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京都市左京区の町名

本項京都市左京区の町名(きょうとしさきょうくのちょうめい)では、同区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。京都市街地の東北方、鴨川(賀茂川)の東岸に位置し、北方の大原、鞍馬などの山間部を含んだ広大な面積を有する。区域は南北に長く、最北端は標高959メートルの三国岳山頂である。区の東は京都府と滋賀県の府県境をなし、滋賀県大津市及び高島市に接する。府県境に位置する比叡山の西側は当区に属する。区の南は東山区及び山科区、北は京都府南丹市(美山地区)、西は右京区(京北地区)及び北区に接し、南端近くの一部が上京区及び中京区に接する。面積246.88平方キロメートル。2009年3月現在の推計人口は約166,000人。区の南部には平安神宮、南禅寺、慈照寺(銀閣寺)、下鴨神社(賀茂御祖神社)、修学院離宮などの著名社寺や史跡があり、岡崎公園、京都会館、京都国立近代美術館、京都市動物園、京都大学吉田キャンパス、京都府立植物園、京都府立総合資料館、国立京都国際会館などの施設もある。区の中部から北部は人口密度の低い山間部である。東には国道367号(鯖街道、若狭街道)が通り、比叡山の西の登り口である八瀬地区、三千院や寂光院のある大原地区を通って若狭方面へ通じている。西には京都府道38号京都広河原美山線(鞍馬街道)が通り、鞍馬寺のある鞍馬地区、花脊、広河原を通って南丹市方面へ通じている。区の最北端の久多地区はかつて京都府愛宕郡(おたぎぐん)に属したが、地理的には東の滋賀県方面とのつながりが強い。当区は昭和4年(1929年)、当時の上京区から分区して成立したものである。成立当時の区域は下鴨各町、北白川各町を含んでそれより南の地区のみであった。昭和5年(1930年)に東山区との区境変更があり、区南端の粟田口地区の一部が東山区に編入された。昭和6年に愛宕郡修学院村と松ケ崎村、昭和24年(1949年)に同郡岩倉村、八瀬村、大原村、静市野村、鞍馬村、花脊村、久多村を編入した。昭和32年(1957年)には北桑田郡京北町の一部(大字広河原)を編入し、現在の区域となった。京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する広域地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがある。左京区内の町名は区の南西端の二条川東地区にある29町と、永観堂町、永観堂西町、銀閣寺町、銀閣寺前町、黒谷町、若王子町が単独町名で、他は旧大字名などの地区名を冠した複合町名である。区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば1980年現在569町であった。その後、一部地区で土地区画整理事業実施等に伴う町名町界の変更があり、12 町が新たに起立、7町が廃止されて、2009年現在は574町となっている。区内には「修学院音羽谷」「松ケ崎東山」のように、末尾に「町」字を付さない町名が一部に存在する。これらは、いずれも昭和6年(1931年)に編入された地区であり、山間部などで、昭和6年の町名成立時において当該区域内に人家が存在しなかったものである。区の南西端、鴨川の東、二条通の南北の地区の町名は、広域地名を冠称しない単独町名となっている。この地区は二条川東と称され、宝永5年(1708年)の洛中の大火後、焼け出された住民が移転してきて新たな町をつくったものが多い。現行の町名、町界は近世のそれがおおむね引き継がれている。ただし、新東洞院町、菊鉾町、新車屋町、大菊町、新丸太町は明治2年(1869年)に近隣の数か町が合併して成立した町名であり、石原町は明治16年(1883年)、愛宕郡聖護院村の一部が当時の上京区に編入された際に成立したものである。明治元年(1868年)、京都府が成立すると、これらの町を含む上京の町は上京1 - 45番組に組織された。これらの町組は、その後たび重なる変遷を経て、明治25年(1892年)には計28 の「学区」に組織された(明治以降の行政区画の変遷については別項「京都市上京区の町名」を参照)。左京区に属するのはそのうちの第27及び第28学区であり、昭和4年(1929年)には小学校名を付してそれぞれ錦林学区及び新洞学区と呼称されるようになった。これらの学区は昭和16年(1941年)に廃止されており、現在では正式の地区名ではないが、その後も「元学区」として、地区の呼称に用いられている。町名に「岡崎」を冠称する地区は、もとの愛宕郡(おたぎぐん)岡崎村である。