれば史上でも屈指の勝率となる67勝15敗の成績だった。コービー自身も初のアベレージ20得点越えとなる22.5得点6.3リバウンド4.9アシストを記録し、オールNBA2ndチームに選出された(シャックはシーズンMVPを受賞)。またディフェンス面での大幅な改善も見られ、NBA史上最年少でオールディフェンシブ1stチームにも選ばれるなど、攻守共にハイレベルなスーパースターへと成長した。プレーオフではライバルチームのサクラメント・キングスやポートランド・トレイルブレイザーズの前に思わぬ苦戦を強いられるも、カンファレンス決勝は第7戦でのコービーの25得点11リバウンド7アシスト4ブロックという活躍もあってブレイザーズを4勝3敗の末に降し、念願のNBAファイナル進出を果たす。ファイナルではレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズと対戦。コービーにとっては夢にまで見た大舞台だったが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチから試合を見守るという屈辱を強いられた。レイカーズはコービー不在でもシャックがコートで大いに暴れ回り、最初の3試合を2勝1敗とシリーズを優位に進めた。最高の舞台を目の前に居ても立っても居られなくなったコービーは、怪我も癒えぬうちに第4戦に強行出場した。試合は接戦となり、延長に突入。オーバータイムではこの日ファウルトラブルに陥っていたシャックがついにファウルアウトに追いやられたが、足を引き摺ったままプレイを続けるコービーがオーバータイムのチームの得点の殆どをあげるという活躍を見せ、レイカーズを勝利に導いた。レイカーズはその後4勝2敗でペイサーズを降し、レイカーズにとっては1988年以来の優勝を決めた。コービーにとっては4年目にして初の優勝となった。チャンピオンチームとして迎えた新シーズンもコービーは平均28.5得点をあげるなど絶好調で、私生活ではプレーオフを前にした4月に電撃結婚するなど嬉しい話題もあった。チームは56勝26敗と前年ほどではなかったが、プレーオフに入れば1回戦からカンファレンス決勝までの全シリーズを全勝で勝ち抜くという圧倒的な強さでファイナルに進出。ファイナルではコービーとは同期であるアレン・アイバーソンのフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対決し、4勝1敗で降して連覇を達成した。連覇を果たし、オールNBAチームなどにももはや常連となっていたコービーだが、過去2年は故障にも苦しみ、1999-00シーズン、2000-01シーズンは2年連続で出場回数は60試合代に留まっていた。しかしこのシーズンにはキャリアで初めて80試合に出場し、成績も25.2得点5.5アシストと高水準を維持。オールNBAチームでは初の1stチームに名を連ねた。出身地であるフィラデルフィアで開催されたオールスターでは自身初のMVPを受賞。しかし前季のファイナルで地元のチームフィラデルフィア・セブンティシクサーズをレイカーズが破っているため、オールスターにファイナルの感情を持ち込んだ観客から心無いブーイングを食らってしまい、コービーにとって地元でのオールスターは傷心のMVPとなってしまった。プレーオフでは3年連続でファイナルに進出し、ジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツと対決。4戦全勝という最高の形でシリーズを制し、ついに三連覇を達成した。当時23歳だったコービーは、3回の優勝を経験した史上最も若い選手となった。三連覇を達成して無敵の名をほしいままにしていたレイカーズだが、コービーとシャックの反目は優勝の美酒に和らぐどころかむしろ年々強まっており、彼らのロッカールームは冷め切っていた。2002-2003シーズンはシャックが開幕から欠場。シャックの不在で伸び伸びとプレイしたコービーはこのシーズン初のアベレージ30得点越えとなる30.0得点6.9リバウンド5.9アシストを記録し、得点王レースでは2位につけるなど個人としては過去最高のシーズンを送っていたが、チームはコービーとシャックの不仲による影響や、三連覇したことでのモチベーションの低下などが響き、50勝32敗と波に乗り切れないシーズンだった。プレーオフではカンファレンス準決勝でスパーズと対戦し、2勝4敗で敗戦。レイカーズの連覇記録もこの年に途絶えた。王座奪回を目指すレイカーズはオフにカール・マローンとゲイリー・ペイトン、2人のビッグネームを獲得するという大型補強を敢行。シャックにコービー、マローン、ペイトンと史上類を見ない豪華な陣容に、新シーズンのレイカーズへの期待はいやが上にも高まった。しかし再び頂点に返り咲くはずだったシーズンを、コービーはコート外のスキャンダルで台無しにしてしまう。オフの6月に19歳の女性からレイプされたと訴えられたのである(詳細は後述)。このスキャンダルでコービーは観客のブーイングや裁判所とアリーナを行き来する生活に悩まされるシーズンを送る羽目となった。