蒋 介石(しょう かいせき、、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。名は中正で、介石は字。譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元。学校では志清とも呼んだ。日本・中国本土では蔣介石の呼び名で知られているが、台湾一帯では蔣中正(チャン・チョンヂェン、)の名称が一般的。「介石」は最初は雑誌『軍声』上で筆名として使っていたが、後に字になった。英語ではChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と呼ばれるが、Kai-shek は「介石」の広東語での発音に由来する。欧米のメディアからは大元帥を意味するGeneralissimoとも呼ばれていた。1887年10月31日、清国の浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩商人の蒋肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、蔣介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は蔣が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ。1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蔣介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。中正紀念堂(蒋介石記念館)による「蒋公大事年表」はこの渡日を「公(蒋介石)参加革命運動之始」としている。また、日本のノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に蔣介石が武力革命の実践者となることに大きな影響を与えたとする。同年冬に帰国し、改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に留学した。2年間の教育課程を修めた後、蒋介石は日本の陸軍士官学校には入学せず、1910年より日本陸軍に勤務し、新潟県高田市(現在の上越市)の第13師団高田連隊の野戦砲兵隊の隊付将校として実習を受けた。このときに経験した日本軍の兵営生活について蒋介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならないと後に述懐したという。1910年には蒋介石の人生に大きな影響を与えた二つの出来事があった。一つは3月に長男の蒋経国が誕生したことである。そしてもう一つは孫文との出会いである。6月、アメリカに渡っていた孫文は日本に移り、東京に入った。清国政府の要求で日本政府は孫文を2週間の猶予を与えて国外処分としたが、このとき蒋介石は東京に赴き、陳其美の門弟の立場で孫文との対面を果たしている。この対面で蒋介石は、自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したいと孫文に表明したという。この対面当時での孫文の蒋介石に対する印象は、「まちがいなく革命の実行者にはなるだろう」というもので、「革命の指導者」としての資質があるなどとは考えていなかった。1911年10月、辛亥革命が勃発すると蒋介石は帰国して革命に参加する。10月30日に上海に着いた蒋は、その後陳其美と行動を共にする。陳は蒋に信頼を寄せており、杭州方面の革命軍である第五団の団長に任じた。蒋介石は杭州制圧のために軍勢を率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男に宛てて遺書を書き残している。11月4日から攻略戦を開始し、翌日には杭州を陥落せしめ、浙江省の独立を宣言した。杭州攻略戦が開始された11月4日、上海では陳其美が蜂起に成功し、陳は上海都督に就任した。そして蒋に軍事顧問の役割を与えた。蒋は陳の厚い信頼を得て、陳と義兄弟の契りを結ぶに至った。11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、蒋介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の蒋介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている。1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥の袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の蒋介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から12月まで日本に赴き、東京で言論活動を行った。中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌を出版していたが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。蒋介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題である、と説いていたのである。中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蒋介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蒋介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蒋が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についてしまったため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蒋介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蒋介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となってしまった。1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた。蒋介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蒋は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蒋介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日に第一次世界大戦が起きると、蒋介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蒋介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は4つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように蒋介石へ連絡してきた。蒋は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。蒋介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。蒋は酒もタバコも嗜まないストイックな人物とされるが、この時期の蒋は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の蒋経国は渓口鎮の実家におり、蒋経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に蒋介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、蒋緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。