鳥羽港 (とばこう) は三重県鳥羽市にある港湾。三重県が管理しており、地方港湾に指定されている。鳥羽市を港町たらしめてきた港であり、伊勢志摩の海の玄関口をなす重要な観光地でもある。鳥羽湾(とばわん)と呼ばれることもあるが、同義である。1927年(昭和2年)に鳥羽湾が大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催の日本百景に選定された。三重県東部・志摩半島の北部、伊勢湾口に位置し、港湾面積は300haである。次の地点を直線で結び、囲まれた海域が鳥羽港の範囲である。鳥羽港は以下の7つの地区からなっている。佐田浜と中之郷は鳥羽市営定期船の鳥羽本土の拠点である。佐田浜桟橋は鳥羽駅前、中之郷桟橋は中之郷駅前にある。古代には泊浦(とまりのうら)と呼ばれ、水深は深く波が穏やかな天然の良港として知られていた。このため、「泊浦御厨」として伊勢神宮内宮の支配下におかれた。室町時代から戦国時代にかけての志摩国は「志摩十三地頭」と称される海賊衆が各地区を治めていたが、その盟主的存在だったのは泊浦を支配していた橘主水であった。橘氏は泊浦に出入りする船舶を管理する地位にあり、十三地頭の間を取り持っていた。そのような中、16世紀後半に英虞郡波切(現在の三重県志摩市大王町波切)の地頭だった九鬼嘉隆が突然反乱を起こし、一度は志摩国を追放されるが織田信長に仕えたことで再び志摩国を襲い、平定する。九鬼は答志郡鳥羽を本拠地とすることに決め、文禄3年(1594年)鳥羽城を築城した。鳥羽城は海に面した天然の要塞「樋の山」に築かれたことから別名「鳥羽の浮城」と称された。江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。また上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。この重要性は幕府も認識しており、山田奉行所の職務の1つに「鳥羽港の警備」が含まれていた。そして鳥羽港に安全に入港できるよう、延宝元年(1673年)、菅島に「御篝堂(おかがりどう)」、神島に「御燈明堂」が幕府によって設けられた。これは、日本初の公設灯台とされている。明治時代に入ると民間資本で鳥羽造船所(現在のシンフォニア テクノロジー株式会社鳥羽工場)が設置され、工業部門も発達する。明治44年(1911年)7月21日には鉄道省参宮線が乗り入れ、佐田浜に終着駅の鳥羽駅が開業、昭和4年(1929年)7月23日には志摩電鉄(現在の近鉄志摩線)が鳥羽駅以南を建設した。この結果鳥羽は志摩地方の中心地としての機能を増した。昭和21年(1946年)11月20日、鳥羽港を含む志摩半島広域が伊勢志摩国立公園に指定される。この頃から観光港としての鳥羽港の歴史が本格的に幕を開ける。昭和40年〜47年(1965年〜1973年)には佐田浜から中之郷にかけて大規模な埋め立てが行われ、昭和39年(1964年)には伊勢湾フェリーが就航し愛知県の伊良湖岬と結ばれ、昭和48年(1974年)7月1日には南米航路を引退したぶらじる丸が鳥羽港に係留されることになった。ぶらじる丸は平成8年(1996年)まで「鳥羽ぶらじる丸」として一般に公開され、鳥羽市のシンボルになっていた。そして昭和63年(1988年)7月9日、「三重サンベルトゾーン構想」が総合保養地域整備法(リゾート法)の適用第1号に認定され、鳥羽市においては鳥羽港を中心としたリゾート開発を行うことが決定した。これと前後する形で昭和62年(1987年)に時の鳥羽市長が年頭記者会見で「鳥羽マリンタウン21」計画を発表し、2万tクラスの旅客船が接岸できる埠頭と複合観光施設を建設することを表明した。平成6年(1994年)には三重県の事業として工事が始まり、実際に動き出した。行政主導の開発に加え、平成17年(2005年)3月には住民が中心となって計画した「カモメの散歩道」(鳥羽プロムナード)が完成した。