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神京・京宝特急

神京・京宝特急(しんけい・けいほうとっきゅう)は、かつて阪急電鉄の前身である京阪神急行電鉄において運転された特急列車の通称である。前者は1949年12月から1951年10月にかけて神戸・京都両線を直通して神戸-京都間に運転され、後者は1950年3月から1968年2月にかけて京都・神戸・今津の各線を経由して京都-宝塚間に運転され、「歌劇号」の別称があったことも知られている。本項ではこれらの列車のほか、関連する事項についても紹介する。この項では、阪急各線の成り立ちと戦前十三駅において接続していた新京阪鉄道とのかかわり、戦時中の京阪電気鉄道との戦時統合と戦後の分離問題について紹介する。現在の阪急の基幹路線である神戸・宝塚・京都の3本線は、それぞれ成り立ちが大きく異なっていた。箕面有馬電気軌道によって建設された宝塚線は、現在の福知山線の前身である阪鶴鉄道が経由しなかった猪名川左岸の集落を丹念に経由したことで曲線の多い路線となり、当初は郊外の行楽地への遊覧路線としての色彩が強かったが、開業後は積極的な住宅開発を行うことで次第に通勤路線として変貌していった。その箕面有馬電気軌道が社名を阪神急行電鉄に変更して開業させた神戸線は、既存の東海道本線と阪神電気鉄道に対抗して建設されたインターアーバンで、開業後は三つ巴の熾烈な競争を繰り広げた。京都線の前身である新京阪鉄道は京阪の淀川右岸線として当初計画されたが、大阪・京都の起終点を別ターミナルとしたことから、当初から高速運転を狙った、当時としては画期的な規模のインターアーバンとして建設された。こうした経緯から、当時別会社であった新京阪は当然として、阪急所属の神戸・宝塚両線の車両や施設の規格も大きく異なっていた。神戸線が1926年登場の600形以降、車体長約17m、車体幅約2.7mの大型車が投入されたのに対し、宝塚線では、神戸線からの転入車も含めて車体長約15m、車体幅約2.4mの小型車が投入され続けた。もっとも、新京阪鉄道の前身である北大阪電気鉄道が1921年4月に十三-豊津間を開業した際に投入した車両は、当時阪急が支線向けに製造した37形と同形の10mクラスの小型車である1形で、新京阪合併後の1925年から製造された10形 (P-4,P-5)も全長13m弱の小型車であった。1927年には新京阪の京都延長に際して架線電圧が600Vから1500Vに昇圧され、車両も従来の小型車から一新された100形 (P-6)が投入されたが、天神橋駅が大阪側のターミナルとなったことから十三-淡路間は支線的な存在となり、当初は100形が乗り入れることはまれであった。その後1934年10月から神戸・宝塚方面からの乗客の便を図るために急行の十三駅乗り入れを開始、1938年10月には一度中断されるが、1941年11月には特急として復活、100形が恒常的に十三駅に乗り入れるようになった。こうした新京阪の動きは阪急側にとって大きな刺激となった。せっかく十三駅で接続したといっても、車体寸法だけでなく電圧が異なることから神戸-京都間の直通運転ができないことが、阪急において架線電圧の昇圧に向けた検討の第一歩となり、1934年から製造を開始した920系では、将来の架線電圧1500Vへの昇圧を前提とした設計がなされていた。その後、技術的・経済的の両面で検討を加え、昇圧の実施時期をうかがっていたが、太平洋戦争の勃発でその機を失ってしまった。日中戦争勃発の翌年である1938年には国家総動員法が公布された。この法律は総力戦体制の確立を目的に制定されたものであり、同法の公布と同時に、鉄道・バス事業者の統制と統合を図る陸上交通事業調整法も公布された。しかしながら、同法の公布後も中小事業者が乱立していたバス事業者とは異なり、鉄道事業者の統合への動きは緩やかなもので、関西圏では1940年に経営の不安定な阪和電気鉄道を南海鉄道が合併して同社の山手線としたほかは、1941年に大阪電気軌道がグループ企業の参宮急行電鉄 と合併して関西急行鉄道と社名を変更した程度であった。また、関東圏においても1942年5月に東京横浜電鉄を中心に小田急電鉄と京浜電気鉄道が統合されて東京急行電鉄、いわゆる「大東急」が成立するが、小田急・京浜の両社とも五島慶太の軍門に下った状態であった。監督官庁である鉄道省は、当初は各地域における企業間の自主的な統合を待っていたが、前述のとおりそれが遅々として進まないことから、1942年以降企業統合について積極的に介入するようになった。この過程で阪急・京阪の両社は鉄道省から合併を勧奨され、やむなく受諾することとなった。