また期待の補強組もマローンがシーズンの半分近くを欠場、全ての栄誉を手に入れてしまったオニールのモチベーションは益々下がっており、さらに今度はコービー自身も膝や肩の故障に襲われるなど、このシーズンのレイカーズは受難続きだった。それでもプレーオフでは勝ち抜いて、ファイナルに進出。デトロイト・ピストンズと対戦するが、1勝4敗と完敗を喫してしまい、王座奪回は失敗に終わった。この頃になるとコービーとシャックの関係は危険水域に達していた。シャックはコービーの独りよがりなプレイが気に入らず、コービーとしては完璧主義な自分と対照的に、練習嫌いで知られるシャックがコンディショニング不足により、度々チーム練習やレギュラーシーズンの試合を欠席していたという状況、そして三連覇を達成しても評価が上がるのはシャックばかりという状況(3回の優勝でファイナルMVPを獲得したのは全てシャック)は受け入れ難いものだった。また、コービーは常にシャックの機嫌を伺いながら指揮するジャクソンHCにも不信感を抱いており、21世紀最初の王朝を築いたチームはすでに内部崩壊していた。2004年のオフシーズン、ついにレイカーズ王朝に幕が降ろされる。この年、フリーエージェントとなったコービーは再契約を望むレイカーズに対し、この先もシャックをチームの中心に据えるなら、そしてジャクソンの下でプレーしなければいけないのならば自分は移籍する、という意志をちらつかせチームに“エースの座”を要求した。レイカーズは結局コービーを選択し、シャックとジャクソンはレイカーズを退団、夢のチャンピオンリングを求めてレイカーズにやってきたマローン、ペイトンもレイカーズを去り、同期のフィッシャーも移籍するなどして、王朝チームは完全に崩壊した。コービーはレイカーズと7年で総額1億3600万ドル(約168億円)の大型契約を結んだ。ちなみにこの時ロサンゼルス・クリッパーズはコービー獲得を本気で狙っていた。晴れてエースの座に座ったコービーだったが、彼を待っていたのは辛い現実だった。新ヘッドコーチには名将ルディ・トムジャノビッチを招き、ラマー・オドムやカロン・バトラーら新戦力を揃えたが、一度ゼロから仕切り直したチームが王朝時代のように勝てるはずもなく、2004-2005シーズンは34勝48敗と負け越し、11年ぶりにプレーオフ出場を逃すという屈辱を味わった。新エースとして意気込んで新シーズンに臨んだコービーも27.6得点6.0アシストの成績を残すも、フィールドゴール成功率は43.3%の低水準に沈み、評価を上げるどころかシャックやジャクソンを追い出した挙句にプレーオフにすら導けなかったとして、NBAファンや関係者からはコービーに対する激しい“バッシング”が巻き起こった。トムジャノビッチHCはシーズン終了を待たずして「体調不良」を理由に突然ヘッドコーチを辞任してしまったが、オフには1年前に退団したばかりのジャクソンが再びレイカーズのヘッドコーチとして招聘された。ジャクソンはこの期間に出版した著書“"The Last Season"”の中でコービーを「コーチング不可能な選手」などと痛烈に批判しており、コービーとの関係が不安視されていたが、コービー自身はレイプスキャンダルがようやく解決したこともあり、新シーズンを良好な状態で迎えようとしていた。2005-06シーズンはコービーの類稀な得点力が遺憾なく発揮されたシーズンだった。開幕から4試合連続で30得点以上を記録すると、8試合目で42得点をあげたのを皮切りに、このシーズンは27試合で40得点以上を記録。極めつけは1月26日のトロント・ラプターズ戦で達成した“81得点”である。この1ヶ月前のダラス・マーベリックス戦では3Q終了時点ですでに62得点をあげていたが、試合の大勢はすでに決まっていたためジャクソンHCは4Qでコービーを起用しなかった。そしてこのラプターズ戦でもジャクソンはコービーをベンチに下げようとしたが、アシスタントコーチに制止されたため、コービーの偉業が達成された。81得点はウィルト・チェンバレンが記録した100得点に次ぐ“歴代2位”の記録となった。マイケル・ジョーダンと共にシカゴ・ブルズ黄金時代を築いた経験のあるジャクソンHCは試合後「今夜のコービーはジョーダンのどんな試合よりも凄かった。」とコービーに最大限の賛辞を送った。次々と高得点を叩き出したコービーのこのシーズンの成績は35.4得点5.4リバウンドとなり初の得点王に輝く。アベレージ35得点越えはジョーダンが1986-87シーズンに記録して以来の極めて高い数字だった。絶好調のコービーに率いられてレイカーズはこのシーズン45勝37敗と勝ち越し、プレーオフにも復帰。1回戦でフェニックス・サンズと対戦した。第4戦では2点ビハインドの状況で試合終了間際にジャンプショットを決めて試合を延長に持ち込ませると、オーバータイムでは1点ビハインドの状況で今度はブザービーターを炸裂させ、チームに劇的な逆転勝利をもたらしている。結局シリーズはサンズがものにし、レイカーズは1回戦で敗退したものの、この年はコービーを“現役屈指のスコアラーの一人”から“歴代屈指のスコアラーの一人”と、その評価を一段階押し上げたシーズンだった。