安念山 治(あんねんやま おさむ、1934年2月23日 - )は、北海道上川郡下川町出身の元大相撲力士。本名は安念 治(あんねん おさむ)。1934年2月23日に北海道上川郡下川町で農家を営む家に五男として生まれる。下川町立下川中学校を卒業後は家業を手伝っていたが、1949年の夏に羽黒山政司・照國萬藏の一行が名寄市へ巡業へやってきた際に見に行ったところ、旭川市の立浪部屋で地方世話人を担当していた人物から勧誘され、立浪部屋へ入門、1950年1月場所において初土俵を踏んだ。均整の取れた骨太の体格で腕力や足腰が強いことから順調に出世し、1953年9月場所で新十両昇進、1954年5月場所で新入幕を果たした。1957年5月場所では新小結の場所でありながら13勝2敗で幕内最高優勝を果たしたため、すぐにでも大関昇進は果たせると周囲から期待されていた。新小結で幕内最高優勝を果たしただけでは流石に昇進は不可能だったが、1959年11月場所では兄弟子で新大関・若羽黒朋明が13勝2敗で初の幕内最高優勝、安念山も12勝3敗の好成績で、1960年1月場所では若羽黒が綱取り、安念山は大関取りとして注目された場所だった。しかし、この場所では若羽黒が7勝8敗と負け越し、安念山も8勝止まりと期待に応えられなかった。さらに、大鵬幸喜との対戦は通算で21戦全敗で当時の最多記録となっていたことも響き、結果的に大関昇進は果たせなかった。調子が良くても悪くても、現代的な甘いマスクと筋肉質の身体で女性に人気が高く、若羽黒・安念山・北の洋昇・時津山仁一の4人は「立浪四天王」と称された。若羽黒とは立浪部屋の後継者を巡る問題でも争った。1959年に立浪の長女・千恵子と結婚し、1961年7月場所からは師匠の現役名「羽黒山」を継承して正式に後継者となった。結婚の詳しいいきさつは、立浪の後援者の一人に大谷重工業社長で元幕下鷲尾嶽の大谷米太郎がおり、大谷や部屋付き親方の玉垣が話を持ちかけて交際を開始、1月に交際が報じられて10月6日に挙式した。結果的には若羽黒との後継者争いを制した形となったが、実際には交際が始まった時点で若羽黒には別に意中の人がいた模様であり、立浪夫人曰く、千恵子をめぐっての取り合いのようなものはそもそも無かったという。四股名継承後は勝ち越しの場合は2桁勝利を収めるものの、負け越した場合は2桁黒星を喫するなど思うような相撲が取れず、さらに右膝の負傷によって1965年3月場所の番付に名前を残したまま現役を引退、年寄・追手風を襲名した。しかし、1969年10月14日に立浪が亡くなると、同時に立浪部屋を継承した。部屋継承直後の1970年には、早くも日本相撲協会の理事に当選するなど、親方・師匠としての手腕も期待されていた。部屋の師匠としては先代から継承した旭國斗雄を大関へ、黒姫山秀男を関脇へ昇進させるなど関取を順調に輩出していったが、後に続く直弟子がなかなか昇進せず、1979年の旭國、1982年の黒姫山引退後は部屋の勢いが下降していった。旭國と黒姫山という、立浪部屋の名力士が相次いで引退したことで部屋の勢力が下降していくなか、立浪は入門当初から大器と言われていた北尾光司に部屋再興の希望を託した。北尾は入門前から恵まれた体格で、中学生でありながら立ち合いで相手を突き飛ばし、高校生相手でも負けなかったことで全国的には無名だったが角界では有名だった。北尾の指導者が立浪部屋の後援会員であることから毎年の夏休みに部屋へ泊まり込んで稽古を行い、その縁で北尾は中学を卒業して入門した。その努力が実を結んで1986年7月場所後に横綱昇進を果たした。北尾は横綱昇進後、四股名を「双羽黒」と改名した。ところが、双羽黒は一人息子として甘やかされて育てられたためか、本場所直前で少しでも厳しい稽古を行うと「故郷へ帰らせてもらいます」と口癖のように自らを破門するよう頼むような発言を繰り返し、。