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阪急2800系電車

阪急2800系電車(はんきゅう2800けいでんしゃ)とは、かつて阪急電鉄に在籍した電車である。元来は京都線の特急形車両として登場し、後に通勤形電車に格下げされた。1963年(昭和38年)の京都線河原町延伸に際し、京阪神急行電鉄は特急列車の増発を計画した。この際、特急の運用数増加に対応する新造車として、混雑率を考慮して3扉ロングシート車である2300系が投入されたが、その結果、従来は特急に充当されていた710系や1300系といった2扉クロスシート車ではなく、2300系や100形(P-6)といったロングシート車が特急運用に充当される機会が増加した。この判断は、ラッシュ時の混雑緩和という観点では妥当であったが、その一方で当時京都線の輸送実績において大きな割合を占めていた京阪間直通客から着席乗車の機会を少なからず奪った。そのことに不満を抱いた京阪間直通客の多くは、着席可能性が大幅に低下した京都線特急を避けるようになった。一方で、特急を原則的に2扉クロスシート車で運行し、同時期に創業以来の悲願であった京阪電気鉄道が淀屋橋延長線を開業したことで、京阪神急行とは対照的に大阪側ターミナルの利便性がかなり改善され、競合線区とも言える京阪の特急を選択するようになった。そのため、京都市内では有数の繁華街であり、市電や路線バスの幹線系統が集中する交通の結節点でもある四条河原町への延長により京都市内での乗客の利便性が大幅に向上していたにもかかわらず、京阪神急行電鉄では河原町延長線の開業後に京都線特急の乗車率が低下する乗客の逸走現象が急激に表面化した。この時期には京阪電気鉄道は淀屋橋延長線開業に合わせた新型車として、全車両の空気ばね台車化と中間付随車のオールクロスシート化、それに「テレビカー」の増強と京阪神急行とは反対に積極的なサービス向上策を講じた1900系新造グループを投入して好評を博しており、京阪神急行電鉄の接客設備に対する消極策への不満が、京阪間直通客に占める京都線特急のシェアの急低下の主因となっていることは如何ともしがたい状況であった。また、並行する国鉄の京阪神快速も1964年(昭和39年)から80系から113系への置き換えが始まっていた。そこで、迅速に対応策を講じることを迫られた京阪神急行電鉄は、同時期に千里山線(現・千里線)列車増発に伴う2300系の増備車扱いとして製造計画が進められていた車両の予算を急遽転用、京都線特急用として2300系を基本としつつ、2扉セミクロスシート車へ設計変更した車両を製造することを決定した。こうして1964年(昭和39年)より製造が開始されたのが本系列である。本系列は基本となった2300系と同様に、以下の4形式で構成される。これら各14両、計56両が1973年までにナニワ工機あるいはアルナ工機で製造された。編成はMc-Tcの2両編成を最小単位としたが、当初Mc-Tcの2両編成とMc-M-Tcの3両編成を組み合わせた5両編成で登場し、乗客の増加に合わせて3両編成用T車、2両編成用M車、T車と徐々に1両ずつ増結し、1973年に全7編成が4両編成+4両編成による8両編成となっている。そのため、実際にはMc-Tc+Mc-Tcの4両編成以上で運用され、1971年から開始された後述の冷房改造までは、事故・検査等のやむを得ない場合に、2800形と2850形に挟まれた2・3・4両編成単位でシステムが同一の2300系編成と差し替えて、同系との混結にて営業運転が実施されるケースが存在した。5両編成時代には梅田方に2両編成が来るように連結されており、2800形0番台車が先頭に立っていたが、1966年の6両編成化に際し、梅田駅の構造の影響で編成前部に乗客が集中する傾向があったことから、少しでも収容能力の向上を図るために編成を組み替えて、梅田からMc-Tc+Mc-T-M-TcをMc-T-M-Tc+Mc-Tcとする作業が実施された。この結果2800形2810番台車が梅田方の先頭に立つようになり、トップナンバーである2801が先頭に立つことは以後無くなった。