CAROL(キャロル)は、日本のロックバンド。1972年デビュー、1975年解散。約2年半という短期間の活動ながらも強いインパクトを残し、以降の日本のロックシーンに大きな影響を与えた伝説のバンドと称される。1972年4月、矢沢永吉が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ、同年6月結成される。貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」であった。当時はフォークがメジャーシーンに浮上しはじめディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏させてくれる場所がなくなっていった時期であった。ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという。近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという。もともと、ビートルズのコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)した。当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉。クリスマス・キャロルからのインスピレーションという「キャロル」というバンド名に始まり革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの。当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという。ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという。矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている。ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態でデビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく。矢沢はキャロル結成時には100曲以上のオリジナル曲を持っており矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった。ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半矢沢に代表されていた。キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる"ハコバン"として採用された。もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライブ活動を行う。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う。深夜から明け方まで、"荒くれの兵隊"や、"夜の商売の女"、"酔っ払い相手"に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる。東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった。フジテレビの番組『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」という企画(「ロキシー・ミュージック#エピソード」参照)に、ジョニーがハガキを送ったが断られた。これに頭にきた矢沢が『リブ・ヤング!』の担当者に電話を掛け、ハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続け番組出演が決まった。1972年10月8日、『リブ・ヤング!』に出演したところ内田裕也から先に直接オファーを受けたがたまたま家で番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり番組プロデューサーの石田弘にミッキーから電話があり「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と伝えられ、リーダーの矢沢がミッキーと電話で話し、内田のレーベルか、ミッキーのレーベルかでメンバーは迷ったが結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ。『リブ・ヤング!』出演3日後の10月11日、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ。しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ。デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーデイング直前、ドラムスを担当していた今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退し、ミッキーの紹介でユウ岡崎が正式メンバーとなった。1972年12月25日、「ルイジアンナ」でデビュー。結成から3、4ヶ月でのプロデビューであった。同曲のドーナツ盤レコードには、東京・文京公会堂の無料コンサートチケットが同梱されていた。同コンサートには和田アキ子が友情出演している。