椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本の官僚、政治家。戦前の官僚時代は岸信介の腹心として活躍し、商工次官、軍需次官などを務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(21代・30代)外務大臣(94-95代)、自由民主党・総務会長、政調会長、副総裁を歴任した。田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した、いわゆる「椎名裁定」で知られる。岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。父の後藤広は小学校の教師から水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。悦三郎は高等小学校4年次に一人上京。実業家の原邦造家などの学僕をしていたが、夜学にも通わせてくれなかったことに憤り主宅を転転、父のとりなしもあって三件目で通学が許され、夜学の研数学館で数学などの受験準備をし、錦城中学入学を果たした。旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。1923年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、農商務省に入省。農商務省が農林省と商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満州国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。また叔父の後藤新平と繋がりのあった正力松太郎の協力を得て、地元水沢町に日本初の公民館を建設した。1945年、終戦と共に退官。岸信介の誘いで1955年の第27回衆議院議員総選挙に日本民主党公認で立候補し当選する(当選同期に愛知揆一・田村元・唐沢俊樹・高村坂彦・渡海元三郎・丹羽兵助など)。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。当選2回で岸信介内閣で内閣官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では「細かいことは総理に聞いてくれ」とおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫と袂を分かち、川島正次郎の川島派として行動した。1970年の川島の死に伴い川島派は椎名派となる。池田勇人内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣、1964年には外務大臣に就任した。外相に就任した際はマスコミからは奇想天外人事と評され、本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と外相就任に難色を示していた。この人事は前尾繁三郎の強い推薦によるものであったとされる。佐藤栄作内閣でも外相に留任、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉。韓国の金浦国際空港に降り立った際に、日本の過去を「深く反省する」と声明を述べ、また当意即妙な応答でマスメディアを通じて韓国内の反日運動の沈静化に寄与し、条約締結にこぎつける。ただし条約本文に韓国側が主張していた"謝罪"の文言を盛り込む事は拒否し、また戦後賠償の請求権を打ち切った事を明文化した。条約の批准を巡る、いわゆる「日韓国会」では日本社会党などの左派政党が強硬に反対していたが、政府を代表して答弁に立ち「名外相」と謳われる。外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁したり、核抑止についての見解を問われ、アメリカの核兵器は「番犬のようなもの」「番犬様」と表現したことが知られている。こうしたおとぼけ・ユーモアは、本人の落語好きに由縁している。1972年7月に田中内閣が発足し、椎名は同年8月に自民党副総裁に就任した。しかし、経済政策に失敗したことと田中金脈問題により、田中は1974年11月に退陣を表明する。田中の後継をめぐり、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に選出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもって迎えられた。ただし三木や中曽根康弘はこの裁定を事前に知っていたという説も根強い。椎名は三木内閣でも副総裁に留任。更に「三賢人の会」の一人である灘尾弘吉を党総務会長に推挽し三木内閣を通じて党改革に取り組もうとするが、1975年4月には早くも三木との間に党改革・近代化をめぐり亀裂が生じる。ロッキード事件や独占禁止法改正、党内改革をめぐり、椎名の三木首相への不満は嵩じ、「三木おろし」へと繋がっていく。1976年椎名は田中、福田、大平と三木退陣で一致し、8月24日挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。椎名裁定で三木を推挙した椎名が三木おろしに回ったことについて、椎名は「産みの親だが、育てるとは言ったことはない」と答えた。三木は9月に内閣改造、党役員改選を経て12月5日の任期満了にともなう第34回衆議院議員総選挙で敗北し退陣を余儀なくされた。1979年の第35回衆議院議員総選挙には出馬せず、次男の素夫に地盤を譲り政界を引退。その選挙期間中の9月30日死去。享年81。椎名の人となりはものぐさとして知られる一方でカミソリともいわれるものであった。座右の銘は「菜根譚」の中から「不如省事(事を省くにしかず)」を見つけた「省事」。物事を処理する時は些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが大切である、枝葉末節にこだわり大切な根本をおろそかにしないということを人生訓とした。商工省時代は、大酒飲みの評判と、給仕にハンコ押しをさせるなど武勇伝を残している。温厚な性格として知られていた椎名だったが、1974年の文世光事件の際に、自民党副総裁の身分で謝罪特使として韓国に派遣され、青瓦台で朴正煕大統領を訪問した後には、「あのような屈辱的な使いをしたのは初めてだ」と愚痴をこぼしていたという。なお、やはり自民党副総裁であった1972年には中華人民共和国との国交樹立に伴い台湾(中華民国)への釈明と今後の民間交流維持のための特使として派遣され、日本の不義理に憤激するデモ隊から車に投石されたこともある。このことが後年、大平正芳との関係を悪化させたといわれる。1970年頃から、前尾繁三郎・灘尾弘吉と、いわゆる「三賢人の会」と称された集まりを料亭で持っていたが、自民党副総裁や衆議院議長を務めた三人の集まりにもかかわらず「政治の話はほとんど出なかった」といわれる。東京市長、内務大臣、帝都復興院総裁などを歴任した後藤新平は叔父に当たる。衆議院議員、参議院議員をつとめた椎名素夫は二男。妻は、山口銀行の重役、森信敬二の長女。
出典:wikipedia
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