岡崎村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区岡崎町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区岡崎町となった。大正7年(1918年)には岡崎町を廃し、「岡崎」を冠称する13町及び黒谷町(冠称なし)に編成された。これら14町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。その後、昭和33年に岡崎東天王町が成立し、「岡崎」を冠称する町名は計14、その他の町名1(黒谷町)となっている。町名に「聖護院」を冠称する地区は、もとの愛宕郡聖護院村である。聖護院村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区聖護院町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区聖護院町となった。大正7年(1918年)には聖護院町を廃し、「聖護院」を冠称する8町に編成された。これら8町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。町名に「吉田」を冠称する地区は、もとの愛宕郡吉田村である。吉田村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区吉田町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区吉田町となった。大正7年(1918年)には吉田町を廃し、「吉田」を冠称する14町に編成された。これら14町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。町名に「南禅寺」を冠称する地区は、もとの愛宕郡南禅寺村である。南禅寺村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区南禅寺町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区南禅寺町となった。大正7年(1918年)には南禅寺町を廃して、「南禅寺」を冠称する4町、永観堂町(冠称なし)が成立。残余は「町」字を付さない「南禅寺」となる。これら6町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。昭和33年、永観堂西町(冠称なし)が成立。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「字XX」の区域はすべて「XX町」と改称された。この際、「南禅寺」として存続していた区域は南禅寺南禅寺山町、南禅寺風呂山町となった。以上により、現在は「南禅寺」を冠称する町名が6、その他の町名が2(永観堂町、永観堂西町)となっている。町名に「粟田口」(あわたぐち)を冠称する地区は、もとの愛宕郡粟田口村である。粟田口村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区粟田口町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区粟田口町となった。大正7年(1918年)には粟田口町を廃し、「粟田口」を冠称する4町(鳥居町、華頂町、鍛冶町、三条坊町)及び「町」字を付さない「粟田口」に編成された。これら5町は昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。翌昭和5年、粟田口地区の南部は東山区となり、「町」字を付さない「粟田口」の一部と、粟田口鳥居町のみが左京区の所属となった。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「字XX」の区域はすべて「XX町」と改称された。この際、「左京区粟田口」として存続していた区域は粟田口大日山町、粟田口山下町、粟田口入会山町、粟田口如意ケ嶽町の4町となった。以上により、現在は「粟田口」を冠称する町名は5となっている。町名に「鹿ケ谷」(ししがたに)を冠称する地区は、もとの愛宕郡鹿谷村である。鹿谷村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区鹿ケ谷町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区鹿ケ谷町となった。大正7年(1918年)には鹿ケ谷町を廃し、「鹿ケ谷」を冠称する6町、若王子町(冠称なし)が成立。残余は「町」字を付さない「鹿ケ谷」となる。これら8町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。