そして1987年12月27日、双羽黒はちゃんこの味付けを巡って立浪と大喧嘩し、仲裁に入った部屋の女将を突き飛ばし「二度と戻らない」と言って部屋を飛び出す騒動を発生させた。双羽黒が友人宅へ逃げ込んでいる最中、立浪は日本相撲協会へ双羽黒の廃業届を提出した。これを受けて日本相撲協会は4日後の大晦日に臨時の理事会を開催、双羽黒の廃業を決議・発表した。この騒動で「(双羽黒は)破門にするべき」との声も出ていたが、当時24歳の青年だったことで恩情的に「廃業」扱いされた。それでも「双羽黒の廃業=(事実上の)破門」だったことは立浪自らが後年になって認めており、双羽黒も自身の著書で明かしている。他方では、緊急理事会を終えた騒動を伝えるニュースのインタビューで、春日野は立浪に対してかなり突き放したコメントを残しており、立浪の相撲部屋の経営方針や指導法に関しても多方面から批判が集中した。双羽黒の電撃廃業から2年後、アマチュア横綱・山崎直樹(日本大学)が立浪部屋へ入門した。山崎は後に貴闘力忠茂との取組で合計36発にも及ぶ張り手合戦を繰り広げるなど闘志を全面に出す力士として活躍する。山崎の入門によって部屋も自宅8階ビルへ移転、その山崎が「大翔山」と改名して関取昇進を果たすと、双羽黒廃業騒動によって落ち込んだ部屋の活気が盛り返した。さらに大翔鳳昌巳・智乃花伸哉・大日ノ出崇揚といった、後に1990年代の幕内で活躍する学生相撲出身者が相次いで入門したが、部屋が学生相撲出身力士で占められ、。事実、双羽黒廃業後に立浪が育成した力士で前相撲から幕内へ昇進した力士は立洸熊五郎のみである。1997年には、文部省からスポーツ功労者として受賞している。1995年には、大島部屋に所属していた旭豊勝照を長女の婿養子に迎えて養子縁組を結び、1999年の停年退職と同時に、旭豊に部屋を継承させた。しかし、継承直後から部屋の経営方針や指導に関する意見の違いで対立が目立ったことから、停年退職後も部屋の稽古場に監視カメラを設置して指導方法に口出しするようになった。挙げ句の果てには旭豊の引退相撲において、その収益を妻と共に持ち逃げしたことで旭豊本人へ届いたのは税金の督促状のみという事態を引き起こし、これに怒った旭豊は養子縁組を解消、離婚へ繋がった。先代立浪は、「親方株の譲渡代金」として旭豊に対して1億7500万円の支払いを求める民事訴訟を起こし、一審では勝訴したものの控訴審で逆転敗訴し、最高裁での上告も棄却された。旭豊はこの騒動によって部屋を移転させ、かつて双羽黒から暴行を受けて脱走騒ぎを起こしたと報じられた羽黒海憲司の要請で、立浪部屋のアドバイザーとして元双羽黒の北尾光司を招聘した。部屋付きアドバイザー就任後の北尾は安念山に対する態度を軟化させており、光文社のインタビューでは自ら安念山との確執について「若さ故の未熟さ」と語っており反省の様子を見せていた。戦後直後から高度経済成長期にかけて活躍した力士で、均整のとれた骨太の体格、強い足腰と腕力で相手を倒す正攻法の取り口である。筋肉質の体格と甘いマスクで女性ファンから人気があり、新入幕から約10年に渡って幕内に在位し続けていた。得意とする左四つからの下手投げで栃錦清隆・千代の山雅信に強く、通算獲得金星10個のうち、7個を二人から奪っているが、大鵬幸喜には通算で21戦全敗と全く歯が立たず、同じ横綱でありながら栃錦・千代の山に強くても大鵬に全く勝てない不思議な戦績が残っている。相手の力を利用する安念山に対して慎重に攻める大鵬の力を、うまく利用して相撲を取ることが出来なかったものと思われる。
出典:wikipedia
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