同年度のグッドデザイン賞を受賞した鳥羽港沿岸の木製遊歩道で、新しい観光名所となっている。鳥羽マリンタウン21計画は工事の遅れがあったが、港湾整備の第1期工区は完了、平成23年(2011年)4月1日から運用開始した。その後、2009年に実施した鳥羽港改修工事について、三重県は情報公開請求を受け公文書19件を公開したが、うち12件について、一部が削除されるなど改竄が行われており、また一連の改竄が組織ぐるみで行われていたことが明らかとなっている。鳥羽港を中心とした開発計画で、「港と背後の陸地を一体的に整備して、市民と観光客が行き交う魅力的な集い空間の創造による海の玄関口の形成」を目指している。1994年(平成6年)に事業が始まった。「港湾整備」と「背後地の整備」の2つからなり、前者は主に三重県が、後者は鳥羽市が中心となって事業を進める。当初の計画では第1期・第2期の区別はなく、2004年(平成16年)度には完工予定であった。しかし埋め立て区域の地盤が想定以上に軟弱であることが判明し、工期の分割・延長と工費の増大を招いた。また、延長して2008年(平成20年)度中に完成予定だった第1期工区は2009年4月になっても工事が終わっていなかった。これに対して市民からは「第2期工区の見直しを」、「(マリンタウン21計画が)どうなっているのか全く分からない」といった疑問や否定の声が上がった。一方の木田市長はマリンタウン21を市の活性化の軸として位置付けている。鳥羽元気再生事業推進協議会は、2008年に内閣府が公募した「地方の元気再生事業」に「〜伊勢志摩地域の歴史・文化資源を紡ぐ〜国際観光・海洋文化都市 鳥羽の創造にむけて(海の国再生事業)」として応募し、全国1,186件の中から採択された120件のうちの1つとして選ばれた。事業コンセプトを「とば・海・光・絵」とし、以下の3つの事業を鳥羽マリンタウン21と連動して行うこととしている。鳥羽港は鳥羽市が基幹産業としている観光の拠点でもある。主な施設としては以下のものが挙げられる。例年7月の第4金曜日に佐田浜周辺で開催される海上花火大会。金刀比羅宮鳥羽分社の祭典でもあり、海上御渡(海上パレード)なども行われる。当日夜の近鉄鳥羽線は首都圏の通勤ラッシュ並みに混雑する。 現在では夏祭りで1日の開催だが、第1回は「パールカーニバル 鳥羽みなとまつり」の名で1950年(昭和25年)4月23日から5月7日にかけて開催された。「鳥羽の将来は観光で生きていく以外にない」として観光振興に力を注いでいた鳥羽町長の佐藤忠により企画された。祭りの最中には日本放送協会(NHK)の協力を得て、当時放送されていたラジオ番組『街頭録音』の収録が行われたほか、オーケストラが招待された。催しとしては、日和山で「甘党の山」・「辛党の山」と称する茶屋を開き、常安寺で昭和天皇の採集された標本の展示が開かれたが、目玉行事は海女らがサザエ取りを競う「海女コンクール」であった。このコンクールは、「海女券」を買って優勝しそうな海女に賭けるものだった。このように、第1回みなとまつりは現在とは趣が大きく異なる祭りであった。また、第1回には観光キャラバン隊が大阪市で祭りの約1か月前に広報活動を行っている。心斎橋筋でチラシとマッチを配布したほか、大阪の新聞社の「新聞記事にしたい」という要望に応え、堂島川で答志島から来た海女による実演が行われた。鳥羽市営定期船を始め、伊勢湾フェリーや観光船が就航している。鳥羽港(中之郷桟橋・佐田浜桟橋)と鳥羽市沖の坂手島、菅島、答志島(答志港・和具港・桃取港)、神島を結ぶ。鳥羽市定期船課が運航。各島ごとに便数や船賃などが大きく異なる。鳥羽港と対岸の渥美半島にある伊良湖港を結ぶ。1964年就航。国道42号・259号の重複区間の海上部分に指定されている。2009年5月現在、以下の航路が定期的に運航している。
出典:wikipedia
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