その後、昭和4年に法然寺西町、昭和33年に西寺ノ前町、上・下宮ノ前町が成立した。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「字XX」の区域はすべて「XX町」と改称された。この際、「左京区鹿ケ谷」として存続していた区域は「鹿ケ谷」を冠称する8町(大黒谷町、菖蒲谷町、栗木谷町、不動山町、若王子山町、善気山町、徳善谷町、多頂山町)となった。以上により、現在は「鹿ケ谷」を冠称する町名は18となっている。町名に「浄土寺」を冠称する町名の地区は、もとの愛宕郡浄土寺村である。浄土寺村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区浄土寺町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区浄土寺町となった。大正7年(1918年)には浄土寺町を廃し、「浄土寺」を冠称する5町、銀閣寺町(冠称なし)が成立。残余は「町」字を付さない「浄土寺」となる。これら7町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。その後、昭和34年に銀閣寺前町(冠称なし)及び「浄土寺」を冠称する東田町、上・下馬場町、上・下南田町が成立した。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「字XX」の区域はすべて「XX町」と改称された。この際、「左京区浄土寺」として存続していた区域は「浄土寺」を冠称する6町(打越町、広帖町、提灯山町、七廻り町、小山町、大山町)となった。以上により、現在は「浄土寺」を冠称する町名は16、その他の町名は2(銀閣寺町、銀閣寺前町)となっている。「田中」及び「高野」を冠称する町名は、もとの愛宕郡田中村で、大正7年(1918年)、当時の上京区に編入された。田中村には田中、高野河原の2つの大字があったが、このうち大字田中は大正7年、「田中」を冠称する17町に編成された。その後、以下のような町名町界の変更を経て、「田中」を冠称する町は30町となっている。田中村大字高野河原は大正7年、「高野」を冠称する7町に編成された。その後、以下のような町名町界の変更を経て、「高野」を冠称する町は8町となっている。「北白川」を冠称する町名は、もとの愛宕郡白川村で、大正7年(1918年)、当時の上京区に編入された。白川村には大字はなく、旧村域は大正7年、一部が「北白川」を冠称する12町(仕伏町、上池田町、下池田町、上終町、別当町、小倉町、久保田町、西町、追分町、平井町、伊織町、琵琶町)に編成され、残余は大字北白川となった。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「大字○○字XX」の区域はすべて「町」となり、「○○XX町」と改称された。この際、大字北白川として存続していた区域は「北白川」を冠称する13町となった。この他、以下のような町名町界の変更を経て、「北白川」を冠称する町は43町となっている。「下鴨」を冠称する町名は、もとの愛宕郡下鴨村で、大正7年(1918年)、当時の上京区に編入された。下鴨村には大字はなく、旧村域は大正7年、「下鴨」を冠称する17町に編成された。その後、以下のような町名町界の変更を経て、「下鴨」を冠称する町は46町となっている。「賀茂」を冠称する2町はもとの愛宕郡上賀茂村である。上賀茂村には上賀茂、小山の2つの大字があった。このうち大字小山は大正7年(1918年)、当時の上京区に編入され、現在は北区のうちとなっている。大字上賀茂は一部が大正7年、当時の上京区に編入され、「賀茂」を冠称する4町(今井町、半木町、板倉町、玄以町)に編成された。このうち、板倉町は昭和11年、玄以町は昭和12年に廃止されたが、「板倉」、「玄以」の地名は、現在の北区小山の町名に継承されている。以上により、「賀茂」を冠称する町名は2町となっている。なお、大字上賀茂の残余は、昭和6年、当時の上京区に編入されて「上賀茂」を冠称する町名となり、現在は北区に属している。「一乗寺」「修学院」「山端」及び「上高野」を冠称する町名は、もとの愛宕郡修学院村で、昭和6年(1918年)、左京区に編入された。修学院村には一乗寺、修学院、高野の3つの大字があったが、このうち大字一乗寺は昭和6年、「一乗寺」を冠称する91町に編成された。その後、以下のような町名町界の変更を経て、「一乗寺」を冠称する町は89町となっている。大字修学院は昭和6年、大部分が「修学院」を冠称する52町、及び「山端」(やまばな)を冠称する11町に編成され、残余は大字修学院として残された。昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「大字○○字XX」の区域はすべて「町」となり、「○○XX町」と改称された。