なお、この編成組み替えに伴う増結順序の関係で、運転台付き車両と中間車の番号は4両単位で一致しておらず、例えば8両編成時代の第4編成の場合、梅田方から2814-2884-2834-2864+2804-2894-2844-2854となっていた。※編成各形式の括弧内は車両の番台を示す。また、2811Fなどの「F」はFormationの略記号で、編成を示す。つまり、この場合は「2811を先頭とする編成」を意味する。基本となった2300系と共通の、ナニワ工機(現・アルナ車両)が開発した準張殻構造を基本とする軽量設計による、角張ったシンプルな造形と簡潔な内部構造を備えた19m級全金属製車体である。これは前世代の1000系から採用された準張殻構造車体が、軽量化に大きな威力を発揮した反面、窓部や屋根をはじめとする各部の形状を本来の張殻構造のあるべき姿である円筒形に極力近づけるために複雑な形状とした結果、その設計が極端に複雑化し、製造コストやメンテナンスコストを大きく押し上げてしまったことへの反省から開発されたものである。この構造は初期車での行きすぎた外板厚削減の修正が行われた以外はほぼそのままの設計で以後の新型車に継承され、1980年代に入ってアルミ車体へ移行するまでの約20年に渡り、阪急電車のスタンダードとなった。基本となった2300系の窓配置はd1D3D3D2あるいは2D3D3D2(d:乗務員扉・D:客用扉、数字:窓数)であり、扉間の各3枚の客用窓はそれぞれ独立しているが、2扉セミクロスシート車として、シートピッチと窓の位置を一致させる必要が生じた本系列では窓配置がd1D 10 D2あるいは2D 10 D2となり、全ての側窓が専用設計の2枚単位のユニット式連窓となった。なお、2300系では広幅貫通路が用いられていたが、本形式を含む1964年以降製造の車両は通常の貫通扉付で製造された。これに対し、客用扉はラッシュ時の乗降をスムーズにする目的で2300系と同じ1,300mm幅の両開扉が採用され、車端部にはロングシートが設置された。この特急車らしからぬ仕様に対し、当初はそのコンセプトに矛盾があるとして批判が集中したが、結果的に両開き2扉というレイアウトはラッシュ対策と長距離客向けサービスの両立を図る上での最適解の一つであることが立証された。阪急でも本系列の後継として、同一の思想を基にした6300系を製造しているが、こちらでは扉を車端に寄せて車端部の座席を無くし、運転台直後以外の全座席のクロスシート化を実現した。だが、6300系は後年特急の途中停車駅が増えるに従って乗降の不便についての苦情が寄せられるようになっており、その結果6300系の後継である9300系では座席配置を含めて、本系列をベースに3扉化したレイアウトに変更された。これは、ラッシュ対策と長距離客向けサービスの両立という観点では本系列のレイアウトの方が望ましかったことを示唆するものであり、同時に特急車3世代それぞれが置かれた輸送状況の相違を物語っている。本系列の制御器はやはり2300系と共通の、電動カム軸制御器による抵抗制御と、ゲルマニウムトランジスタを用いた増幅器によってサーボモーターで円筒状に配された227段の界磁抵抗器(FR:Field Register)を超多段制御する分巻界磁制御を組み合わせて構成される東洋電機製造製ES-756で、これによって実現される定速度運転機能は50,65,80,90,100,105km/hと中高速域の6段階に指令可能で、停車駅が少ない特急を主体に運転されるべく製造された本系列においては非常に有用であった。なお、認可最高速度が110km/hの京都線で指令速度が最高105km/hとなったのは、速度計の誤差許容範囲を2.5%見込んだことと、下り勾配でパイロットモーターを用いる本制御器の追従遅れが発生する可能性があることを見込んでのものであった。また本系列の中で2847は例外的に1969年から界磁チョッパ制御の長期実験車として界磁チョッパ制御器を装備していた。主電動機は複巻補償巻線付き直流電動機である東洋電機製造製TDK-812-Aを採用し、これを1両分4個で永久直列接続にして使用された。