本項京都市山科区の町名(きょうとしやましなくのちょうめい)では、同区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。京都市中心部から東山を越えた東、滋賀県との県境に位置する。東は滋賀県大津市、北・西・南は京都市左京区、東山区、伏見区に接する。面積28.78平方キロメートル。2009年3月現在の推計人口は約136,000人。かつては東山区の一部であったが、昭和51年(1976年)に同区から分区した。区域は、周囲を如意ヶ嶽、音羽山、醍醐山、東山などの山々に囲まれた盆地である。区の北寄りを旧東海道が東西に走り、奈良方面への奈良街道も通じるなど、古くから交通の要衝であった。現在もJR東海道本線、東海道・山陽新幹線、国道1号、名神高速道路が区内を通っている。区内にはいわゆる観光スポットは少ないが、北部には天智天皇山科陵、毘沙門堂門跡、安祥寺、本圀寺(日蓮宗大本山)などがあり、区南端近くにはともに真言宗本山寺院である勧修寺、随心院がある。明治22年(1889年)の市制町村制施行時、この地は宇治郡山科村であった。同村は大正15年(1926年)に町制を施行して山科町となるが、5年後の昭和6年(1931年)には京都市東山区に編入された。その後、前述のとおり昭和51年(1976年)に同区から分区して山科区となっている。京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがあるが、山科区内の町名は例外なく、旧大字名を冠した複合町名である。区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば1980年現在302町であった。以後、土地区画整理事業に伴う町界の変更、一部新町名の設置等はあるが、上述の302町は2009年現在も存続している。なお、昭和59年(1984年)に3町、平成6年に1町が新設されているため、2009年現在の町数は306町である。明治22年(1889年)の市制町村制施行から、山科区成立までの沿革は既に述べたとおりである。宇治郡山科町には安朱、上野、大塚、大宅(おおやけ)、音羽、小野、上花山(かみかざん)、川田、勧修寺、北花山(きたかざん)、栗栖野、小山、四ノ宮(しのみや)、厨子奥、竹鼻、椥辻(なぎつじ)、西野、西野山、八軒、東野、髭茶屋、日ノ岡、御陵(みささぎ)の23の大字が存在したが、これらは昭和6年(1931年)、山科町が当時の東山区に編入した際に計301町に編成された。これらの町は、「山科」の後に旧大字名を付したものを冠称し、たとえば「東山区山科安朱稲荷山町」のように称していたが、昭和51年(1976年)の山科区分区後は、「山科」の冠称を廃している。「安朱東谷」「大塚大岩」のように、末尾に「町」字を付さない町名が一部に存在する。これらは、山間部などで、昭和6年の町名成立時において当該区域内に人家が存在しなかったものである。「安朱」を冠称する町名はもとの山科町大字安朱で、昭和6年(1931年)、当時の東山区へ編入された際、17町に編成された。「上野」を冠称する町名はもとの山科町大字上野で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、4町に編成された。これら4町はJR山科駅周辺の3か所に分かれて存在する。「大塚」を冠称する町名はもとの山科町大字大塚で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、13町に編成された。「大宅」を冠称する町名はもとの山科町大字大宅で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、25町に編成された。平成6年(1994年)、区画整理による町界変更が実施され、大宅神納・沢・石郡・細田・関生・早稲ノ内を大宅神納町・沢町・石郡町・細田町・関生町・早稲ノ内町に改称した。「音羽」を冠称する町名はもとの山科町大字音羽で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、19町に編成された。音羽平林町は地区の東方に離れて存在する飛地となっている。「音羽南谷」は山間部に位置すると推定されるが、地図上にみえない。「小野」を冠称する町名はもとの山科町大字小野で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、10町に編成された。平成6年(1994年)、区画整理に伴い小野蚊ケ瀬を小野蚊ケ瀬町と改称した。「上花山」を冠称する町名はもとの山科町大字上花山で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、6町に編成された。「川田」を冠称する町名はもとの山科町大字川田で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、15町に編成された。昭和44年(1969年)、「川田清水焼団地町」が新設され、現在は16町である。このうち、「川田欠ノ上」は、まとまった町域でなく、地区内の数か所に飛地状に存在している。川田梅ケ谷町の一部は、昭和51年の山科区分区の際、東山区側に残され、東山区今熊野梅ケ谷町となっている。「勧修寺」を冠称する町名はもとの山科町大字勧修寺で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、28町に編成された。平成6年(1994年)、区画整理に伴い「勧修寺東堂田町」が新設され、現在は29町となっている。またこの時、勧修寺平田・瀬戸河原・泉玉・東金ケ崎を勧修寺平田町・瀬戸河原町・泉玉町・東金ケ崎町と改称した。当該地区にある寺院名は「かじゅうじ」を正式呼称とするが、地名は「かんしゅうじ」である。「北花山」を冠称する町名はもとの山科町大字北花山で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、12町に編成された。「栗栖野」を冠称する町名はもとの山科町大字栗栖野で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、4町に編成された。「小山」を冠称する町名はもとの山科町大字小山で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、20町に編成された。「四ノ宮」を冠称する町名はもとの山科町大字四ノ宮で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、19町に編成された。「厨子奥」を冠称する町名はもとの山科町大字厨子奥で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、6町に編成された。これら6町は区内の3か所に分かれて存在し、厨子奥長通と厨子奥花鳥町は飛地となっている。「竹鼻」を冠称する町名はもとの山科町大字竹鼻で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、13町に編成された。13町のうち3町は区の東方の山間部に位置する飛地である。「椥辻」を冠称する町名はもとの山科町大字椥辻で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、11町に編成された。椥辻東山は地図にみえないが、「西野東山」「東野東山」と同様、区の南東端の山間部に位置すると推定される。「西野」を冠称する町名はもとの山科町大字西野で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、17町に編成された。「西野東山」は区の南東端の山間部に位置する飛地である。「西野山」を冠称する町名はもとの山科町大字西野山で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、10町に編成された。「八軒屋敷町」の区域は、明治22年までは「八軒町」であったが、同年の市制町村制施行により山科村(のち山科町)大字八軒となった。大字八軒に属する小字は「屋敷」1つのみで、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、山科八軒屋敷町となった。「東野」を冠称する町名はもとの山科町大字東野で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、11町に編成された。昭和59年(1984年)、東野井ノ上町の一部が東野北・中・南井ノ上町となり、現在は14町からなる。「東野東山」は区の南東端の山間部に位置する飛地である。「髭茶屋」を冠称する町名の区域は、明治22年までは「髭茶屋町」であったが、同年の市制町村制施行により山科村(のち山科町)大字髭茶屋となった。大字髭茶屋に属する小字は2つのみで、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、2町に編成された。「日ノ岡」を冠称する町名はもとの山科町大字日ノ岡で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、8町に編成された。「御陵」を冠称する町名はもとの山科町大字御陵で、昭和6年、当時の東山区へ編入された際、30町に編成された。山科区の「御陵」は「みささぎ」と読むが、西京区にある「御陵」は「ごりょう」と読む。
出典:wikipedia
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