勧奨そのものは1942年になされたが、合併条件で阪急・京阪両社と鉄道省との間に大きな隔たりがあったことから、交渉は進展せず1943年にずれ込み、同年6月20日に鉄道省の裁定案に両社が調印、10月1日に阪急を存続会社、京阪を解散会社とする形で新会社の「京阪神急行電鉄」が発足した。太平洋戦争の敗戦後、財閥解体をはじめとした経済民主化政策の中で、大都市圏の戦時統合私鉄の被合併会社の役員を中心に分離再独立運動が起こった。1947年6月には近畿日本鉄道が旧南海鉄道の路線を高野山電気鉄道に譲渡のうえ、高野山電気鉄道が南海電気鉄道と改名して再独立を果たし、翌1948年には東京急行電鉄から京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄の3社が分離独立して、「大東急」は解体された。この流れの中で、阪急・京阪の分離問題も社内において議論されるようになった。1948年から1949年にかけて旧阪急側のトップである社長の太田垣士郎と、旧京阪側のトップである副社長の村岡四郎との間でまず設備投資の問題について協議が進められ、その過程で京阪の分離独立問題についても論じられることとなった。1949年の夏になると阪急と京阪の分離はもはや既定の事実となり、新聞でも報道されるようになったが、ここに来て旧新京阪線の帰属問題という大きな課題が浮上した。前述のとおり新京阪は京阪が心血を注いで建設したインターアーバンであるが、京阪各線とは接続せず、阪急と十三駅において接続し、統合直後の1944年から100形に電圧転換器を取り付けて急行の梅田駅乗り入れを実施していた。この乗り入れは1945年6月7日の大阪大空襲以降中断されるが、1948年8月に復活、戦前からの天神橋に加えて梅田もターミナルにすることとなった。阪急とのつながりが一層深くなった新京阪線であるが、旧京阪側にとってみれば、戦前重点的な投資をした路線であり、新京阪線も含めた形での分離独立といった声もあった。ところがこの間の1949年6月1日に公共企業体としての日本国有鉄道が発足、淀川右岸において並走する神戸線と新京阪線の前に従来にもまして強力なライバルとして立ちはだかることとなった。こうしたことから、阪急と京阪の分離独立問題は淀川を境として左岸エリアの旧京阪各線と右岸エリアの旧阪急及び新京阪線に分割されることとなり、12月1日に京阪電気鉄道と京阪神急行電鉄として再発足することとなった。こうして京阪の分離独立問題は戦時統合以来6年2か月を経て再び両社が再独立することとなったが、新京阪線の阪急への移管は世間に大きな波紋を残した。新聞には当時の京阪神急行電鉄に阪急系役員が多いことから阪急有利の分割と書かれ、合併後も利用者からは「阪急京都線」ではなく「新京阪」と呼ばれることが多かっただけでなく、「阪急が新京阪を強奪した」とさえ言われる始末であった。それにもまして阪急にとっては、軌間の幅が同一であるだけでその他の規格が不統一である神戸・京都・宝塚の3路線を一体的に運営していくことが大きな課題となった。神戸-京都間の直通特急の運転構想は、京阪との分離交渉と並行して進められていた。直接の経緯は1948年末に神戸港に入港した外国人観光客が阪急に対して神戸-京都間の直通列車の運転を要望したことに始まる。前述のように阪急においては架線電圧の1500Vへの昇圧を企図していたが、当時は戦後の混乱期を脱した直後であり、設備投資に巨額の経費を要する昇圧工事ではなく、車両のみの対応で済む複電圧車両によって直通運転を実施することとなった。もっとも、直通運転を実施するにしても京都線所属の100形では車体寸法が大きすぎて神戸線への入線が不可能だったことから、当時神戸線最新鋭の700系のうち、702-752と703-753の2編成を複電圧車両に改造して直通運用に充当することとなった。改造工事は1949年11月中に完了し、11月29日から12月1日の3日間にわたって神戸-京都、十三-梅田、西宮北口-宝塚の各区間において試運転が実施された。なお、753のみ試運転期間中はサロンルーム的な車内に改造し、リクライニングシートなどを配置していたが、営業開始前に元のロングシートに戻されている。試運転中に大きな問題が発生しなかったことから、京阪分離直後の1949年12月3日から、中央貫通扉に翼をモチーフとした「特急」、左右に「神戸」「京都」と書かれた円形の運行標識板を掲げて、平日3往復、日曜祝日3.5往復で西宮北口・十三・高槻市・西院の各駅に停車して神戸-京都間を所要時間70分で走る直通特急の運転を開始した。神戸線では同年4月に特急運転が復活していたが、京都線ではこの列車が戦後初の特急運転となった。乗務員は神戸線所属の乗務員が京都まで担当し、十三駅で電圧転換を行った。