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シルム

シルムは朝鮮半島の格闘技。二人の壮士(チャンサ:シルムにおける競技者の呼び名)が、土俵がなく、組合った状態から投げを打ち合って勝敗を競う。日本では大相撲にたとえられ朝鮮相撲、韓国相撲とも呼ばれることがあるが、韓国におけるシルム人気は日本における大相撲のそれに遠く及ばない。プロリーグも存在するものの、実態は企業チームであり、2004年にはそのうちの1チームが撤退し、リーグの存続が危ぶまれている。なお、「シルム」は韓国においても日本の「相撲」同様一般名詞としても使われ、相撲は「日本シルム」、摔角は「中国シルム」、ブフは「蒙古シルム」、沖縄角力(シマ)は「琉球シルム」のように呼ばれる。シルムは朝鮮固有語で歴史書に登場する漢字語は「角力」であり、長い間にいろんな名称で呼ばれた。中国では「高麗技」「争交」と、その以外は主に「角力」「角抵」「角戯」「相撲」と呼ばれたが15世紀以後には「シルフム」から「シルホム」へ、最後には「シルム」となった。朝鮮語の「お互いに頑張りながら競う」という意味の動詞「シルダ」から語源を探る見解もある。4世紀に築造された高句麗の古墳の角抵塚と5世紀の長川1号墳にはシルムを描いた壁画が残っている。また『高麗史』によると、忠肅王は国政に参与せず、毎日付き添い人や宦官・下男とシルムをしていた。また忠恵王の時、王女が延慶宮へ居場所を引っ越ししたことを祝いしながら宦官たちとシルムをしたり観覧したという。また『朝鮮王朝実録』には1419年に太宗・世宗 父子が楮子島でシルムを観覧した。。1430年にはシルム競技で相手を殺した人の罪を許るしたこと、1436年には世宗が鷹狩りを観覧して、兵士のシルム競技を観覧し、優勝者は王から賞を貰ったという記録も見える。世宗はシルムを奨励し、武芸の種目に含めた。明宗の時にもシルム競技で相手を刺し殺した事件が発生、法で禁止された事件もある。李朝後期の風俗画にもシルムをする人たちや見物人に取り巻かれる姿を描いた絵も残っている。柳得恭の『京都雜志』や洪錫謨の『東国歳時記』と『松京誌』、そして金弘道の『シルム』と劉淑の『大快図』(ソウル大学校博物館所蔵)金俊根の『シルム』が残っている。作品からシルムが当時の民衆に愛されたということがわかる。現代のような形でシルム競技が行われたのは日本統治時期の1912年である。以後1990年代までもシルムはテレビで放映されるなど、よく流行った。しかし現在は日本の大相撲のように国民的な関心事ではない。服装は普段着で行われ、競技場は無く、平らな広場(日韓併合時代には、安全のためにゴザを引いていた)で行われていた。審判もいなかった。(これらは日本江戸時代以前の遊戯としての相撲と同様である。)韓国では上半身裸に半ズボン及び専用パンツ、北朝鮮では上半身Tシャツに半ズボンを着用し、腰と右大腿部に「サッパ」(李氏朝鮮及び日韓併合時代は無く、新規に設けられた)と呼ばれる紐を腰に巻きつける。試合は等級(重量別)に別けられ、それぞれ優勝者が決められる。競技場は、円形の砂場(25~30cm深さの砂で、李氏朝鮮及び日韓併合時代には無かった)であり、その中で試合を行う。競技時間は5分間、3本勝負。お互いに相手のサッパを持ち、肩と背が真っ直ぐな状態で組み合い、双方に不利が無いとされる状況から始まる。競技場の外へ出しても勝ちにはならないので、押し出しや寄り切り、突っ張り等は無い。相手の膝から上を地につけることで勝利とし、審判は、判定にホイッスルを使用する。予選を通過し、その中を勝ち残った選手によって行われる決勝戦は5本勝負で行われる。優勝者は金の雄牛を授与され、担ぎ手に支えられた台座に乗った状態で競技場を一周する。試合終了後はチームの選手達がそれぞれ土俵外縁に並び、観客に向かって礼をする。韓国プロリーグでは3つの等級があった。投げ技の例

出典:wikipedia

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