ミッキーのアイデアで「ルイジアンナ」でデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリース。1972年12月から1973年6月までの7枚のシングルが毎月売り出された。「ルイジアンナ」が20万枚、「ヘイ・タクシー」が10万枚、「ファンキー・モンキー・ベイビー」は30万枚を売り上げた。その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった。2枚目のシングル「ヘイ・タクシー / 恋の救急車」のレコーディング終了直後、ドラムのユウ岡崎がトラブルを起こして逮捕され、またミッキーの紹介で相原誠(後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加)がドラマーとして加入。3枚目のシングル「やりきれない気持ち / ホープ」のレコーディング終了後、ユウ岡崎が仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにしてユウ岡崎をメンバーに戻した。1973年2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演。『リブ・ヤング!』の熱演で、週刊誌も大きく取り上げ、篠山紀信、山本寛斎、龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンターたちも会場に集まった。彼らはキャロルのロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感にいち早く着目、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマークし、キャロルを被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はディスクジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載。キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った。当時キャロルのメンバーはライブの前に大量に酒を飲みステージに上がった。「第1回ロックンロール・カーニバル」では、初の大舞台ということもあって極度のトランス状態に陥り、ジョニーが失神した。これによってキャロルは失神するほどの強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた。マスメディアのインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった。1973年、NHKのディレクターだった龍村仁がドキュメンタリー『キャロル』を制作したが、放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった。この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超えて、社会現象として1つの色に塗り替えた。この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる。ジョニーは著書で「ドラッグを始めたのは、キャロルがデビューしてすぐのころ」と書いており、当時ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に失踪、1973年11月23日~1974年2月中旬まで行方不明となった。発見されたのは川崎の精神病院だった。そのこともあり、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新メンバー・サミーを加えて活動した(その後ジョニーが復帰)。1974年3月21~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う。1974年8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた。メンバー間で軋轢が生じ1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で解散。3千人収容の会場に7千人がつめかけた。解散ライブでは、特殊効果用の火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングがあった。それを演出と思った観客も多かった。このあまりにも象徴的なハプニングが伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった。この解散ライブは「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった。解散ライブのテレビ放映は、同年7月12日にTBSテレビ『特番ぎんざNOW!』という番組で1時間枠が組まれ「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された。日本のロックバンドのライブ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる。解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長。ジョニー大倉はソロ活動の傍ら、俳優としても活躍。