なお、端子電圧340Vの永久直列から、各主電動機にかかる定格電圧の合計は340x4=1,360Vとなるが、これは最高速度で運転している状態から回生制動を使用した際に発生する電圧を低く抑えるための方策であり、これにより約10%のマージンが確保されていることになる。駆動システムは東洋電機製造が独自開発した、たわみ板による中空軸平行カルダンで、神宝線用の同級車である2000・2100系が採用したWNドライブとは駆動音が異なり、静粛性ではこちらの方がやや勝っていた。本系列の台車は同時期新造の2300系と同様に住友金属工業製のミンデンドイツ式金属ばね台車を標準とし、電動車は住友金属FS-345を、制御/付随車は住友金属FS-45をそれぞれ装着した。但し、形式番号の下1桁が「4」の編成に限っては比較試験を目的として、京阪間でのライバルであった京阪1900系の新造グループが採用したKS-70と同等の汽車製造製KS-74A・Bシンドラー式空気ばね台車を使用しており、その乗り心地のよさで好評を博した。ブレーキは複巻電動機採用のメリットをフルに生かすべく、常用タイプの回生制動機能が搭載されており、このため空制系もこの電動車による回生制動→電動車の空気ブレーキ→制御/付随車の空気ブレーキの順にブレーキに優先順位を付けて使用するHSC-Rとなっている。また2850形、2880形共にD3NHA形コンプレッサーが搭載されているが、8連化と同時に新製、組み込まれた2880形90番台車には新たに標準化されていた大容量のHB2000形コンプレッサーが搭載され、これによって組み込み先の2850形50番台車のコンプレッサーが撤去されている。回生制動の失効を避けるべく、パンタグラフは離線対策として電動車各車に東洋電機製造PT-42-Lを2基ずつ搭載されることになったが、当初Mc-M-Tcの3両編成で新造されたグループは4基のパンタグラフが隣接して架線に悪影響を及ぼすのを避けるため、本来ならば2830形に取り付けられるべきパンタグラフ2基を隣の2850形に取り付け、高圧引き通し線で給電する、という構造となっていた。ただし、実際に運用を開始した後に各パンタグラフを流れる電流量の調査を行ったところ、回生制動時でも電動車2両でパンタグラフが2基あれば充分であることが判明したため、1966年の6両編成化時に2850形2860番台のパンタグラフは撤去され、2830形は2880形を介して2800形から高圧引き通し線により1,500V給電を受けるように変更され、以後2両編成側に2830形と2880形が増結される際にも同様の方法が採られている。京都線の代表系列として特急や急行を中心とした運用に充当された。当初は6編成分が製造されたが、1966年に追加で1編成が製造された。本系列はその優れた車内設備で、就役開始当時5両編成であった京都線特急が8両編成にまで急成長を遂げる一因ともなった。本系列の冷房装置取り付け改造工事は会社の看板とも言うべき特急専用車であり、しかもライバル京阪が1971年7月から1900系に代えて冷房完備の新型特急車3000系(初代)の投入を開始したため、これを迎え撃つ形で、1971年施工の第3編成(2813F)を筆頭に最終となる1973年施工の第4編成(2814F)まで、本系列に対して最優先で実施された。この際、5100系以降の新造冷房車とは異なり、3面構造(逆台形)の風洞を取り付けられた。これは、クロスシートに座っている乗客に、具合良く冷風が当たることを考慮して採用されたものである。この冷房化に際しては、冷凍能力8,000kcal/hの東芝RPU-2202Aを4基搭載する集約分散方式が標準とされたが、通常の菱形パンタグラフを2基搭載するMc車(2800形)については屋根上スペースの不足と、扉開閉の機会が少ない特急車であることから3基搭載に留められた。ただし、冷房能力が不足した場合の冷房機増設と、これに伴うパンタグラフ取り付け位置の変更を考慮して、2830形についてはパンタグラフの移設取り付けが可能なスペースを持たせる形で冷房機搭載位置が決定されていた。