常盤座(ときわざ、1887年10月1日 開業 - 1984年 休館 / 1991年 閉鎖)は、かつて存在した日本の劇場、映画館である。東京・浅草公園六区初の劇場で、当時流行の道化踊の興行のために、根岸浜吉の根岸興行部が常磐座(読み同)として開業した。「浅草オペラ」発祥の劇場でもある。のちに常盤座、トキワ座と改称した。1884年(明治17年)に区画を街区整備して成立した「浅草公園六区」に、東京市(現在の東京都中心部)中に流行する「道化踊」の興行場を建てるべく、1887年(明治20年)5月、根岸浜吉が警視庁に申請、同年6月に許可が下り、10月1日に浅草区公園六区(現在の台東区浅草1丁目26番)に建設・開場したのが、「常磐座」である。同時に浜吉は、根岸興行部を設立した。当初のネーミングは浜吉の出身地である常磐に由来した。浜吉は、歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を「常磐座」で興行し、そして映画を上映した。当時の常磐座での新派劇には、のちの映画監督松本英一がいた。映画は1910年(明治43年)7月に設立された福宝堂が配給、1911年(明治43年)からは福宝堂製作の日本映画を上映した。1912年(明治45年)に浜吉が死去、浜吉の女婿・小泉丑治が根岸興行部を継ぎ、「常盤座」と改称して、劇場経営を行なった。同年(大正元年)9月10日、福宝堂が日活に統合され、日活作品が配給されることになったが、なかなか安定して作品が供給されなかった。小泉が、福宝堂の営業部長で当時日活本社営業部勤務だった小林喜三郎に苦情を伝えると、小林は日活を退社、同年12月には「常盤座」に作品を供給する会社として「常盤商会」を設立、「常盤商会日暮里撮影所」を設置した。同社が量産するサイレント映画を「常盤座」は上映したが、日活が差し止めて、翌1913年(大正2年)早々には、日活作品に切り替わった。1916年(大正5年)5月1日、常盤座は、1911年(明治44年)10月1日開業の「金龍館」、1913年(大正2年)開業の洋画の封切館「東京倶楽部」の2館とともに、「3館共通入場券」(2階20銭、1階10銭)を導入した。いずれも根岸興行部の経営する劇場である。同年5月、帝国劇場洋劇部が解散し、同年9月に高木徳子が伊庭孝らと結成した「歌舞劇協会」の浅草での公演を引き受けたのが、この「常盤座」で、1917年(大正6年)1月22日、オペラ『女軍出征』を上演、大ヒットする。これが「浅草オペラ」のはじまりとされる。その後は、おもに「金龍館」が「浅草オペラ」の舞台になり、根岸興行部は、1920年(大正9年)9月3日、金龍館に「根岸大歌劇団」を設立する。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で常盤座、および根岸興行部は大打撃を受け、根岸興行部はいっさいを失い、松竹傘下に入った。1924年(大正13年)3月には「根岸大歌劇団」は解散、松竹の経営下で常盤座は、金龍館、東京倶楽部とともに復興した。常盤座は、帝国キネマ演芸の封切館、金龍館は軽演劇の実演興行、東京倶楽部は洋画の二番館(旧作興行)となった。1933年(昭和8年)4月1日、古川緑波(古川ロッパ)、徳川夢声らが常盤座で、軽演劇の劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行なった。以来、1943年(昭和18年)6月の同劇団解散まで、常盤座を根城にした。同年5月、松竹がパラマウント映画と設立・運営していた松竹パ社興行社がパラマウントが撤退、同年6月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足、常盤座は新宿昭和館とともにこの系列に加えられた。俳優の石坂浩二が主宰する劇団「劇団急旋回」は、1989年 - 1991年の間、『ユノーの休日』(1989年)、『アリン・カングリ』(1989年)、『ドンナ・ドッチ綺譚』(1990年)、『SAH・LA・VA〜然らば〜』(1991年)と毎年、常盤座で公演を打った。1991年末 - 再開発のために閉鎖となり、104年の歴史に終止符を打った。やがて跡地はROX3となった。
出典:wikipedia
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