内海利勝はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションで作品を発表した。ユウ岡崎も現在『C's Graffiti Japanese Rock'n Roll Band』で活躍中である。1970年代前半、吉田拓郎、かぐや姫などの活躍で興隆するフォーク勢とは対照的に、マイナーな存在に甘んじていた日本のロックシーンにとって一筋の光明となったのがキャロルだった。単なるサブカルチャーでしかなかった日本の於けるロックという分野も、キャロルの成功によって一気にその道が開かれた。それまでのロック・リスナーのメイン層はハイティーンで、長髪にジーパン姿がロック・ファッションの定番であったが、リーゼントに革ジャン姿のキャロルの登場は、コンサート会場にリーゼント族や女の子たちを動員させ、ロック・リスナー層を一気に"女・子供"までに広げることに成功した。GSブーム以来、久々に女性ファンの凄まじい矯声と失神騒ぎも復活させた。音楽性やファッションは、デビューから解散までの2年半の間、変わらなかった。この時代、他のロックバンドの多くが、同時代の英米のロックバンドを模して、技巧重視の音楽を展開したことに対して、キャロルは初期ビートルズを模範としてシンプルなロックンロールを志向したことが大きな特徴といえる。当時の日本のロックは英米の新しい動向を意識した流れであったためそれらとはまったく関係のないところから飛び出したキャロルの登場は大きな衝撃があった。キャロルのようなロックンロールはそれまで日本には存在しなかった。キャロル以前は、まだ"ロックンロール"という音楽が世間で認知されていなかった。当時日本でロックバンドをやろうという人なら、誰もがビートルズは聴いてはいたが、1970年に解散したビートルズの音楽をもはや最先端の音楽とは思ってはなく、さらに1960年初頭のハンブルク時代のアメリカのロックン・ロールなどのカヴァーをやっていた頃のビートルズに着目する人がいるなんて誰も考えもしなかった。またキャロルが拠点にした川崎や横浜は、ザ・ゴールデン・カップスやパワー・ハウスなどを生んでいるが、キャロルはその後継バンドでもなく、まったく音楽関係者も予想しないところから出てきた印象があった。キャロルは大衆性を強く打ち出しオールディーズの要素をノリのいい8ビートで、日本的に分かりやすく解釈して見せた。センセーショナルなキャロル登場ぶりは、頭デッカチになっていた日本のロックシーンを強烈に揺さぶった。いきのいいロックンロールとキャッチーなメロディで時代をロックンロールに向けさせた。また非常に不良のイメージを売りにしていたことも特徴で、当時の風潮であるヒッピー的なドロップアウト(エリートの反抗)の文脈ではなく、"はぐれもの"というブルーカラー的な意匠を強調していた。"はぐれもの"に正しさを求める存在である暴走族の取り巻きが出現したのも必然といえる。南田勝也は「1960年代中後期のロック生成期において、ロックンロールとロックを隔てる最大の要因はアート指標の有無にあったが、キャロルはその時期を参照体系にしないで済ませた。1950年代から1960年代前期にかけてのロックンロールの価値観ーすなわち肉体、タフネス、成功への欲望などーに基づいたアメリカン・ドリームの幻想をダイレクトかつ戯画的に日本の1970年代に現出させたのがキャロルという存在だった。この方法論は何度でも通用するわけではなく、その戯画的なイメージには一定の真実味がもたされなければならない。その点で矢沢永吉は、著書『成り上がり』というタイトルが示すように、過酷な生い立ちに対する反骨の意志を動力にするという物語―極端なまでのすさんだ境遇の描写が逆に真実味を帯びるようなリアリティ感覚―を可能にするキャラクターだった。だからこそ、矢沢及びキャロルは、1970年代という時期にメジャー化したうえで、『ロックである』との認証を得たほとんど唯一の存在になり得たのである」などと論じている。ロックンロールのオールディーズ風サウンド、テンションの高いライブ演奏、クールスなどの親衛隊を含めたファッション性などから、矢沢永吉を筆頭にバンド全体がカリスマ性を持っていた。高護は「キャロル最大の功績は思想を持たなくても日本語のロックンロールが充分にかっこいいことを提示したこと」と述べている。ジョニーと矢沢の作詞・作曲コンビは、ビートルズのレノン=マッカートニーに例えられた。矢沢の作り出す比類なきメロディラインとジョニーの神経の細かいところから醸し出す知性、矢沢の"動"とジョニーの"静"がぶつかりあい火花を散らすところからキャロルの爆発的エネルギーは生み出された。矢沢のメロディは、その後数多く誕生してくるキャロル・フォロワーたちの、初期ビートルズ作品の特徴を表面的に真似ただけの"マージーサウンド"とは一線を画しており、現在の"矢沢節"が伺える強烈なオリジナリティを発揮していた。当時はフォーク界ではシンガーソングライターが脚光を浴びつつあったが、ロック界では"日本語ロック論争"が収拾しておらず、まだ日本語オリジナルのロックは一般的でなかった。小学6年生の時に慶大の学祭で初めてキャロルを観たという横山剣は、ステージングの衝撃は勿論、外国の翻訳曲と思っていた曲がレコードを買って、キャロルのオリジナル曲と分かって驚いたと話している。日本語はロックのリズムにのりにくいといわれてきて、ワルツにならのりやすい言葉などといわれてきたが、ロックにものせられることをキャロルが示した。アメリカの軽快なロックンロールに日本のポップス・センスを加えたキャロルの日本語オリジナルは、それまでの"日本語ロック論争"を完全に無意味なものにした。