1971年より1973年にかけて京阪が冷房・カラーテレビ付きの3000系(初代)を一気に新製投入したことで、本系列は陳腐化が目立つようになった。冷房化こそ特急車時代に優先的に実施されたものの、接客設備面では後発の京阪3000系に見劣りするのが隠せなくなりつつあった。更に、国鉄大阪鉄道管理局も1972年以降、山陽新幹線岡山開業に伴う山陽線急行の廃止で余剰となった153系を急行時代そのままの接客設備で新快速に転用、15分間隔のパターンダイヤと新幹線を除く京阪間の鉄道では最速の29分運転で攻勢に転じ、本系列による京都線特急は次第に劣勢に追いやられるようになった。そこで阪急電鉄はまず1975年に、接客設備のさらなるグレードアップを図った6300系第1編成を特急の予備編成充足を名目として新製投入、これが好評を博したことを確認の上で本系列の一般車格下げと6300系第2編成以降の新製投入による特急車の置き換えを決断した。このため、本系列の京都線特急車としての運用は長いものでも15年、短いものだと5年に満たない短期間で終了することとなった。後継となる6300系第2編成以降が竣工しはじめた1976年より、第6編成(2816F)を筆頭に格下げ・3扉ロングシート車化が始まり、1979年の第4編成(2814F)の工事完了をもって全て3扉化された。この3扉化に際しては扉間に5組あった連窓の扱いが問題となり、先行して3扉化された近畿日本鉄道6431系の調査を行うなどさまざまな検討が重ねられた末、中央に当たる連窓1組を扉の開口部に充て、隣接する左右の窓各1枚を戸袋窓とすることによって、扉間に連窓が各2組並ぶ状態として外観の美しさを保ったままでの3扉化を実現している。また、この3扉化によって冷房能力の不足が確定的となった2800形については、当時阪急で標準採用されていた冷凍能力10,500kcal/hの東芝RPU-3003へ冷房装置への換装工事が同時に実施されている。ただし屋根スペースの問題で、3台の冷房装置のうち中央の1台のみ、外装カバーの寸法がやや小さくなっている。なおこの時、パンタグラフ下に残っていた非冷房時のモニター屋根が撤去されている(最初に改造され2816Fのみ存置)。また、同時に先頭に立っている車両の標識板掛けが神宝線同様のものに取り換えられた。特急運用からの撤退後も、しばらく8両編成のままで急行を中心に運用された他、時折クロスシート時代と同様に特急標識を2枚掲げて特急の代走に入る事もあった。また2817Fのみ、1981年頃の一時期、4両または6両編成で普通を中心に使用されていたこともあったが、のち8両編成に復帰している。その後7300系の登場により2880形2880番台車を抜いて7両編成化され、1985年の2816Fを最後に8両編成での運用は消滅し、その後は京都本線の普通・準急、梅田‐北千里間の普通が中心となった。なお、この時脱車された2880形は神戸線5000・5200系や2300系の増結に活用されている。このとき、5000系・5200系に組み込まれた車両については、搭載されていたコンプレッサー、バッテリー等および屋根上の高圧母線が撤去され、さらに2両単位で5200系編成に組み込まれた車両については、一方の車両に組み込み先の編成と同一の60KvAのCLG326M形MGが新たに設置された。後に5000系に編入されていた2880形は、5000系表示幕化改造の際、5200系、2000系の2071形との交換が実施された。また唯一の空気バネ台車装備の2814Fより脱車された2884は、同じく空気バネ台車装備の2300系2311F編成に組み込まれて使用がなされたが、のちに同編成における台車の振り替え工事がなされたおりに、諸事情によりエコノミカルトラックを存置せざるを得なかった2311以外の車両と同じく、T車用のFS45コイルバネミンデン台車へと換装された。さらに後には編成に揃えられる形で、客用ドアの張り出しステップを取り付ける改造も実施された。