加藤 武治(かとう たけはる、1978年3月24日 - )は、元プロ野球選手(投手)、野球指導者。山形県立山形南高等学校から東京学芸大学、社会人の三菱ふそう川崎を経て、2002年のプロ野球ドラフト会議で横浜ベイスターズに4巡目で指名され入団。東京学芸大学在学中に保健体育科(中学・高校)の教員免許を取得しており、三菱ふそう川崎のスカウトがなかった場合高校野球の指導者を目指していたという。に新人ながら主に中継ぎで44試合に登板し、防御率2.77の好投で、リリーフの頭数が足りないチームを救った。シーズン途中にエディ・ギャラードが移籍してくるまではデニー友利とともにクローザーも任され、5セーブを記録した。のアテネオリンピック期間中に先発投手に回り、6勝を挙げた。には開幕ローテーション入りしたが4度の先発で防御率7点台とあって二軍落ち。一軍に復帰した5月26日以降は中継ぎに再転向。6月18日対楽天戦で1回2アウト4点ビハインドから急遽リリーフに立ち8回2アウトまでを無失点に抑え、自分がリリーフ向きだと認識した。特に先発が序盤で崩れた際のロングリリーフで安定感を見せた。シーズンは開幕から中継ぎで起用され、序盤に11試合連続無失点を記録した。当初は木塚敦志や川村丈夫の前を担うロングリリーフが予定されていたが、両者の不調により、クローザーのマーク・クルーンにつなぐセットアッパーを任されるようになった。僅差の試合でも先発が早い回で崩れた試合でも登板した結果、登板試合数はリーグトップの65となり、ホールドポイント35(勝利8、ホールド27)で藤川球児と並んで最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。この年の加藤は木塚、川村、クルーンと共に4人揃ってリリーフとして好成績を残し、『クアトロK』という総称が与えられた。なお翌に川村と加藤が先発に転向したためクアトロKはこの年限りで解散になった。その2007年には開幕から9試合に先発したが1勝しか挙げられず(3敗)、防御率は6点台、4回以前に降板した試合が6と散々な成績で6月9日に二軍落ちとなった。結局、6月中に川村とともに中継ぎに戻され、クアトロKが再結成されることとなった。中継ぎでは2点台の防御率に抑えて7勝をマークした。は中継ぎに専念することになり、退団したクルーンの後釜のクローザー候補としても名前を挙げられていた。開幕一軍は果たすが直後に太腿の肉離れで離脱。5月下旬に復帰したが、怪我をかばいながら投球していたため間も無く腰を痛めてしまい、7月1日の登板を最後に二軍落ち。その後二軍でも登板できないままシーズンを迎えた。2009年も二軍調整が続き、腰を痛めた影響でダイナミックなフォームは影を潜めてしまい、球威も落ちてしまった。結果、一軍登板は自己ワーストの9試合に留まった。11月26日に、稲田直人、坂元弥太郎、松山傑との交換トレードで、松家卓弘、関口雄大と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍した。背番号は49に決まった。移籍1年目のは中継ぎとして21試合に登板した。は一軍登板がなく、10月19日付でウィルフィン・オビスポとともに戦力外通告を受けた。12球団合同トライアウトを受験するも獲得に名乗りを挙げる球団はなく現役引退を決断した。シーズンからは日本ハムの二軍投手コーチとして指導者へ転身した。2014年10月22日に来季のコーチ契約を結ばないことを通達された。2015年から国士舘大学硬式野球部コーチ。右のサイドスローからキレのある球を投げ、主に中継ぎとして活躍した。膝を折り曲げて構える独特のセットポジションから、体を大きく沈ませながら腕を大きく振り上げて投球する。かつてはストレートが最速152km/hを記録したことがあり、ストレートで押していく投球が特徴であった。しかし晩年は140km/h前半に落ち着き、ボールのキレで勝負をするようになった。本人は、力強いピッチングの幻想に囚われたまま、スタイルを変える方法を模索しなかった事が引退を早めたと自己分析している。
出典:wikipedia
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