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山内溥

山内 溥(やまうち ひろし、1927年11月7日 - 2013年9月19日)は、日本の実業家。出生名は山内 博(よみは同じ)。玩具メーカーの任天堂株式会社代表取締役社長(個人商店の山内房治郎商店より数えて第3代、1949年 - 2002年)、同社取締役相談役(2002年 - 2005年)を経て、晩年まで同社の相談役を担った。任天堂を電子ゲームによって世界的な企業に押し上げた中興の祖として活躍した。1927年、京都市に生まれる。溥は任天堂創業家の生まれであり、創業者・山内房治郎の曾孫に当たる。幼少時に父・山内鹿之丞(婿養子。旧姓:稲葉)が近所の女性と駆け落ちして失踪した後、祖父母に育てられることになったこと以外は恵まれた環境で育つ。早稲田大学専門部法律科で学んでいた1947年、花札・トランプ製造会社の合名会社山内任天堂の販売子会社であった株式会社丸福(丸福かるた販売などを経て、現在の任天堂)の設立時に取締役に就任。跡継ぎとして育てられていた溥だったが、その2年後、1949年に祖父で二代目の山内積良が病気で倒れ、急遽祖父の後を継がざるを得なくなり、22歳の若さで株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任。1950年大学卒業。社内の労働争議が悪化する中、積極的に社内改革を図った。1955年に労働争議は一応の決着がついたものの、争議の激しさで体を壊しかけるなどした経験から父を激しく嫌い、後に父が面会しに来た際には、門前払いしたという。労働争議が収まる一因となったのは、山内のアイディアマンぶりである。1953年には日本初のプラスチック製トランプを開発、1959年にはディズニートランプを発売するなどし、任天堂の業績をかつてないほど上げたことである。特にディズニートランプに関しては、「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」「遊び方の簡単な説明書を同梱する」という全く新しい手法により、それ以前は博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを子供向け・家庭の団欒のための玩具として再定義し、全く新しい層を新たに取り込んだことである。任天堂のトランプは爆発的に売れ、1960年代前半には一躍業界トップに躍り出る。その最中、1958年にアメリカ最大手のトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場とオフィスを視察に行った際、最大手であるにもかかわらずオフィスの規模が想像以上に小さかったことに衝撃を受け、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、多角経営の道を探ることになる。親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、1960年にダイヤ交通株式会社を設立したのを皮切りに、1961年には近江絹糸と共同出資で三近食品を設立し、いずれも代表取締役社長に就任。その他にも任天堂本社でも他業種に進出したが、ノウハウ不足などによりことごとく失敗。更にトランプブームが一段落付いた1964年に任天堂は一転倒産危機に直面することになる。山内は1965年に三近食品、1969年にダイヤ交通の経営から手を引いた。任天堂が苦境に陥っている最中、1965年に入社した横井軍平が暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。横井軍平を玩具商品開発の主任に据える。以降、電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットを出した。デパートのおもちゃ売り場と得意の関係になったことなどから、1970年の光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。しかし、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろみ、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし、山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。タイトーのスペースインベーダーの大ヒットにより、亜流のインベーダーゲームが氾濫していた際に、任天堂(任天堂レジャーシステム)は『スペースフィーバー』でこれに参戦。この際、山内はテレビのインタビューで「遊び方にパテントは無いわけです」「これからの娯楽業界の発展のためには、むしろこういった新たな技術(ソフトウェア)を互いに公開・交流することが大切」といった旨の発言をしていた。その一方、家庭用テレビゲーム機も数多く手掛け、1980年には携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットとなる売り上げを記録。多角経営時代とレーザークレーの負債を完全返済しても、ありあまるほどの規模となる利益を任天堂にもたらした。この直後、「アーケードゲームを家庭で」という目的に据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の開発が始まる。この際、山内の「アーケードはもうやめや」の一言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させ、家庭用テレビゲームに専念する体制が取られた。宮本茂は「こんなことしていいのかと思った」という。ゲームボーイ開発時には、横井軍平に対し厳しく注文をつけた。主に液晶面の問題であり、横井はプレッシャーで自殺を考えるまでに追い込まれたという。なお、「最終デモ機が完成し受け取った際にわざと床に落として強度のテストを行った」という逸話が流布しているが、これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている。1992年のHAL研究所の経営危機の際には、岩田聡を社長に据える事を条件に資金援助をするという変わり手を使い、結果的に岩田の経営者としての才能を開花させている。