ノエル・トマス・デヴィッド・ギャラガー(Noel Thomas David Gallagher、1967年5月29日 - )は、イギリスのミュージシャンである。身長173cm。ロックバンド、オアシスの元ギタリスト兼ボーカリスト。同バンドのリード・ボーカリストであったリアム・ギャラガーは実弟である。オアシスのメイン・ソングライターを務め、「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」や「ワンダーウォール」、「シャンペン・スーパーノヴァ」に象徴されるような卓越したメロディ・センス・高いソングライティング能力で、一躍世界的ロックバンドに成長させた。いくつかの楽曲では、リアムに代わってボーカルも担当している。2009年8月、オアシスを脱退。2011年10月よりノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ名義で本格的なソロ活動をスタートした。ノエル・ギャラガーは、マンチェスターのロングサイトで、アイルランド人の両親、母ペギーと父トミー・ギャラガーとの間に生まれた。彼は、3兄弟の次男として生まれた(長男ポール、三男リアム)。三男のリアムが1972年に生まれた直後に、ギャラガー兄弟はマンチェスターのバーネイジに移り住んだ。彼は不幸な子供時代を送った。ギャラガー兄弟はしばしばアルコール依存症であった父親から暴力を受けた。長男ポールと次男ノエルの2人は、暴力的な父親に関係する心理的な不安により、吃音を発達させた。長男ポールは自分専用の部屋を与えられたが、ノエルとリアムは同じ部屋を共有させられた。ペギー・ギャラガーは1976年に、夫との法的な離別権を獲得した。その6年後、彼女は3人の子供たちをつれて夫のもとから離れた。ティーンエイジャーの頃のギャラガー兄弟(特にノエル)は学校への無断欠席の常習者であり、しばしば警察の世話になっていたという。ノエルはペギーが学校の食堂で働いていた時、学校の昼食の時間に母のもとに立ち寄っていたという。13歳の時、万引きをはたらいたことにより半年間の保護観察処分を受ける。この時期に、初めて独学でギターを練習し始め、ラジオから聴こえてくるお気に入りの音楽を模倣した。特に彼は、1983年にザ・スミスがトップ・オブ・ザ・ポップスでパフォーマンスした「This Charming Man」から強くインスパイアされた。後に彼は、「その日から、ジョニー・マー(ザ・スミスのギタリスト)になってやろう、そう思うようになったんだ」と語っている。15歳の時、小麦粉の袋を教師に向けて投げた事が原因で、学校を退学処分となった。彼はティーンエイジャーの頃から父親の働いている建築会社で働き始める。そのため彼は当時父とのコンタクトを断続的にだが継続させた。が、後にそれを辞めブリティッシュ・ガス(英国のガス会社)に下請けされた別の工務店に配管工として就職した。そこで彼は鋼鉄製のガスパイプのキャップを右足に落とし負傷するが、その怪我が回復する間、会社は肉体的にそれほど負担にならない倉庫での仕事をノエルに任せるようになる。その期間、彼はギター練習やソングライティングに時間を割く余裕が持てるようになったという。彼はこの倉庫で働いていた時期に、後にオアシスのファースト・アルバムに収録される楽曲を作曲した。ノエルは1980年代後期の多くの期間を失業しており、この時期は気晴らしにドラッグをやったり、ソングライティング、ギターの練習などをして過ごした。1988年5月、ストーン・ローゼズのギグを見に行った時、ノエルはインスパイラル・カーペッツのギタリストであるグラハム・ランバートと会い、知り合いとなる。後にインスパイラルのボーカルであったスティーブ・ホルトがバンドを抜けた時、ノエルはインスパイラルの新しいボーカリストのオーディションを受ける。オーディションには落選してしまうものの、代わりに、彼らのローディーとしての職を得ることになる。ノエルはインスパイラル・カーペッツのローディーを約2年間務め、日本やアメリカのツアーなども経験する。オアシス加入以降の歴史は、オアシスの歴史の項を参照のこと。1991年、ノエル24歳の時にオアシスに加入。1992年1月15日、オアシスがノエル加入後初のライブを行う。1996年のMTVアンプラグドにオアシスとして出演予定だったが、リアムが喉の不調を理由に出演を拒否したため、全曲でボーカルを務めた。このため、リアム以外のメンバーも参加したにも関わらず出演名義は"ノエル・ギャラガー"になっている。2008年9月7日、トロントでのギグの最中にステージに突如上がったファンが後ろからノエルを突き飛ばし、次にリアムに襲いかかろうとした直後、セキュリティーに取り押さえられる。これによってギグが一時中断するというアクシデントが起きるも、数分後に再開した。