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マチルダII歩兵戦車

マチルダII歩兵戦車(マチルダ2ほへいせんしゃ、Infantry Tank Mark II Matilda、Mk.II マチルダII)は、第二次世界大戦前期にイギリス軍で使用された歩兵戦車である。1938年6月に最初の量産発注が出され、1942年3月に最終生産ロットの発注が出されたが、全車の完成は1943年にズレこみ、最終的に2,890両が生産されている。1934年、イギリス軍は装甲の厚い歩兵支援戦車の開発を決定し、翌年10月にはヴィッカースにより「マチルダ」ことA11(後のマチルダI)の設計草案が提示された。しかし、低コストで早期に開発することが要求されたために、あまりに小型で性能が不十分と判断され、1936年9月には、より大型の歩兵戦車A12の仕様要求が出されている。これは、「マチルダ・シニア」の通称で開発され、1938年4月には試験に入り、6月には140両、8月には40両の生産発注がなされ、1939年に配備が開始された。歩兵戦車として十分な装甲(最大装甲厚75mm、総重量26t)を持つことが優先され、搭載された武装は2ポンド砲および同軸機銃と比較的小さめであり、速度も最大24km/hと低速である。また、榴弾を撃てない2ポンド砲の代わりに3インチ榴弾砲を搭載したCS(クロース・サポート=近接支援)型も生産されている。同軸機銃をベサ機関銃に換装したMk.II、ディーゼルエンジンを改良したMk.IIIなど、Mk.Vまで改良が重ねられた。本格的運用は西方電撃戦でのアラスの戦いからである。その厚い装甲は、ドイツのIII号戦車や短砲身型のIV号戦車、チェコ製の35(t)戦車および38(t)戦車の主砲や対戦車砲の徹甲弾に有効であった。北アフリカで戦争が始まると、アメリカからの供与戦車と共にイギリス機甲部隊の主力として1941年のバトルアクス作戦やクルセーダー作戦などで活躍した。本車の装甲はここでも有効で、その姿から「戦場の女王」(周りにいる歩兵を蟻、マチルダを女王蟻に見立てての表現)と称された。しかし、バトルアクス作戦中初期のハルファヤ峠をめぐる戦いでは、同地に展開していた88mm高射砲の水平射撃により十数両が撃破されている。これは、陽炎のために高射砲が発見しづらかったのと、砲兵のような軟目標に効果的な榴弾を撃てず、同軸機銃による射撃も効果的でなかったからである。この致命的な欠陥について、ドイツ軍のロンメル元帥は、「Mk.IIは「歩兵戦車」と呼ばれているのに、敵歩兵に撃つべき榴弾が用意されていないのは何故だろうか。実に興味深いものだ」「この戦車はとてつもなく遅く、物資集積所に真っ直ぐ突っ込んで大穴をあけることくらいにしか役に立たないだろう」との回想を残している。北アフリカに送られた車両は、車両の輪郭や進行方向を誤認させるためダズル迷彩の様な直線で構成された独特な迷彩が採用された。1942年に入ると長砲身75mm砲を搭載したIV号戦車F2型が出現し、防御面での優位性が失われた。更に6ポンド砲を搭載した新型のチャーチル歩兵戦車やアメリカから供与されたM3中戦車やM4中戦車の配備が本格化し、低速で発展性に乏しい本車は、より大型の戦車砲を搭載することができず、装甲を増したドイツ戦車に対応できなくなった。1942年6月のトブルク陥落後には稼働するマチルダはほとんど無くなっており、4両だけ残っていたCS型も翌月3両が失われ、生き残った1両はイギリス軍が実戦に用いた最後のマチルダとなった。本車はソ連に対しレンドリース法による輸送が行われたが、足回りのスカートが誘導輪を支える構造材を兼ねていたため、取り外すことができず泥が詰まりやすい点など、同じくソ連に送られたバレンタイン歩兵戦車に比べ評判は良くなかった。太平洋戦争においても東部ニューギニア戦線で1943年(昭和18年)9-12月にかけて行われたフィンシュハーフェンの戦いでオーストラリア第9師団が本車を使用し、大日本帝国陸軍第20師団と戦闘を行っている。ここでも本車は高い防御力を発揮した。この戦いの結果、第20師団は人員の45%に損害を出し敗走した。この他マチルダを装備した部隊は中隊-小隊規模で各所に分遣され、特に3インチ榴弾砲を持つCS型が、日本軍の火点潰しに有効に用いられた。また、戦後、若干数のマチルダはオーストラリアの市民防衛軍に引き渡され、1955年まで配備されていた。

出典:wikipedia

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