2006-07シーズンに入ってもコービーの勢いは止まらず、チェンバレン以来となる1シーズンで50得点以上を10回記録。(3月には4試合連続で50得点以上を挙げた。)31.6得点5.7リバウンド5.4アシストの成績で2年連続で得点王に輝き、オールスターでは2度目のMVPを獲得した。コービーの孤軍奮闘の活躍もあってチームも2年連続でプレーオフに進出し、昨シーズン同様1回戦でフェニックス・サンズと対戦した。2連敗で迎えた第3戦では45得点を挙げ一矢報いるも優勝候補の一角サンズとの大きな戦力差は明白で2年連続の1回戦敗退となった。コービーが次々と叩き出す並外れた数字に「一人でシュートを打ちすぎる」、「チームの勝利よりも自分の得点を優先させている」と眉根を寄せる人々も少なくなかったが、それでもコービーが史上最高クラスのスコアラーであるという点では多くの人々の間で意見は一致しており、また一部からは「こと得点力に関してはジョーダンを越えているのではないか」という声さえ上がり始めた。この頃にはスキャンダルで著しく汚されたコービーへのイメージも大分回復しており、ジャージー売り上げは全選手で1位に輝くなど、周囲からの評価はかつてないほど高まりつつあった。しかしそんな巷の評判を他所に、コービー自身はプレーオフ1回戦敗退を繰り返すチームに“不満”を募らせていた。コービーのチームに対する不満は2年連続でサンズの前にプレーオフ1回戦敗退を喫した後に爆発。チームに対し、補強が進まない場合は自身を“トレード”して欲しいと要求した。コービーがとったこの行動がここまで積み重ねてきたコービーへの評価を再び台無しにすることになってしまい、トレード要員になるはずのチームメイトに対する配慮に欠けた発言や、チームフロントに対する攻撃的な批判はファンの反感を買った。コービー自身はその後トレード要求を撤回したが事態は収まらず、コービーはホームのステイプルズ・センターで開催された2007-08シーズンの開幕戦で、レイカーズファンからブーイングを浴びてしまったのである。しかし新シーズンが始まるとコービーはそれまでの苛烈な発言を一切封印してプレイに集中し、以前よりも増して“リーダーシップ”を発揮するようになり、コービーの変化にチームも刺激されたか最初の10試合を7勝3敗と快調な滑り出しを見せた。開幕前には3シーズンレイカーズから離れていたフィッシャーが復帰しており、またトレード要求の一件でコービーとひと悶着あったアンドリュー・バイナムが急成長を見せるなど、好材料が揃っていた。オフでは結局コービーが望んだような大型補強はなかったが、トレードデッドライン目前の2月になって、コービーを歓喜させる重要なトレードが実行される。メンフィス・グリズリーズからリーグ有数のビッグマン、パウ・ガソルを獲得したのである。このトレードでレイカーズが失ったものは無きに等しく、「近年最も不公平なトレード」として記録されるが、シャックの退団以後インサイドの駒不足に悩んでいたレイカーズにとってはこの上ない補強であり、レイカーズの戦力は大幅に向上した。レイカーズは勝ち星を積み重ね、混戦となったウエスタンカンファレンスでトップとなる57勝を記録し、一躍優勝候補へとのし上がった。コービーは28.3得点6.3リバウンド5.4アシストを記録し、念願の“シーズンMVP”を受賞した。開幕直後にはコービーにブーイングを浴びせていたステイプルズ・センターのファンも、シーズン終盤にはコービーに対し“MVP”コールを送った。プレーオフではウエストの並み居る強豪を蹴散らして5年ぶりのファイナルに進出。奇しくも同じ年に名門復活を果たしたレイカーズの永遠のライバル、ボストン・セルティックスと対戦したが、セルティックスの堅い守りを崩せず、2勝4敗で敗退した。オフには初めてアメリカ代表としてオリンピックに出場し、金メダルを獲得。代表チームでは得点に対する欲を捨て、主にディフェンスでの献身的な姿勢が高く評価され、コービーが以前のコービーではなくなったことを周囲に改めて認識させた。そして迎えた2008-09シーズン、レイカーズは優勝候補筆頭として開幕から快進撃を続け、65勝17敗で2年連続カンファレンストップに立った。コービー自身は靭帯が断裂した右手小指の手術が出来ずに開幕を迎えていたことが不安視されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。チームの戦力が大幅に改善されたことで、これまでのように毎試合フル出場する必要はなくなったため、このシーズンは平均36.1分と先発に定着してからでは最も少ない数字となり、出場時間の減少で成績は26.8得点5.2リバウンド4.9アシストだったが、それでもコービーがリーグ最高峰の選手であることは変わりなく、2月2日にはニューヨーク・ニックスのホーム、マディソン・スクエア・ガーデンで当時のアリーナ“新記録”となる61得点を記録するなど、話題を振りまくことも忘れなかった。オールスターでは自身3度目のMVPを獲得している。