本系列はトランジスタ増幅器によってサーボモーターで界磁抵抗器を超多段制御する、2300系「オートカー」と共通の制御器を更新せずそのまま使用し続けていたことや、冷房化の関係で冷房装置駆動用電動発電機を通常のものとは独立した形で搭載していたこと、また標準から外れた試作要素の強い複雑な構造の冷房風洞を持っていたことなどから、機器仕様の標準化を重視する阪急では保守上不利な状況にあった。しかも、本系列はその新造以来特急・急行運用中心に充当され続けていたため、各車の累積走行キロが各停中心の姉妹車である2300系などと比較して格段に大きく、加えて格下げ時の3扉化改造によって車体全体の強度が低下していたことなどから、車齢の割に車体・足回りの老朽化が著しいという問題を抱えていた。このため、2300系のように種別・行先表示幕の取り付け工事などの延命更新工事が実施されることはなく、3扉化改造以降は車体更新工事は実施されないままに推移し、老朽化が特に深刻であった制御装置の更新計画も一度は立てられたが、最終的には中止されている。このため、同時期以降新造の他系列に先んじて1988年に、最終増備編成である2817Fと2883より廃車が開始され、1989年に2816F、1993年にエアサス台車を履く2814Fと8300系に代替(同時に3300系の7両編成化)される形で順次淘汰が進められ、1995年には冷房化第1号であった2813F、そして2812Fの廃車で7両編成グループの淘汰が完了し、嵐山線用として最後まで残されていた4両編成2本についても同年中に廃車となって編成としての本系列は消滅となった。なお、嵐山線用4両編成の廃車に当たっては、残存全車に当たる2811Fと2815Fを連ねた運転台付き車両ばかりによる8両編成でさよなら運転が実施された。これは全部で3回行われるほどの人気ぶりで、最後のさよなら運転では3線共通車体寸法を生かして現役時代には運用実績がなかった神戸本線、宝塚本線、今津線にも入線を果たし、これをもって本系列は編成としての営業運転を終了した。また、これとは別に編成短縮時に余剰となって神戸線に転用され、5000系などに編入された2880形も、当初より暫定的な転用の意味合いが強く、方向幕取り付け対象外であることや、車体の状態が悪かったことなどから、8000系の新製開始で余剰となった2000系のT車に順次置き換えられ、淘汰されていった。なお、1995年の阪神・淡路大震災で被災した3109の代替として3022が3072Fから離脱した際、その補充用として廃車解体寸前の2842が起用され、主電動機や電動発電機を3000系用のものに交換の上で3072Fに組み込まれ、2代目3022の竣工によって置き換えられるまで約半年間使用された。同車は同年11月に廃車となっている。本系列の廃車に際しては、程度の良い中古車を探していた富山地方鉄道から車体の譲渡が打診されていたが、これは同社が計画していた2扉クロスシート車への復元に必要な転換クロスシートの調達がネックとなった。丁度同時期に廃車が始まった京阪3000系(初代)の座席を流用するという案も出されたが、それならば現役の2扉クロスシート車であるそちらの車体の方が改造に要する手間が少なく低コストで済み、またその状態も良好である、という理由で同系列の車体が座席ごと譲渡されたため、本系列の譲渡計画は中止となった。1995年以降も、2300系2305Fに組み込まれた中間車3両(2831・2841・2885)が京都線に残存し、2831・2841は制御器を撤去のうえM'車として運用が続けられた。2001年(平成13年)、2305Fそのものが阪急最後のエコノミカル台車装着車を含み、老朽化による淘汰対象とされたため、同編成に組み込まれていたこれらの残存車も同時に廃車となり、ここに本系列は完全消滅となっている。2861が民間に売り出され、京都府福知山市雲原の国道176号沿いにある飲食店でFS-45台車を履いたままの状態で使われていたが、現在はただの民家となっているようである。関連記事参考ページまた、2802-2862の2両のみ、2862の前面を6300系風の新塗装に塗られた状態で正雀車庫内にしばらく残存していた。

出典:wikipedia

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