表定速度そのものは高くなかったが、比較的軽量な車体に170kW/hのSE-151モーターを700形、750形に各2基搭載していたことから、1500Vの京都線に入ると、瞬間的ながら高いスピードが出たという。神京特急の運転開始から3か月過ぎて、春の観光シーズンを前にした1950年3月21日から、直通特急の第二弾として、京都から西宮北口経由で宝塚に向かう日曜祝日運転の不定期特急の運転を開始した。車両は800系の複電圧車2編成である。運転本数は2往復で、停車駅は西院・高槻市・十三・西宮北口・宝塚南口の各駅と、競馬開催時の仁川駅、所要時間は京都行き72分、宝塚行き73分である。西宮北口駅では、神戸線下りホームに入線して客扱い後、一旦神戸側に引き揚げて神戸線上りホームに転線、西宮北口駅改良工事実施まであった神戸-宝塚方面への渡り線を通って今津線に入線した。その後、宝塚南口での利用者が少なかったことと、西宮北口構内の今津線-神戸線の短絡線を使用することになったことから、宝塚南口と京都行きの西宮北口については通過扱いとなった。このとき今津線経由となったのは宝塚線の規格向上工事前で、大型車の入線が不可能であったためである。同年4月には800系のうち複電圧車の2編成が、阪急西宮球場周辺で開催されたアメリカ博覧会の宣伝用に、レモンイエロー+コバルトブルーの塗装に変更され、開催期間中はそのまま使用された。同時に王子公園で神戸博覧会が開催されたこともあり、直通特急を平日4往復、日曜祝日6往復に増発するとともに、一部の列車は西灘・桂の両駅にも停車した。複電圧車両は神京、京宝の両直通特急以外にも日曜祝日には神戸-宝塚間の直通普通の運用にも充当され、予備車両なしのフル稼働状態となったことから、京宝特急については1往復に削減されている。6月12日にアメリカ博覧会が閉幕すると、神京特急は平日3往復、日曜祝日4往復に削減された。ただし、京宝特急は1往復のままである。特別塗装ももとのマルーンに戻された。1950年に入ると戦後の復興も一段落したことから同年10月1日に阪急全線のダイヤ改正を実施、神京特急は神戸線内のスピードアップと京阪間をノンストップ運転としたことから65分にスピードアップ、京宝特急も京都行き64分、宝塚行き67分にスピードアップされた。運転本数も変更されることとなり、神京特急は平日・日曜祝日とも4往復に揃えられたが、京宝特急は従来同様日曜祝日のみの1往復運転であった。京阪間ノンストップ運転は長くは続かず、翌1951年4月以降は高槻市にも再び停車するようになった。また、この頃になると車両面においても大きな変化が見られるようになった。日常的に神戸-京都間の直通列車が走るようになると、神戸・京都の両線だけでなく、近い将来に予定されていた宝塚線の規格向上工事完成後に同線に入線できる車両の規格づくりが行われた。具体的には100形の全長と800系の車体幅を持ち合わせた阪急標準車体寸法を設定し、それに準拠した車両を製造することとなって、同年末までに神宝線向けの810系と京都線向けの710系が複電圧装置を搭載して、扉間固定式クロスシートの優等列車向け車両として登場、1951年1月から810系が神京・京宝特急に充当されることになり、800系の運用は消滅、802-852は810系の予備車として1955年末まで複電圧車のまま残されたが、803-853は直通運用離脱直後の同年4月に600V専用車に復元された。一方、710系は運用開始当初神戸線への直通運用はなかったことから、京都線の急行を中心に運用された。こうして走り始めた神京特急であったが、神戸・京都両線とも既存の優等列車の間に挟まって走っていたために本数が少なかったことなどから、利用者が十三駅で入れ替わることとなってしまい、当初想定していたより直通客の需要を掘り起こすことができなかった。そのさなかの1951年10月、電力事情が悪化したことから利用率の低い列車の運休や編成両数の削減が実施されることとなった。神京特急もその対象となり、同年10月10日をもって運転が休止されることとなった。しかしながら、京宝特急は日曜・祝日に1往復のみの運転であったことから削減対象とならず、その後も運転されることとなった。1952年1月からは、京宝特急の運用を運用合理化のため京都線側に移管、810系に代わって710系が充当されることとなり、これによって810系の複電圧車グループは定期での京都線乗り入れ運用がなくなった。乗務員もまた、京都線の乗務員が宝塚まで入線することとなった。京宝特急の宝塚到着後、回送で西宮車庫に入庫する際は往路の逆コースをたどって西宮北口駅神戸線上りホームから西宮車庫に入庫、出庫して宝塚に回送される際はこのコースの逆で今津線に入線、京都線期間時に編成の向きが逆にならないように注意を払った。