プレーオフではカンファレンス準決勝でトレイシー・マグレディとヤオ・ミンという主力が飛車角落ちしたヒューストン・ロケッツ相手に第7戦に持ち込まれるなど苦戦する場面もあったが、期待通りに2年連続でファイナルに進出。王座奪還に燃えるコービーは対戦相手のオーランド・マジックに対し、第1戦で40得点を記録して先制パンチを浴びせると、その後もコンスタントに高得点をあげ続け、マジックに殆ど付け入る隙を与えず、4勝1敗でファイナルを制した。コービーにとっては7年ぶりの“優勝”となった。シャックがレイカーズを退団してからのコービーの5年間は、「シャックが居なくても優勝できる」ことを証明するための5年間でもあった。そしてようやく成果を収めたこのファイナルでシリーズ平均32.4得点7.4アシスト5.6リバウンドを記録したコービーは、念願の“ファイナルMVP”を獲得した。そして、シャックもコービーの実力をついに認め、祝福の言葉を送った。コービー自身キャリア2度目の連覇へ向けての挑戦となったこのシーズン、NBAで2年連続優勝したチームはコービーがシャックとのコンビで三連覇を達成した2002年のレイカーズが最後で、それ以来どのチームも達成出来ていない。開幕からガソルが怪我で欠場した事もあり、コービーはガソルが欠場した最初の11試合で4度の40得点オーバーを記録するなど過去2年ほどレギュラーシーズンでは抑えていた得点能力を存分に発揮する事になる。また12月4日のマイアミ・ヒート戦では、ドウェイン・ウェイドの上から逆転ブザービーターを決めるなど最高のスタートを切ったと思われたが、12月11日のミネソタ・ティンバーウルブズ戦で試合中に相手選手との接触で右手人差し指を剥離骨折してしまう。コービーは欠場こそ免れた物の残りのシーズンをテーピングを巻いて戦う事となる。しかし12月16日のミルウォーキー・バックス戦で再び逆転ブザービーターを決めるなど骨折の影響を感じさせないプレーを披露すると、年が明けた1月1日のサクラメント・キングス戦でも逆転ブザービーターを決め、リーグトップクラスの選手でも数年に1度あるかという決勝ブザービーターを、わずか1ヶ月の間に3度も決めて見せた。結局コービーはシーズン終了までに6度の決勝シュートを沈め、驚異の勝負強さを改めて知らしめる事となった。また、2月1日のメンフィス・グリズリーズ戦ではジェリー・ウェストの保持していたレイカーズのチーム通算得点記録を更新し、4月2日には、来季で終了するレイカーズとの契約を、35歳になる2013-14シーズンまで3年総額8960万ドル(約85億1000万円)で延長するなど、明るい話題もあった。一方で体の方は骨折した右指に神経を使いながらプレーするあまり、新たに足首、膝、背中を痛めてしまうなど試合毎に怪我が蓄積しており、31歳のコービーの体は“満身創痍”の状態になっていた・・・。プレーオフ1回戦オクラホマシティ・サンダー戦はコービーのコンディションの悪さもあって、最初の4試合を2勝2敗のタイで終える。この時点でコービーの膝は、このシリーズ中に膝に溜まった水を抜く処置をしなければいけない程ヒドくなっていた。しかし結果的にその処置が功を奏し、復調の兆しを見せたコービーに引っ張られるようにレイカーズはその後きっちりと連勝し苦しみながらも1回戦を突破した。その後のカンファレンス準決勝のユタ・ジャズ、決勝のフェニックス・サンズも本来の動きに戻りつつあるコービーを相手は止めることが出来ず、レイカーズは3年連続のファイナル進出となった。ファイナルでレイカーズを待っていたのは、2年前破れた宿敵ボストン・セルティックスであった。リーグ屈指のディフェンス力を誇るセルティックス相手に互いに一進一退となった攻防は、伝統の一戦に相応しく第7戦までもつれこむ事となった。激しい試合となった第7戦は序盤からセルティックスが有利に試合を進めて行くも、ホームの後押しを受けたレイカーズが徐々に追い上げ第4Qついに同点に追いつく。この試合ここまで堅い守りに苦しめられてきたコービーだったがこの状況でついに目覚め、逆転フリースロー、さらに続けざまにジャンプシュートを沈め連続4得点を奪い一気に流れを引き寄せた。結局このリードを守りきり追いすがるセルティックスを83-79で振り切ったレイカーズが2年前のリベンジを果たし“連覇”を達成した。満身創痍でシーズンを戦い抜いたコービーは自身5度目の優勝、そしてシリーズ平均28.6得点8.0リバウンドを記録し2年連続となる“ファイナルMVP”を受賞した。オフシーズンにフィル・ジャクソンHCが、このシーズンを最後に監督業からの完全引退を表明するなどレイカーズはチームとしての集大成的な意味合いを持つシーズンとなった。コービーはオフに手術した右膝の回復が予定より長引いたため、プレシーズンからのぶっつけ本番でコンディション作りに励む事になった。それでもシーズンに入るとコービー自身からは「問題無い。」と言った言葉が何度と無く聞かれたが、実際には手術した右膝の状態が思わしくなく、3年連続でのNBAファイナル出場や北京五輪出場といった度重なる連戦により体を酷使していた影響で、右膝の軟骨が磨り減ってほとんど無いような状態になってしまっていた。