意味よりも語感を重視した日本語と英語のチャンポン詞は、さらに日本語を英語風に発音する矢沢の唱法で一種独特な和製ロックソングへと昇華されているが、この手法の考案こそが後のJ-POP隆盛へと至る発火点であるとも論じられる。日本語によるロックの確立がキャロル最大の功績といえる。はっぴいえんどのギタリスト・鈴木茂は、「キャロルはいろんな意味で好対称だった。彼らが明るいサウンドで、僕達は暗い。彼らは解り易いものでアルバムを作り上げ、僕らは解りづらい。いろんな意味でちょっと違うなあってとこはあったけど、でも彼らには持ち得ない、何かインテリジェンスのあるっていうか、そういう面があった所が救いだったかな。それ以外は全て、わあ、いいなあって」などと述べている。キャロルは、はっぴいえんどとは異なる手法の日本語ロックで成功した。1975年の『ヤング・インパルス』(TVK)で放送された「ヒストリー・オブ・キャロル」という番組で「英語日本語の入り混じった、まさに無国籍のロックンロールは瞬く間に若者の心を捉えた」と紹介された。こうしたキャロルの日本語英語チャンポン歌詞の誕生については、デビュー曲「ルイジアンナ」は、最初は全編英語詞であったが、レコードが発売される直前になって、レコード会社から、英語詞では売れないから歌詞を日本語にしてほしい、との要請を受け日本語に変更したのが切っ掛け。ジョニーは矢沢に「オレの曲に英語で詞をつけてよ」と頼まれ、初めて作詞を手掛けた。この製作課程で最初のジョニーの100%英語歌詞を矢沢が「こんなのやりきれない」「ここ日本語に直してくれないか?」とジョニーに言うから、急遽直したが、また矢沢が「どうしてもこの部分は日本語が乗らないな。じゃあ、やさしい英語でもいいから残しておこう」とできたのが、あのチャンポン詞」「あの時代、作詞のできる俺を永ちゃんは離せなかったと思う」などとジョニーは話している。矢沢は「あれを日本で発明したのはジョニー大倉だから、勲一等出さなきゃいけないと思うよ」「そこからヒントを得た作詞家がボロ儲けしてるんだから」と話したという。 ジョニーが作った日本語英語チャンポン歌詞+矢沢の「巻き舌唱法」、英語なまりの日本語、日本語を英語っぽく発音してロックに乗せる「巻き舌唱法」によって"日本語ロック論争"は、何語で歌うかは問題外になり、論争は不毛なものとなる。「巻き舌唱法」は、日本ではキャロル時代の矢沢を始まりとして、吉川晃司で一応の完成形となる、桑田佳祐、氷室京介、福山雅治など、"かきくけこ"を"きゃきぃきゅきぃぇきょ"と発音する現在のJ-POPシンガーたちへと受け継がれたなどと論じられる。相倉久人は1977年の著書で「キャロルに代表される英語でも日本語でもないような、今の日本語的なロックの言葉」と解説し「キャロルの歌を聴いた時に、矢沢君の歌ってのは、日本語と英語がめちゃくちゃ入り混じっているわけでしょ。その中に出てくる英語ってのは絶対アメリカ人の英語とは違うわけですよ。それと、彼の歌っている日本語の歌い方というのが、又、非常におかしいんだ。あれは完全に日本語とも言い切れないところがあるでしょう。だからその辺の日本語と英語がチャンポンになっているっていうところでもって、伝統的な日本語のしゃべり方、あるいは日本語の歌の歌い方と違ってまったく新しいキャロル独特の音葉のリズムというものを獲得したんだという実感を初めて持ったんですよね」と述べている。この他、デビュー曲「ルイジアンナ」は、プロデューサーのミッキー・カーチスがヨーロッパで学んだ最新の録音技術を駆使して当時としては革新的なサウンドを実現している。キャロルは、それまで日本で認知されていなかったロックンロールを一般に広めると同時に、最新の録音技術を世に広めた。ポマードべったりのリーゼントに革ジャン、革パンツというファッションは社会現象になる。これらは1950年代から1960年代にかけてロカビリーの頃に全盛を迎えたが、みゆき族の時代に入るとアイビー的なファッションが主流となり、またビートルズの出現でヘアスタイルの革命が起こると、リーゼントは「終わった」といっていいところまで追いやられ、普通の若者のやることではなくなってしまった。当時日本のロックミュージシャンは、外国のロックミュージシャンの影響で、みな長髪だった。そうした背景のもとに突如としてその葬り去られたともいえる髪型で登場したのがキャロルだった。この先祖返りのようなコンセプトは画期的なアイデアで、それまでずーっと"ダサい"の極みだったリーゼントを、全く無名のアマチュアバンドが、数分のTV出演という、たったそれだけのパフォーマンスで、あっさりとトップモードに返り咲かせ、ロックといえば長髪という価値観を、みごと一瞬にしてひっくり返した。当時、ロックはビジュアルが表に出てくるものでなかったが、キャロルは不良に通じるビジュアルを持っていた。若者向けのテレビ番組『リブ・ヤング!』出演一発で人気が爆発した点も、ビジュアル面での高さを物語り、J-POPの未来を先取りしていたといえる。こうしたキャロルのファッションは、メンバーの行きつけだった新宿のライブハウス「怪人二十面相」を中心に話題となり、その後原宿を中心に一世を風靡したロックンロールファッションの先駆けとなった。「怪人二十面相」は、のち原宿にクリームソーダ王国を築く山崎眞行が最初に手掛けた店でキャロルが一度スペシャル・ライブ(1974年3月6日)を行ったことで当時最先端のライブハウスになった。当時、アメリカとか英国では、"ロックンロール・リバイバル"()が叫ばれていたが、日本で形として現したのはキャロルが最初。