その後病院で検査を受けたところ、モニタースピーカーに体を強打した影響で肋骨を損傷していることが判明。残りの北米ツアーが延期される事態になった。2009年8月28日、オアシス公式ウェブサイト上で脱退を表明。2010年3月25/26日、ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホールにてTeenage Cancer Trustが主催するチャリティーコンサートにて、オアシス脱退後初となるソロ公演を行なう。オアシスのメンバーであったゲム・アーチャーや、オアシスのツアーにも参加していたジェイ・ダーリントンなどと共演する。2011年7月7日に記者会見を開き、初のソロ・オリジナルアルバム『ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ』のリリース及びアモルファス・アンドロジーナスとのアルバム制作を発表。2011年10月17日に『ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ』が発売され、翌週よりツアーを開始する。2015年3月2日2ndソロアルバム『チェイシング・イエスタデイ』発売。幼い頃は社交的な性格であったが、父親の絶えまない暴力により、非社交的で他人を信用しない暗い性格へ変わっていった。ノエル自身は労働者階級出身であり、しばしばインタビューにおいて英国の中産階級の人々を嫌う発言をしている。スキャンダルが多いオアシスだが、ノエルが起こすトラブルの大半は舌禍事件のみでプロ意識は非常に高い。トラブルメーカーの弟リアムの不安定な喉の調子や、酩酊状態でステージに上がることに苦言を呈すことが多く、これが原因で兄弟喧嘩に発展することも多い。口こそ悪いものの比較的冷静で温厚、我慢強い性格であり、何度もリアムのトラブルを水に流している。他のバンドを名指しで酷評するなど、兄弟揃って口が悪いことは有名だが、ノエルは、「ドラッグなんて紅茶を飲むようなもの(ドラッグに関しては1998年で止めたと公言している)」、「スーパーのレジが混んでる時はムカつくから、仕返しに万引きしてる」といった問題発言をかつてしたことがある。ノエルの最も有名且つ悪名高いものとして1995年の、「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにでもかかって死ねばいい」という発言がある。プレスなどを通じて日常的に互いのバンドをけなし合っていたブラーとオアシスだが、シングル同時発売対決でオアシスの方が敗れた後、ノエルが発言したものである。当時のマスコミやエイズ関連団体はノエルを大バッシングし、社会問題にまで発展、ノエルは「デーモンとアレックスには長生きして欲しい」と謝罪した。ちなみに、2012年現在はブラーとの確執はすっかりなくなった模様(詳しくは後述)。2002年のニュースステーションにおけるインタビューで「ビートルズは大好きだし、彼らと比べられるのは光栄だけど、オアシスとビートルズが音楽的に似ていると感じたことはない。彼らのファッションとか物の見方には影響を受けているけど、音楽的にはローリング・ストーンズやセックス・ピストルズの方がより近いんじゃないかな」と発言をしている。初めて買ったアルバムは、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!!』。主に、1960年代のロックから音楽的影響を受けている。1980年代のマンチェスターサウンド(ハシエンダ)も好んで聴いている。大のサッカーファンであり、イギリスでは有名なサッカー番組であるSoccer AMにも何度か出演している。マンチェスター・シティFCのサポーターであり、マンチェスター・ユナイテッドFCが大嫌いであると度々発言している。ナショナルチームではアルゼンチン代表がお気に入りで、同国代表のリオネル・メッシもオアシスのファンを公言している。一方、母国であるイングランド代表には、シティのライバルチームの所属選手が多いためか、皮肉や苦言を呈すことが多い。2007年10月、ウェイン・ルーニーの婚約者であるコリーン嬢は、ギブソン社のレス・ポールをルーニーの22歳の誕生日にプレゼントする際、ノエルにサインを入れてくれるよう申し出た。ルーニーはマンチェスター・ユナイテッドに所属しており、前述の通りノエルはユナイテッドが大嫌いであるが、これを絶好の機会と考えて快諾。バンドのギター・テクニシャンに命じてギターをマンチェスター・シティのイメージカラーである空色に塗り直させ、マンチェスター・シティのクラブ・アンセムである「ブルー・ムーン」の歌詞をボディ・トップに書き込んで「ハッピーバースデー、スポンジ・ボブ」というメッセージカードを添えてルーニーに届けさせた。