コービーはチーム練習にもシーズン通して都度、参加出来ないような状態で、ジャクソンHCはコービーの出場時間をセーブするという方法を取らざるを得ず、これはシーズン通して徹底され試合展開やコービーの好不調関係無く決まった時間帯には必ず下げるという方法を取り続けた。その結果レギュラーシーズンのコービーのプレイタイムは、昨シーズンから1試合平均5分も少なくなり、平均33.9分にまで減少した。平均33.9分という数字はコービーがプロ入り後、先発に定着してから最も少ない数字であり、それより少ない出場時間になると、実にプロ2年目で6thマンだった13年前の1997-98シーズンにまでさかのぼってしまう。レイカーズはチーム成績こそ昨シーズンと同じ57勝25敗のウエスタンカンファレンス2位で終えたが、チームはコービーの出場時間減少の影響や新加入選手が期待された活躍が出来なかった事もありシーズン通して試合内容が安定せず、シーズン終盤には5連敗を喫するなど好不調の波が非常に激しいシーズンとなってしまった。コービーはこのシーズン怪我に苦しみ出場時間を大幅に抑えられたが、レギュラーシーズン全82試合に先発出場し、平均25.3得点という数字を残した。また、レイカーズの地元ロサンゼルスで行われたオールスターでは“NBA歴代最多タイ”となる自身4度目のMVPを獲得し、レギュラーシーズンのNBA歴代通算得点記録では、シーズン前の歴代12位から、このシーズンで一気に歴代6位まで引き上げるなど個人としての話題に事欠くことはなかった。プレーオフ1回戦はニューオリンズ・ホーネッツと対戦。下馬評ではレイカーズ圧倒的有利だったが、安定感の無かったレギュラーシーズンのチーム状況そのままに初戦を落としてしまう。その後、4勝2敗で1回戦は突破したものの、明らかに昨シーズンまでの安定感はレイカーズになくなってしまっていた。カンファレンス準決勝のダラス・マーベリックス戦でも1回戦同様初戦を落とすと、相手のエース、ダーク・ノヴィツキーとマッチアップしたガソルの絶不調もあり終始抑える事が出来ず、またベンチ力の差もまざまざと見せ付けられ、結局このまま4連敗で屈辱のスウィープ負けとなってしまった。コービーはプレーオフに入ってからジャクソンHCにより多少出場時間は伸ばされたが、それでもシーズン同様、昨シーズンのプレーオフから1試合平均5分近く出場時間が減らされ、例年のような爆発力を見せる機会も無いままチームとしても個人としても、なんとも“不完全燃焼”でシーズンを終えることになってしまった。キャリア初期よりジャクソンHCと苦楽を共にしてきたコービーは試合後「自分はジャクソンHCの下で育った。バスケットのことだけではなく、物事へのアプローチの仕方、考え方は彼から大きな影響を受けた。(ジャクソンHCのいない)来シーズンのことを考えると何だか不思議な気持ちになる」と語り、本来の力を発揮できないまま恩師との最後のシーズンを終えてしまった事に悔しさを滲ませた。ジャクソン退任後の新HCには、一昨年までクリーブランド・キャバリアーズを指揮していたマイク・ブラウンが就任した。トライアングルオフェンスからの脱却に伴いメンバーの改革を図ったレイカーズは、33歳になったコービーの負担を軽減するため一流ポイントガードの補強に着手した。そして、ガソル、オドムの絡んだ三角トレードでクリス・ポール獲得に動き、チーム間で合意に達したが、正式承認直前にNBAコミッショナーのデビッド・スターンが介入し、トレードを阻止するという異例の事態が起きた。これは昨シーズン、ドウェイン・ウェイド、レブロン・ジェームズ、クリス・ボッシュの各チームでエースだった3人がマイアミ・ヒートに集結して物議を醸し出したように、一部のチームにスター選手が集中してしまうリーグの事態を懸念してのものだった。結果的にトレードは中止となったものの、選手の知らない水面下で進んでいたトレード内容が公になったことで、トレードに絡んでいたことにショックを受けた昨シーズン6thマン賞のオドムが自身を放出するようチームに要求するなど、一転して補強の計画が全て狂ったレイカーズは、昨シーズンより戦力が低下した状態で開幕を迎える事となってしまった。コービー自身キャリア二度目となるロックアウトの影響で2ヶ月遅れの開幕となったこのシーズン、ここ数年満身創痍の状態でプレーしているコービーにとって、オフシーズンが長引いた事は結果的に好都合だった。特にオフ期間中ドイツで手術した右膝の経過が良好で、コービーはここ数シーズンで一番良いコンディション状態を保ち開幕を迎えようとしていた。ところが、開幕戦を6日後に控えたプレシーズンマッチで右手首の靭帯を断裂してしまい、またしても怪我を抱えながらシーズンを戦う事となってしまった。それでも出場が危ぶまれた開幕戦からスターターに名を連ねると、これまで同様、試合中はしっかりと怪我に対応し靭帯断裂の影響を感じさせないプレーでチームを引率、1月には4試合連続で40得点オーバーを記録するなど序盤から得点ランクトップをひた走る活躍を見せた。