この際、「左京区大字修学院」として存続していた区域は修学院山神町、修学院高岸町、修学院松本町の3町となった。以上により、現在は「修学院」を冠称する町名は55となっている。大字高野は昭和6年、前述の旧田中村大字高野河原との区別のために頭に「上」をつけた「上高野」を冠称する60町に編成された。その後、土地区画整理事業実施に伴い、昭和55年に草木町、三十三町、地前町、図惣町、藤城町、本折町、横枕町の7町が廃止され、「上高野」を冠称する町名は53町となっている。「松ケ崎」を冠称する町名は、もとの愛宕郡松ケ崎村で、昭和6年(1931年)、左京区に編入された。松ケ崎村には大字はなく、旧村域は昭和6年、大部分が「松ケ崎」を冠称する55町に編成され、残余は左京区字鞍馬田、字糺田として残された。その後、以下の変更を経て、「松ケ崎」を冠称する町名は59町となっている。「岩倉」を冠称する町名は、もとの愛宕郡岩倉村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。岩倉村には岩倉、中、長谷、幡枝、花園の5つの大字があったが、このうち大字岩倉は昭和24年、「岩倉」を冠称する9町に編成され、残余の4大字は岩倉中町、岩倉長谷町、岩倉幡枝町、岩倉花園町となった。その後、土地区画整理事業実施に伴い、昭和55年(1980年)、南三宅町、中・西大鷺町、南四ノ坪町、南桑原町、東・西五反田町、東・西宮田町、南平岡町、北・南池田町の12町が成立し、平成26年(2014年)、岩倉北桑原町、岩倉北平岡町、岩倉北四ノ坪町、岩倉中河原町、岩倉三笠町、岩倉南河原町、岩倉南木野町の7町が成立し、「岩倉」を冠称する町は32町となっている。「八瀬」を冠称する町名は、もとの愛宕郡八瀬村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。八瀬村には大字はなく、旧村域は昭和24年、「八瀬」を冠称する4町に編成された。「大原」を冠称する町名は、もとの愛宕郡大原村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。大原村には大原、小出石、百井、大見、尾越の5つの大字があったが、このうち大字大原は昭和24年、「大原」を冠称する9町に編成され、残余の4大字は大原小出石町、大原百井町、大原大見町、大原尾越町となった。「静市」を冠称する町名は、もとの愛宕郡静市野村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。静市野村には静原、市原、野中の3つの大字があったが、これらは「静市」を冠称し旧大字名を継承する3町に編成された。「鞍馬」を冠称する町名は、もとの愛宕郡鞍馬村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。鞍馬村には鞍馬、二ノ瀬、貴船の3つの大字があったが、うち大字鞍馬は鞍馬本町となり、残余は「鞍馬」を冠称し旧大字名を継承する2町に編成された。「花脊」を冠称する町名は、もとの愛宕郡花脊村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。花脊村には原地新田、別所、大布施、八桝の4つの大字があったが、うち大字原地新田は花脊原地町となり、残余は「花脊」を冠称し旧大字名を継承する3町に編成された。「広河原」を冠称する町名は、昭和30年(1955年)までは北桑田郡黒田村大字広河原で、同年、黒田村が他の1町4村と合併して北桑田郡京北町となってからは京北町大字広河原となった。広河原地区は京北町の中心部から遠く離れ、地理的にも京都市方面とのつながりが強いことから、昭和32年(1957年)左京区に編入され、「広河原」を冠称する5町に編成された。「久多」を冠称する町名は、もとの愛宕郡久多村で、昭和24年(1949年)、左京区に編入された。久多村には大字はなく、旧村域は昭和24年、「久多」を冠称する5町に編成された。左京区の町名について、いずれを現行公称町名とみなすかについては、参照する資料によって相違がある。ここでは以下の資料間における町名の異同について記す。なお、本項解説における町名リストや町数の記載は、混乱を避けるため便宜上『角川日本地名大辞典』を基準とした。滋賀県大津市との府県境近くの山中、比叡山ドライブウェイ沿いに位置する宿泊施設と大学の研修施設の住所は「左京区比叡山一本杉」と表示されているが、これは通称で、当該地区の実際の公称地名は「左京区一乗寺病ダレ」である。

出典:wikipedia

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