キャロルのファーストアルバム『ルイジアンナ』(1973年3月25日発売)に収録された「ジョニー・B.グッド」は、ロックンロールのスタンダード・ナンバーであるが、当時はまだ、日本で知られていなかった。キャロルがライブで当時この曲を演奏すると、キャロルのオリジナル曲と思った人が多かった。キャロルの演奏によって「ジョニー・B.グッド」は日本で最もメジャーなロックンロールとなった。この曲はタイトルにジョニーと付いているため、以前からジョニー大倉が歌っていたという。「ジョニー・B.グッド」だけでなく、キャロルのファーストアルバムに収録された英語曲の多くが、キャロルのオリジナルと勘違いされた。オールディーズの普及は、アメリカ映画『アメリカン・グラフィティ』の影響が大きいとされるが、同作が日本で公開されたのは、1974年12月21日である。その現場に居合わせた近田春夫は「あとになって考えてみればキャロルは図らずも『パンドラの箱を開けてしまった』ということなのであろう。つまり彼らの登場無かりせば、ヤンキー的体質というものが日本の音楽市場の中でここまで大きな意味をなさなかったろうと思うからである。キャロルは、不良の生きるひとつの道としての音楽の可能性をあの"格好"と"音"でもって示唆してしまった」「キャロル、そしてその後の矢沢永吉のスタイルは、のちにこの国のヤンキー文化に色濃く反映している。リーゼントに革ジャンというスタイルは、暴走族のファッションやツッパリファッションとしても定着した」などと近田は解説している。反逆児っぽいキャロルのクールかつ、ツッパリイメージは、暴走族などアウトローを気取る若者たちから絶大な支持を受けた。当時"暴走族"は"競走族"など称された。2008年頃から言われ始めた「ヤンキー力」「ヤンキーパワー」の解説に於いてキャロルはその歴史の始まりに持ってこられる場合が多い。『フライデーダイナマイト』のヤンキー特集「ヤンキー40年史年表」では、「1972年、ロックバンド・キャロルがデビュー。リーゼントの若者が急増」という記述からヤンキーの歴史が始まっている。それまで不良の形は様々なものだったが、キャロルの登場によってイメージは統一化された。リーゼントや革ジャン、バイク、サングラスは一つの基本形になり、全国的に定着した。キャロルはとりわけ暴走族から絶大な支持を集めた。暴走族のヒーローと言われたのは篠山紀信の撮った写真にメンバーがリーゼント、革ジャンでバイクに乗った物があり、それを真似る若者が増えたため。彼らが暴走行為を始めたため、「キャロルが"暴走族"という言葉を作った」「"暴走族"はキャロルが生み出したようなもの。ぼくたちがデビューした当時、バイクを乗りまわす連中は"カミナリ族"と呼ばれていて、彼らはみな、アロハシャツやスウィングトップを着てバイクに乗っていた。それがキャロルの登場によって、キャロルの演奏にシビれたバイク乗りたちが、アロハやスウィングトップを脱ぎ捨て、キャロルのスタイルを真似てバイクを乗りまわすようになった。このスタイルはたちまち全国に広がり、社会現象となって"暴走族"という言葉を生み出した」などとジョニーは話している。キャロルの人気が出ると暴走族が護衛やステージサイドのガードをした。但し、有名な日比谷野音でのキャロル解散ライブに於けるクールスの護衛は、ローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘ひろしに同じような演出をしたいと持ちかけたものである。キャロルの舞台にはいつも暴力的な雰囲気が付きまとい、群がってくるファンの中にも、どことなくそれを期待する雰囲気があった。実際にキャロルのコンサートでの血気盛んなファン同士のケンカ騒ぎが新聞に報じられ暴走族が集会するという理由で会場に公演を拒否される問題も起こったが、そうした話題性も評判を高めることに貢献した。1973年、1974年当時は、日本全国の学校で暴力事件が多発し、暴走族も600チーム以上あった。そんな時代の申し子のように、キャロルの音楽やファッションは若者の心を虜にした。彼らの存在自体に若者の一つの価値観が見い出せた。1974年3月、欧州での演奏旅行から帰国後に始まった全国コンサートツアーで、ファンがエキサイトして、会場内で乱闘事件が続出し、社会問題に発展した。コンサートに集まる若者の半分以上が若い男の子であったが、彼らの鬱積した肉体のエネルギーは、キャロルの演奏によって挑発された。興奮しきった歯止めが利かず、ステージに上がり、メンバーに飛びかかり、抱きつき機材を壊し、客席のお客同士でケンカを始めた、1974年7月17日、京都・円山公園でのコンサートでは4000人のキャパを遥かに超える7000人の聴衆が押し寄せ大混乱になる。リーゼント・スタイルのオートバイ族とロック・ファンの長髪族とがケンカして、重傷者3名、軽傷者8名を出した。このような暴力沙汰はマスコミにも取り上げられ社会問題となり、キャロルは段々会場となる公会堂を締め出されていった。京浜工業地帯で誕生したキャロルは、リバプールから生まれたビートルズとオーバーラップさせて、さらに下層階級的成り上がりの美学を構築した。勿論、これらの真実性に矢沢の生い立ちが不可欠であった。キャロルのビート感やリズムの力強さは、矢沢の生きざまそのものであったのである。1973年2月28日、「ロックンロール・カーニバル」に出演したキャロルを会場で観たNHKディレクター・龍村仁(当時)がキャロルに取り憑かれ、彼らに帯同してカメラを回しドキュメンタリー『キャロル』を制作した。