また、NBA歴代タイ記録となる14回連続出場となったオールスターでは、マイケル・ジョーダンが保持していた通算得点記録を塗り替え、“オールスター通算得点記録保持者”となった。一方で、この試合中にドウェイン・ウェイドからハードファウルを受け、鼻骨骨折に加え、軽い脳震盪を起こすなどしたが、3日後に行われたオールスター明け最初の試合も欠場する事なく、フェイスガードをつけて試合に臨んでいる。最後まで僅差となった得点王レースでは、先にシーズンを終えたトップのケビン・デュラント28.0得点とわずか0.1ポイント差、27.9得点の2位でシーズン最終戦を迎えたが、チームの順位は既に決まっていたため最終戦は欠場し、若いデュラントに得点王を譲った。オドム放出の影響などでリーグワーストとなったレイカーズのベンチ層の薄さも重なって、コービーはこのシーズン右手首の靭帯断裂や鼻骨骨折といった怪我を抱えながらも、平均出場時間は38分を超えるなど奮闘、27.9得点、5.4リバウンド、4.6アシストの成績を残し、7年連続、自身10度目となるオールNBAファーストチーム入りを果たしている。オフシーズンの補強に失敗し、昨シーズンから戦力が低下して望んだレイカーズは41勝25敗のウエスタンカンファレンス3位でレギュラーシーズンを終えた。プレーオフ1回戦ではデンバー・ナゲッツと対戦し第7戦の末に勝ち上がったが、続く2回戦で優勝候補筆頭のオクラホマシティ・サンダーを倒すまでには至らず、1勝4敗で2年連続の2回戦敗退となってしまった。オフシーズンにドワイト・ハワードとスティーブ・ナッシュが加入し、コービー、ガソルと共に「プレミアム4」として注目が集まったこのシーズン、キャリア通して相方にオールスタークラスのポイントガードがいなかったコービーにとって、ナッシュの加入は本来の役割である得点に専念出来ると同時に、自身の負担を軽減する事にもなるという大きな期待を受けての加入だった。しかし、レイカーズは序盤から連敗を重ねるなど攻守において噛み合わず、シーズン開幕から、わずか5試合でHCのマイク・ブラウンが解任され、後任には全くスタイルの異なるマイク・ダントーニが就任するなどチームは迷走していった。プレミアム4の一人として期待されたガソルはプレーエリアが極端に狭いハワードと共存出来ず、自身の衰えも相俟って成績を大きく落とした。また、ゲームメイクを期待されて加入した38歳のナッシュも衰えを隠せず、シーズンが進むにつれコービーは得点とゲームメイクの両方を担うようになるなど試合毎に負担は増していった。コービー自身も34歳という年齢であり、オフェンスでの負担の大きさから、ディフェンスまで力を注ぐスタミナは以前のように残っていなかった。それでもコービーが担う役割が大きくなるのと比例するようにチームは成績を伸ばし始め、ハイレベルなウエスタンカンファレンスにおいてシーズン序盤の借金でプレーオフ進出すらも危ぶまれていたチームは中盤以降の追い上げでプレーオフ争いに加わるまで成績を戻す。プレーオフ争いが熾烈さを増す3月後半からはコービーの出場時間は毎試合40分を超えるなど異常事態になっていた。そして、プレーオフを目前に控えた4月12日のゴールデンステート・ウォリアーズ戦、この日もコービーは何度もコートに倒れこみながらも、一度も休むことなく試合に出続けた。しかし、試合終盤ドライブを仕掛けた所で左アキレス腱を完全断裂し(全治6〜9カ月)、無念のシーズン終了となった。34歳のコービーは、このシーズン78試合出場、27.3得点、6.0アシスト、5.6リバウンドと依然としてハイアベレージを記録し“NBA歴代最多タイ”となる自身11度目のオールNBA1stチームに選出された。レイカーズはシーズン中盤以降の追い上げによりウエスタンカンファレンス7位でプレーオフに滑り込むも、引き換えにプレーオフ目前で絶対的エースの離脱というあまりにも大きな代償を負い、サンアントニオ・スパーズにスウィープ負けを喫し1回戦敗退となった。2014年12月8日のトロント・ラプターズ戦で左アキレス腱の断裂から8ヶ月ぶりに戦列復帰したが、同17日のグリズリーズ戦で相手選手との接触プレーで右膝を負傷し、MRI検査の結果、脛骨プラトー骨折(全治6週間)と診断され再び欠場を余儀なくされる。その後の回復の経過が思わしくなかった為、以降の試合を全休。僅か6試合の出場に終わり、チームもパシフィック・ディビジョン最下位で9年ぶりにプレーオフ進出を逃した。シーズン開幕戦で、左アキレス腱の完全断裂と右膝の脛骨プラトー骨折という二つの大怪我から、約一年ぶりに復帰を果たした。2014年12月14日に行われたミネソタ・ティンバーウルブズ戦で、マイケル・ジョーダンのレギュラーシーズンキャリア通算得点(32,292得点)を上回り、“通算得点歴代3位”に浮上した。しかし、2015年1月22日のニューオーリンズ・ペリカンズ戦で試合中、右肩を負傷。精密検査の結果、右肩回旋筋腱板の断裂で手術が必要と診断され(全治9ヵ月)、3シーズン連続、大怪我でのシーズン途中離脱となった。