2002年にHAL研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲り、取締役相談役に就任。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。また会社の意思決定は社長への一任ではなく、取締役会での集団指導体制へと移行を促した。さらには「二画面」のゲーム機開発を促し、これが後のニンテンドーDSになった。2005年に取締役を退任し、役職は相談役のみとなる。その際任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っている。2013年9月19日、肺炎のため京都市左京区の京都大学医学部附属病院で死去した。満85歳没。葬儀は任天堂本社で社葬として執り行われた。山内は発行済株式10%を保有する筆頭株主であったがそれらは遺族4人が相続した。相続税の納税のために遺族は株式の一部を売却。任天堂は自社株950万株を1142億円で取得した。1992年、米国大リーグ球団シアトル・マリナーズが経営危機に瀕し、シアトルから移転されることも考えられたが、「長い間米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」として大リーグ球団をシアトルに留めるために、山内がポケットマネーでマリナーズ運営会社の株式を購入。MLB機構が日本企業がMLB球団を丸々買収することに難色を示したため、他の出資者も募る形で山内の株保有率は49%に抑えられたもののマリナーズの筆頭オーナーとなり、大リーグ史上初の非白人オーナーとなった。2002年の任天堂社長退任後も個人出資分として、暫くは共同オーナーに名を連ねていた。山内の出資分は2004年8月までにNintendo of Americaがそれらを買い取り(持株比率が50%を超え)、マリナーズ運営会社The Baseball Club of Seattle, L.P.は任天堂の持分法適用会社となった。社長をしていた当時、マリナーズの日本人大リーガーの佐々木主浩やイチローが、任天堂のコマーシャルに登場したこともある。イチローが大リーグへ挑戦を表明した時には、「何が何でも獲れ」と厳命を下している。山内がマリナーズに対して口出しをしたのはこれっきりであり、基本的には金だけ出し、口を出すことはない。それどころか「飛行機が嫌いだから」という理由で、マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も行ったことがない。2005年には、個人保有していた任天堂の株式5000株をイチローの年間最多安打達成のお祝いとして贈呈した。山内の死去が明らかになった直後の2013年9月23日にはセーフコ・フィールドにおいてマリナーズの試合前に、オーナーであった山内の死去を悼んで黙祷が捧げられた。大型スクリーンに山内の姿が映し出される中で1992年の球団買収でチーム移転を食い止めたことなどが紹介され、マリナーズの選手は2013年シーズン終了までユニホームにイニシャルの「HY」をデザインした喪章を着けてプレーすることになった。小倉百人一首をテーマとして、京都文化や京都観光の発展に貢献するために設立された「公益財団法人小倉百人一首文化財団」の理事長を務めた。同文化財団が運営する百人一首のテーマパーク「時雨殿」建設の際には、建築費用21億円すべてを個人で負担した。2002年1月に「ファンドキュー」というベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立している。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携」、「開発期間は一年」、「任天堂による審査」など条件はあったが、無担保で融資を行うという零細ベンチャーには魅力あるものであり、全額山内のポケットマネーで行われた。2006年2月、京都市左京区の京都大学医学部附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約70億円の個人資産を寄附。これにより京大では地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートル・病床約300の新病棟「積貞棟」を建設した。工事の着手は法的問題の解決が難航したため1年半遅れ2008年7月に着工、2010年5月に完成した。山内時代の任天堂は情報公開が少なく、ファミコンカセットのロイヤリティー問題、ゲームボーイの投げ付け、リコーの話など噂に尾ひれがついたものが多数ある。山内は大のマスコミ嫌いであり、訂正するタイミングを完全に逃したものと思われる。岩田が社長に就任して以降の任天堂はインターネットなどにより積極的に情報公開するようになっており、かつての定説が崩される事が増えている。「独特の経営哲学」で知られ、ワンマン経営者の典型として語られる事が多いが、宮本茂は「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」と語り、出石武宏は「(開発第一部部長になって)いまは立場上社長と話せる場面が増えたわけです。好きですね。ますます好きですね。だってすこいですもん。(後略)」「社長が笑うた顔を見たいがためにみんなつくっている」と熱く語っているようにカリスマ性にも優れ、幹部社員の殆どから厚い信頼を得ていた。独断的手法については評価が分かれる部分があるものの、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に代表される一連のテレビゲームや、任天堂では初の開発部長である横井軍平の発案による「ウルトラハンド」「ゲーム&ウオッチ」等の新規市場開拓型のヒット商品については、山内の決断により成功したことはよく知られている。横井とは犬猿の仲のように報じられがちだが、実質この2名と宮本茂の3名で現在の任天堂を創り上げたとも評される。母は山内 君(やまうち きみ、? - 1978年1月20日)。京都市出身。心不全により京都市北区の京都警察病院で70歳で死去。妹が一人。妻の兄は元任天堂社外監査役の稲葉 実(稲葉 實、いなば みのる、1921年11月12日 - )。長女の夫は元Nintendo of America社長の荒川實。長男は任天堂作品の映画版スタッフとして名前が露出している。

出典:wikipedia

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