しかし放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、最終的に龍村と実質の製作者といわれた小野耕世がNHKを解雇された。当時は『ヤング・ミュージック・ショー』など、外国のロックがようやく放送される時代になってはいたものの、NHKではロックに対してまだ保守的な姿勢を崩していなかった。この事件は、三大新聞をはじめ、多くのマスコミに取り上げられ社会問題に発展したがキャロルがNHKである種のボイコットを受けたことは、若者たちの間で異常なほどの人気で迎えられる結果となった。キャロルをスカウトしたミッキー・カーチスは「漠然とやりたいと思っていたものを目の前に見せつけられた感じだった」と述べている。キャロル登場のインパクトは大きく、ロカビリー以来の活動歴を持つ内田裕也は、イベンターとしてミッキーと共同で1973年2月「日本ロックンロール振興会」を旗揚げして、同月28日「ロックンロール・カーニバル」(渋谷公会堂)を仕掛け、自らもロックンロールに回帰して「1815ロックンロールバンド」の活動を活発化させた。キャロル以前はまだ"ロックンロール"という音楽が世間で認知されていなかった。内田は『ニューミュージック・マガジン』1973年5月号の五木寛之との対談で「ぼくはロックってのは基本的にはロックンロールだと思うンですけどね」と発言している。1973年夏には「1815ロックンロールバンド」やキャロルがパッケージとなった「ロックンロール・イン・サマー」というイベントが全国16ヶ所で開催されて、ロックンロールブームを決定づけた。キャロル売り出しの際にアートディレクター・奥村靫正が関わり、メディアミックスでやらないとと提案し、矢沢から「日本一のカメラマンに撮って欲しい」と頼まれ、デビュー間もない篠山紀信を紹介して、キャロルは大々的に売り出された。ロックバンドが映像から入っていくといった手法で売り出されるというのも当時は珍しかった。 キャロルの影響で、1950年代のロックン・ロールを聴く暴走族のうち、原宿に集まった暴走族の中から生まれたのがクールスである。クールスはキャロルがコンサート会場へ行き来する時に、バイクにまたがり、キャロルの乗る車の前後を護衛するかのように付き従い、そのうちクールス自体もバンド活動を始めたもので、音楽的にはシャ・ナ・ナの影響を受けている。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、1973年12月1日のデビューで、キャロルとは約一年遅れのデビューだが、キャロルが篠山紀信に写真を撮られ、大々的に売り出されたため、キャロルの物真似と散々言われたと宇崎竜童は話している。宇崎はこの一年の差に悩まされ、宇崎らも最初は皮ジャンを着ていたが、やむなく皮ジャンでないものを探して、たまたま「つなぎ」にいったという。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975年3月25日発売)が出るときにキャロルは華々しく解散。宇崎は「矢沢永吉って人間には常に先に行かれたって気があった」と話している。『スモーキン・ブギ』(1974年12月5日発売)が2位になった時、楽屋で一緒になるとキャロルの方は、シングルヒットがなかったことで「おタク達は泥臭くやって成功したね。ウチらちょっとアカ抜けてたから」と矢沢に言われ「この野郎」と思った。ドラマーの相原誠が元キャロルということもあったこともあり、お互い敵対視していたという。矢沢のことを聞かれると「意識してないから」とツッパって来たが、実はズッと強く意識してきたとインタビューで述べている。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドも頭がリーゼントだったため、キャロルとダウン・タウンで、ロックンロール=リーゼントの図式が定着した。前述したように当時の日本のロック・ミュージシャンは、外国のロック・ミュージシャンの影響でみな長髪だった。当時全国の中学・高校ではキャロルのコピーバンドがたくさん出現した。キャロルは、ロック・リスナー層を拡大しただけでなく、プレイヤー人口の増加も促進した。クールス~ダウン・タウン・ブギウギ・バンド~横浜銀蝿~虎舞竜~氣志團らに至るツッパリ系ロックン・ロールバンドのルーツである。またシャネルズ、チェッカーズは、音楽的にはクールスの流れを汲むもの。金子マリは1972年に、たまたま買い物に行った東急本店の屋上であったキャロルのライブを観ていて、そこに居たCharに声をかけてプロになった。キャロルの影響を受けたミュージシャン、クリエーターは数多いが、ミュージシャンでは、大友康平、高橋ジョージ、氷室京介、藤井フミヤ、横山剣、THE COLTS、ギターウルフ、ダイアモンド☆ユカイらが有名である。藤井と横山は、少年期に初めてキャロルを観て、藤井「心をレイプされた」、横山「矢沢永吉が龍に見えた」などと大きな衝撃を受けたと話している。藤井は2003年に全曲キャロルの楽曲をカバーしたアルバム『MY CAROL』をリリースし、「自分のボーカルは、俺独自に作り出したニュアンスだと思っていたけど、矢沢さんとジョニーさんの合体だったんだとわかった」と話している。ダイアモンド☆ユカイは矢沢の自伝タイトルをパロった著書『成りさがり』に、埼玉出身なのに、キャロルをまねてわざわざ川崎まで行ってバンドメンバーを探したという件がある。
出典:wikipedia
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