2015年11月29日「親愛なるバスケットボールへ」と題したメッセージを発表し、今シーズン限りでの現役引退を正式に表明した。コービーは「僕の身体が別れの時だと言っている。心は高鳴っているし、気持ち的にもまだやれる。でも、身体が別れの時が来たと言っていて、それを受け入れた。」「皆さんの気持ちを楽にする準備は整った。これで、共に過ごす、残りの一瞬一瞬を大切にすることができるんだ。良い事も、そうでない事も、僕達は互いに持てる全てを出し切ったのだから。」とつづった。NBAコミッショナーのアダム・シルバーはすぐさま声明を発表し「レイカーズで17度のオールスター選出、シーズンMVP、5度のNBA制覇、さらに米国代表として五輪で2度の金メダル獲得、そして、相手に対して容赦しないプレースタイル。絶えることなく労働倫理を貫いたコービー・ブライアントという選手はバスケットボール史上において、歴史に残る偉大な選手の1人です。」「ファイナルで優勝を争うことも、真夜中に無人のジムでジャンプシュートを打つことも、コービーはバスケットボールに無条件の愛を注いできました。」「私も、世界中に点在するコービーファンとともに、彼の傑出したNBAキャリアを祝し、数々のスリリングな瞬間を見せてくれたことに感謝しています。」と敬意を表した。コービーの引退表明が各方面に与える影響は大きく、マイケル・ジョーダンも声明を発表し「コービーの存在は、バスケットボール界とNBAにとって大きな助けとなった。」「君が成し遂げてきた素晴らしいキャリアを、我々は非常に誇りに感じていると伝えたい。」「世界中に君のファンがいるように、私も君の大ファンの一人で、今でも君のプレーを観るのが好きだ。」「私は兄で、君は弟のような存在。電話番号は知っているだろう。これからも連絡を取り合おう。」と自身の引退以降、NBAの「顔」として期待と重圧を一身に背負いバスケットボール界を盛り上げてきたコービーを労った。また、サッカーアルゼンチン代表のリオネル・メッシは「コービー・ブライアントは歴史上最も偉大な選手の1人として名前が刻まれるだろう。僕はあなたの魅力溢れるプレースタイルのおかげでバスケットボールに興味を持ったんだ。コービーの新しい人生に幸運が訪れますように。」と自身のFacebook上にメッセージを投稿した。その他、オバマ大統領からはホワイトハウスに招待され、バスケットボールや引退後について会談した。2016年1月21日、ファン投票で最多得票を獲得し、自身の持つNBA記録を更新する18年連続のオールスターゲーム出場が決定した。4月13日、現役引退試合となったレギュラーシーズン最終戦vsユタ・ジャズ戦では、10点ビハインドで迎えた残り試合時間2分30秒からゾーンに突入し、一人でノーミスの13連続得点を挙げ、チームを逆転勝利へと導いた。コービーは現役引退試合でキャリア6度目となる60得点を記録し、有終の美を飾った。コービーがこの試合で記録した37歳での60得点は、ウィルト・チェンバレンが48年前に記録して以来、誰にも破られていなかった32歳での60得点を大幅に更新する“NBA史上最年長記録”となった。コービーはデビュー当時からことあるごとにマイケル・ジョーダンと比較される。これまで、同世代のアレン・アイバーソン、トレイシー・マグレディ、ビンス・カーター、一つ下の世代のレブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイドら、多くのスター選手が若手時代にネクスト・ジョーダンと期待されてきたが、コービーほどキャリアを通して極端に比較され続けてきた選手は他にはいない。それは実績とカリスマ性に加え、ポジション、プレースタイル、体格、ともに闘争心旺盛で筋金入りの負けず嫌いであることなど、類似点が非常に多いことも理由の一つとして挙げられる。またコービー自身も、全盛期のジョーダンのプレーを見て育った世代のため、他の選手たちと同じように影響を受けたものは多いと語っている。ジョーダン自身も、1998年のオールスターゲーム終了後に後継者としてコービーを指名しており、現役最後となった2003年のオールスターゲームの際にも、次代を託した若手スター選手の一人としてコービーの名を挙げていた。また、引退して月日が経った2012年には「自分の引退後のプレイヤーの中で、自分と比較されるにふさわしい選手はコービーだけだ。」と語っている。ジョーダンと共に6回の優勝、コービー共に5回の優勝をしたフィル・ジャクソンは、2013年に出した著書の中で両者を比較しており、コート外でのリーダーシップ、FG成功率、ディフェンスでの貢献度、以上3点を理由にジョーダンの方が上である、とこの比較論を結論づけている。(ただし、コービーが81得点を挙げた試合後、「ジョーダンのどのゲームよりもコービーがすごかった」と発言していたり、「最も重要な場面ではジョーダンよりコービーにシュートを任せる」などとも過去に発言したことがあり、ジャクソンHCの中でも評価は一定とは言いがたい。)