ルーニーはこれを見て大笑いしたが、さすがに自宅にこれを置いておくわけにもいかず、チャリティ・オークションに出品した。後日、お返しとしてルーニーはノエルに自身がマンチェスター・シティ戦でゴールを決めた時の写真に「スポンジ・ボブは最高さ」というメッセージカードを添えて送った。近年のマンチェスター・シティがオイルマネーによって急成長を遂げていることを非常に肯定的に受け止めている。それを快く思わない他クラブのファンや関係者からの批判については「ヴェンゲルと奴の社会主義サッカーなんてクソ食らえだ。クラブのアイデンティティが失われるって、俺達が30年底辺だったことがアイデンティティか?」「オイルマネー? ユナイテッドの選手やファンがガソリン入れるたびにシティに金が入るなんて最高じゃねえか!」と反論している。ただしユナイテッドを全否定しているわけではなく、アメリカのテレビ番組において「マンチェスターには二つの偉大なクラブ(シティとユナイテッドを指す)があって、最初に選んだ方をずっと応援するのさ。変えることはありえない」と発言しており一定の敬意も見せている。2012年にはマンチェスター・シティの2012/2013シーズン用のユニフォームのモデルを務めた。ノエルは1997年にメグ・マシューズと結婚し、2000年1月に娘・アナイスを授かるものの同年9月に離婚した。その後、サラ・マクドナルドと交際を始め、2007年9月22日にドノヴァン、2010年10月1日にサニーを出産しているがマクドナルドとは2011年6月18日に結婚した。2015年、自身のインスタグラムでTommyと名付けた犬を飼い始めたことを投稿した。しかし、ノエルはTommyのことを気に入ってはいないようである。2008年8月より、バンドの公式サイトで"TALES FROM THE MIDDLE OF NOWHERE"というタイトルのブログを更新していた。数日間隔で更新され文章はすべて携帯電話のメールで送っていた。内容はその日の出来事やツアーの感想が中心。好評を博し、2009年2月のNME Awardに於いてBest Band Blog賞を受賞している。ノエルがオアシス脱退に関する声明を発表した2009年8月28日の更新をもって停止したが、2011年のソロ活動開始後から再び"TALES FROM THE MIDDLE OF NOWHERE VOL.2 :RETURN OF THE DREAD"と題したツアー日記を更新している。2012年5月25日に日本の音楽番組「ミュージックステーション」(テレビ朝日)に出演。翌日に同番組出演の感想をブログに綴った(発言の内容は後述も参照)。その後誤訳が流布され日本のメディアに取り上げられた。特に記述のないものは全てオアシスの楽曲エレクトリック・ギターはBe Here Nowのツアー頃まで、ギブソン・レスポールやエピフォンのリヴィエラやシェラトンを使用していた。現在ではギブソン・ES-355をメインに、ギブソン・レスポールや「トリニ・ロペス」モデルなども使用している。特にエピフォンのギターはデビュー初期より愛用しており、自身のシグネチャーモデル、その名も"Supernova"というギターも発売されている。アコースティック・ギターは、キャリアの初期にはエピフォン・EJ-200やタカミネのエレアコを使用していたが、現在ではギブソン・J-200を使用している。かなりのギター・コレクターでもあり、休日には楽器店を訪れることが多い。50年代 - 60年代のギブソンのギターがお気に入りである。1995年のインタビューではギターは18本持っていると答えていたが、サマーソニックで来日した2005年では「93本所有している」と発言していた。また、ライヴで使用するアンプはマーシャルやオレンジをBe Here Nowのツアー頃までメインにしていたが、VOX・AC-50やフェンダー・Bassmanなどを経て、現在はフェンダー・Blues Juniorを、Line 6・PODと組み合わせて使用している。レコーディングでは、ベースやドラムス、キーボード、メロトロン、マンドリン、シタール、バンジョー、ピアノ、チェロなども担当するマルチプレイヤーである。本来は左利きであるが、ギターは右利きで演奏する。ギタリストとしては速弾きなどテクニカルなプレイは殆ど使用せず、「リヴ・フォーエバー」「ホワットエヴァー」「ワンダーウォール」など、1、2弦固定を基調としたコード進行を好んで使用する。仲の良い他のバンドメンバーも多いが、弟同様気に入らないバンドを名指しで批判するため、諍いに発展することもしばしばである。
出典:wikipedia
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