ただし、1954年10月10日から12月19日にかけて実施された西宮北口駅構内配線改良工事の際には、京宝特急は規格向上工事が完成した宝塚線経由で運転され、その運用には810系と複電圧車の予備車である802-852が充当されている。京宝特急は1963年6月17日の大宮駅-河原町駅間延伸以降は運転区間を河原町-宝塚間に変更し、西宮車庫で行っていた折り返し待機を正雀車庫に変更、710系も2800系の就役に伴って1965年以降はロングシート化されたが、京都側を朝出発、宝塚を夕方出発というダイヤで走り続けた。1967年10月8日には長年の懸案であった神戸線の架線電圧1500Vへの昇圧が完成、神戸・京都両線の直通運転の大きな障害が除去されたが、京宝特急は神戸高速鉄道開業を前にした1968年2月25日の運転を最後に廃止された。神京・京宝特急の運転期間は、100年に及ぶ阪急の歴史の中では長いものではなかったが、多くの遺産を同社に残す結果となった。この項ではこれらの事例について紹介する。前述のように、直通運転の開始が阪急標準車体寸法制定のひとつの引き金となった。これによって神戸・京都・宝塚三線の車両を各線で使用できるようになり、1960年代以降の輸送力増強時に役立つこととなった。京都線向けに大阪市営地下鉄堺筋線相互直通用の3300系が120両製造されたことから、2300系に一時的な余剰が生じたため、1969年から1971年にかけて2300系30両を神戸線に転出させて同線の輸送力増強用に供した。神戸線では2 - 4両編成を組み合わせることで6・7・8両編成を組成、特急運用にも充当されて山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅まで直通した。1970年以降は100形の置き換えに神戸・宝塚両線に5100系を投入、捻出した2000系を7両編成×6本に組成して京都線に投入、急行運用を中心に5300系の増備が進んだ1977年まで運用された。このほか、1970年の大阪万博開催時には神宝線から応援車両が入線、観覧客輸送に貢献した。この阪急標準車体寸法も前述の3300系登場後は堺筋線乗り入れに対応した3300・5300の両形式に特急用車両として6300系がやや幅広の車体を持って製造されたことから、同時期に製造された神戸・宝塚線向けの車両と二本立てになってしまった。こうしたことから1982年に製造された7300系では、堺筋線と神戸高速・山陽両線への乗り入れに配慮した車体寸法を制定したが、現時点では中津駅の車両限界拡張が困難なため、両線には入線していない。同時に車両整備の面も共通化が図られるようになった。神戸線昇圧後の1968年には西宮と正雀に分かれていた車両工場を正雀に集約、長年神戸・宝塚線向けと京都線向けで異なっていた車両の床下機器配置も、1971年登場の5100系以降は、京都線方式の梅田向き進行方向右側が電気機器、左側が空気機器に統一された。車番の附番ルールも神戸・宝塚線は0から、京都線は1からと異なっていたが、5300系からは0から附番するようになった。『京阪神急行電鉄五十年史』では、「神戸-京都間特急列車運転開始」の項の末尾で、「元来、京都線と神戸線とは一体化する自然的条件を具えており、将来、両線の施設に大きな変革を与える端緒となることと考えられる。」と記しており、その前段では神京特急の運転休止後も京都線から西宮球場への野球観戦列車や阪神競馬場最寄り駅である仁川駅への臨時列車の運転の可能性を検討している記述がある。しかしながら各線とも輸送力増強に追われてしまい、このような臨時列車を運転する機会が生じなかった。数少ない事例としては、大阪万博開催時に神戸・宝塚両線から千里線に直通する臨時列車が運転された事例である。ただし、これらの列車は団体客優先で、一般乗客の利用は限られたものであった。長らく、貸切列車以外では休止していた直通列車だったが、2008年秋、嵐山への観光客誘致キャンペーンの一環として11月17日から21日にかけて西宮北口-嵐山間を直通する臨時列車が運行された。平日指定日の1日1往復で、京都側のターミナルが河原町から嵐山に変更されたものの、前述の大阪万博開催時の直通臨時列車運転以来、38年ぶりに事実上の京都市内直通の復活となった。これ以降、2009年春の観光シーズンでは川西能勢口・豊中・西宮北口・高速神戸の各駅から嵐山に向けた臨時列車が1日1往復運転されたほか、2010年の京都線ダイヤ改正時からは列車種別が『臨時』から『直通特急』に名前を変えて運行している。

出典:wikipedia

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