また、両者のゲームの進め方について、ジョーダンは自然とゲームの流れを自分に引き寄せるタイプで、コービーは強引にゲームの流れをつかみ取ろうとする部分があったと語っている。これは大学卒業してからNBAに入ったジョーダンと、高校卒業後にNBA入りしたコービーの違いなのかもしれないと述べている。しかし両者の一番の違いはプレー面ではなくリーダーシップ面にあるとし、2人ともチームメイトに対して厳しく接するタイプだが、その中でもジョーダンはチームの士気をコントロールする力は、ずば抜けていたと述べている。コービーの国際試合デビューは意外にも遅く、アメリカ代表に参加したのは2008年の北京オリンピック予選を兼ねた2007年のバスケットボールアメリカ選手権からだった(過去に何度か代表入りの話はあったが、故障などで機会を逸していた)。すでにNBAで不動の地位を築いていたコービーの待望の代表チーム参加とあって大きな話題となり、アメリカ代表は前回のアテネオリンピックでNBA選手をオリンピックに送り出して以来、初めて金メダルを逃していたことや、レブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、カーメロ・アンソニーら若手選手中心で臨んだ2006年の世界選手権でも銅メダルに終わっていたこともあり、コービーはアメリカの“最終兵器”として期待を寄せられた。また、コービーが代表に参加したことで、しばらく使われなくなっていた「ドリームチーム」というアメリカ代表の名称がメディアで再び使われるようになった。代表チームには、すでに下の世代のスコアラーが大勢居たため、コービーは自ら積極的にサポート役に回り、またディフェンスでは相手チームのエースを大いに苦しめ、若い選手中心で構成されたチーム内では高いリーダーシップも発揮した。コービーの代表参加は大成功となり、本番の北京五輪ではあっさりと決勝に進出。唯一の接戦となった決勝スペインとの対戦では、第4Qだけで13得点をあげるなど格の違いを見せ、チームを見事、金メダルに導いた。中国では近年NBAの人気が高まっていたこともあり、コービーは中国のファンからも大きな声援を受けた。2012年のロンドンオリンピックにはチーム唯一の30代となる33歳で選出され、全試合に先発出場。未だNBAトップクラスの実力を維持していながらも、最年長として北京五輪時よりも、より黒子に徹したプレーで下の世代の選手たちをサポートし、チームを二大会連続の金メダルに導いた。かねてから話にあがっていたが、ロンドン五輪終了後のインタビューで改めて代表から退く意向を示し、コービーはアメリカ代表として出場した国際試合無敗(31勝0敗)を誇ったまま終える事となった。『概要』ブライアントはデビュー時よりバスケットボール界の若きスーパースターとして活躍し、NBAで最も人気のある選手の一人としたがコロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルは当時、彼の人気の多くを奪った。ブライアントはスキャンダルの結果マクドナルドとイタリアの菓子メーカー、フェレーロとの契約を失った。2003年6月30日にコロラド州イーグル郡エドワーズのコロラド・ホテルでフロントデスクとして勤めていた19歳の女性が、同州に膝の治療の為に訪れ、同ホテルに滞在していたブライアントにレイプされたと訴えた。ブライアントは7月17日に逮捕されたが、直ちに保釈された。彼は女性との関係を認めたが、合意の元であると主張した。『経過』当時、既にNBA屈指のスーパースターであり犯罪とは無縁のイメージのあったブライアントを突如襲ったスキャンダルということもあり、事件発生以来、全米のメディアがコロラドの現場に殺到。「コロラド・キャンプ」と呼ばれる報道陣村を作って待機し、連日のニュースに加えて特別番組も放送されるなどメディアの報道は過熱した。この事件の行方は「O・J・シンプソン事件以来のスポーツ界の一大スキャンダル」としてこの年、全米最大の関心事の一つになった。裁判はシーズン中にも行われ、彼はその都度コロラドの裁判所に出頭しなければならず、肉体的・精神的消耗が激しい上に練習不足の状態で試合に出なければならないことも度々であった。また、試合中も激しいブーイングに悩まされた。しかし、ブライアントはタフな精神力を見せ集中力を切らすことなくシーズンを終え、まずまずの成績を残した。『結末』訴えた女性が同時期に、ブライアント以外にも3日間に3人の別の男性と肉体的関係を持っていた事も発覚し、当初から芸能人志望でオーディション番組に出場歴があった事も報道されるなど、この女性の証言にも矛盾する点が多々見られたため、結局この事件は、2005年オフに示談となった。2000年にファッションモデルのタイラ・バンクスとのコラボレーションでアルバム『Visions』とシングル「K.O.B.E」を発売し、ラッパーとしてCDデビューした。NBA記録NBA史上最年少記録NBA史上最年長記録レイカーズ記録(その他のレイカーズ記録)

出典:wikipedia

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