蒋介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成」の言葉を何度も口ずさんだという。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「蒋介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の蒋介石に対する見方が変わっていったとする。陳其美が暗殺された1916年から、孫文に呼び出される1918年までの蒋介石の動向は、公式記録上では詳細ではない。しかし、この頃は上海にいて、陳其美が残したルートから青幇と交流を持ち、また証券取引所に出入りするなど、革命資金の調達に奔走していたとされる。陳其美の死後まもない1916年6月6日、袁世凱が病没。北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生し、各地で軍閥が割拠した。北京政府の実権を掌握したのは安徽派軍閥で国務総理(首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法を破棄し、旧国会の回復に反対した。孫文は雲南・広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州に入り、1917年9月、広東軍政府を樹立して大元帥に就任した。かくして北京政府と広東軍政府の南北対立、いわゆる護法戦争が始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯や陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蒋介石を自分の膝下に招いたのである。1918年3月2日、孫文からの電報を受け取った蒋介石は広東へと向かった。孫文は蒋を広東軍総参謀部作戦科主任に任命した。蒋は広東軍第一軍総司令の陳炯明と行動を共にし、孫文の軍事力を支えることとなった。その後、広東軍の一部部隊を率いて出陣し、北京政府軍と交戦した。5月、孫文は唐継堯や陸栄廷との対立に敗れ、上海に引退することになったが、上海への途上で孫文は蒋と面会した。このとき蒋は交戦中であったが、蒋が部下と共に前線で戦い、率先して野砲を撃ち、照準を合わせたところへ的確に命中させていくのを見て、孫文は蒋介石の軍事的才能を評価した。蒋介石は孫文が失脚したことを受けて7月に一度職を辞したが、陳炯明の度重なる招請によって、9月には復職した。参謀部勤務は1919年7月まで続いた。この間1918年9月から11月までは前線で北京政府軍との戦いを直接指揮したが、蒋介石の指揮や統率は広東軍にも北京政府軍にも注目された。ただし、「有能な参謀。作戦立案に優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人」としての評価を得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった。なお、1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、蒋介石もその党員になっている。蒋介石は陳炯明の下で働き、将兵への教育を施した。しかし、孫文の思想を兵に語ろうとする蒋とそれを許さない陳との間で齟齬が生まれ、蒋は陳に不信感を抱くようになった。結局、蒋は陳の下を去り、上海に戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方、証券取引所で資金の調達に勤しむ生活へと戻ったのである。1920年、上海に在った孫文は陳炯明に命じて権力奪還を図った。9月、陳炯明率いる広東軍は広州へ進攻した。しかし、雲南派、広西派の軍隊に苦戦し、予定よりも広州制圧が遅れてしまった。そこで蒋介石が陳炯明の下に派遣された。蒋介石はすぐさま作戦を練り上げ、自ら陣頭指揮に当たった。10月26日、広東軍は広州を制圧。孫文は11月に広州へ帰還し、第二次広東軍政府を樹立して再び大元帥に就任した。蒋介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略を独断で決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊を軍事的に牽制するようになると、陳への不信感が増大し、ついには上海に去って孫文に陳に対する不信感を訴えると共に、実家の奉化県渓口鎮に戻ってしまった。この時期、胡漢民に書き送った手紙には、広東軍政府の政争に嫌気が差し、人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦りが綴られている。再び広東軍政府大元帥の地位に就いた孫文は北伐を目指すようになった。孫文は蒋介石に広東に来るように要請したが、蒋介石は断った。1921年1月、陳炯明は、孫文の意向に従い、全国統一を目指して進出していくので蒋介石に中央軍の司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を蒋に送った。これを受け取った蒋は広東に赴き、孫文と面会して全国統一の方針を確認した。そして陳炯明らと作戦計画を討議したが、結局、陳には自己の基盤を固める意思しかないこと、他の幕僚が陳への対抗意識しかもっていないことがわかると、蒋介石は失望して再び渓口鎮に戻った。また、蒋介石の理解者である胡漢民も広東を去った。蒋介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文は蒋介石の諫言を受け入れなかった。1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は中華民国非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や蒋介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、蒋介石は動かなかった。6月14日、敬愛する母・王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、蒋介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。蒋介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく蒋介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。母の本葬から間もなく蒋介石は三番目の夫人を迎える。上海の実業家の娘、陳潔如である。上海で蒋介石と暮らしていた姚治誠とは慰謝料を払って離縁となった。12月5日に結婚式を挙げた蒋介石は、その後は孫文に忠実に従い、その北伐計画に積極的に携わるようになる。1922年に入ると孫文はますます北伐断行に逸るようになった。前年11月には桂林に大本営が設置されており、蒋介石も大本営に入るように要請を受けていた。1月18日、蒋介石は結婚まもない陳潔如を連れ、孫文と共に桂林に入った。すぐさま大本営で作戦会議が開かれ、蒋は湖北攻撃を主張した。これに対して胡漢民や許崇智、李烈鈞などは江西を攻めるように主張し、論戦となった。蒋は強引に自説を押し通そうとした。結果、まず湖北を攻め、次に江西に進撃する妥協策が成立した。しかし、孫文が2月3日に出した北伐軍動員令では、李烈鈞が江西を、許崇智が湖南を攻めることになった。だが、この北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。蒋介石は改めて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに蒋介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に蒋介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡してしまった。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した蒋介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻ってしまった。孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた蒋介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、60数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。蒋介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで蒋は孫文の厚い信頼を得ることに成功した。だが戦況は不利で、蒋介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と蒋はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。蒋介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった。こういった生活は1923年3月まで続いた。広東政府を乗っ取った陳炯明は、北伐軍を率いていた許崇智など孫文傘下の軍に追い詰められていった。孫文は蒋介石を東路討賊軍参謀長に任命し、福建に派遣して軍を監理させようとした。しかし蒋は福建の司令部で許崇智と衝突してしまい、またもや上海へ帰ってしまった。このとき孫文は蒋介石の必ず他人と衝突する性格を案じる手紙を送り、蒋介石に役割を果たすように説いた。そこで蒋は再び福建に戻った。しかし、すでに雲南・広西の討賊軍が陳炯明を追い詰めいており、蒋が大きな役割を果たすことは少なかった。結局、陳炯明は敗れて恵州に退き、12月15日に討賊軍が広州に入城。1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立した。新政府において、蒋介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。参謀長に就任した蒋介石は、陳炯明の残党や直隷派の呉佩孚との戦いを指揮した。これらの戦いは、広東政府の財政難によって軍備の拡充が進んでいないこともあり、苦しいものであった。しかし蒋の軍事的能力は、孫文だけでなく後に蒋と対立することになる汪兆銘や胡漢民らにも高く評価された。陳炯明によって政権を追われていた孫文は、1923年1月、ソビエト連邦の代表として中国を訪問していたアドリフ・ヨッフェと上海で会談し、「孫文=ヨッフェ宣言」を発表した。これは、中国における共産主義の可能性を排除しながらもソ連と提携し、連ソ・容共に基づく中国国民党と中国共産党の「合作」(国共合作)を正式に宣言するものであった。その後、第三次広東軍政府を組織した孫文は、ソ連との更なる連携を求めて同年8月、ソ連に「孫逸仙博士代表団」を送った。中国に社会主義的思潮が勃興した1919年以降、ロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』などを読んでいた蒋介石は孫文の連ソ方針に賛同しており、「赤い将軍」「中国のトロツキー」とまで呼ばれており、この代表団の一員としてソ連に渡ってソ連赤軍の軍制を視察することになった。モスクワではレフ・トロツキーから赤軍の組織原理を学び、ソ連の軍隊における軍事と思想教育の分離に関心を持ったという。このソ連訪問は蒋介石にとって軍事面や政党の組織作りといった面では大いに参考となるものであったが、一方ではソ連への不信感を抱かせるものであった。11月25日のコミンテルンの席上、蒋が国民党を代表して行った演説に対して公然と批判された。この演説で蒋は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである。これに衝撃を受けた蒋はソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国していった。蒋が帰国したとき、国民党の改組が進んでおり、中国共産党員が国民党の中央執行委員に加わっていたり、コミンテルンの代表であるミハイル・ボロディンが国民党の最高顧問となっていたりしていた。これに怒った蒋はまたもや渓口鎮に引きこもってしまった。汪兆銘や廖仲愷、そして孫文からは広東に戻って視察報告をせよと何度も督促されたが、蒋は結局1923年の年末から翌年の正月にかけて故郷で過ごした。1924年1月、広州において中国国民党第1回全国代表大会(党大会)が開催された。この党大会では国民政府の樹立が目標とされるとともに、その手段として「連ソ・容共・扶助工農」が改めて打ち出され、ソ連共産党の組織原理に基づいて、組織の改組が正式に実行された。党内には委員会制と民主集中制が導入され、中央執行委員会が最高意思決定機関として設置された。孫文が国民党総理として、存命中は自動的に中央執行委員会の長となることが保障されたが、その他の委員は選挙で選ばれることになった。この第1期党中央執行委員会には国共合作によって共産党員も選出されており、後に中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国主席となり、蒋介石の終生のライバルとなる毛沢東も共産党籍を持ったまま国民党中央執行委員候補に選ばれている。一方、蒋介石は党大会に出席したものの、中央執行委員には選出されなかった。しかし、この党大会で国民党による政治指導を受けた革命軍すなわち国民党の党軍の組織と、その将校の教育機関である軍官学校の設立が決議され、蒋介石が軍官学校設立準備委員会委員長および陸軍軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。蒋介石はさっそく軍官学校の設立準備に取り掛かったが、設立資金の不足と党内事情に対する不満から二週間ほどで辞表を出し、廖仲愷に軍官学校の設立事業を託してまたもや上海に戻ってしまった。孫文もさすがに怒ったが再三にわたり蒋に復帰を要請し、蒋も結局これを受け入れた。この繰り返される辞職騒動は、蒋介石の「人的関係についての異常な鋭敏さ、事物に対する極端な好悪」、「すべてが軍隊のように、きちんとしていなければ承知できなかった」性格が大きく影響しているものとみられる。紆余曲折はあったものの、かくして1924年5月3日、蒋介石は広州に設立された黄埔軍官学校の校長に就任し、6月10日に入学式を迎えた。蒋介石は新入生に対して三民主義に命をかける幹部の養成、軍の規律を説く講話を行った。黄埔軍官学校では、組織や訓練面ではソ連式が採用されたが、日常的な軍隊生活の規律は蒋介石の東京振武学校や新潟での日本陸軍第13師団での体験が基礎となっていた。また、清朝末期の改革派大官で蒋介石が尊敬する曽国藩が説いた儒学的人生訓・処世訓も教育に反映されていた。蒋介石は将校の教育に熱心に取り組む一方で兵士の養成にも力を注いだ。特に自分の出身地である浙江省を中心に兵士を募集していった。黄埔軍官学校で学んだ将校や兵士たちは後の北伐軍、中華民国軍の中核をなしていく。科挙時代の中国では自分が合格した試験の監督を生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があったが、黄埔軍官学校の卒業生もまた校長である蒋介石を特別な存在として仰いだ。彼らとの師弟関係は、この後蒋介石にとって大きな政治的資源となっていくのである。黄埔軍官学校はソ連の支援の下につくられたため、共産党員も教官となった。後に西安事件で監禁された蒋介石を説得して第二次国共合作を成立させ、中華人民共和国の建国後に国務院総理(首相)となった周恩来が政治部副主任(後、主任に昇格)に、中華人民共和国元帥となった葉剣英が教授部副主任に任命された。黄埔軍官学校、正式名称を中国国民党陸軍軍官学校というこの士官学校では、国民党総理の孫文が唱える三民主義と同時にマルクス主義も教えられていたのである。この頃国民党内部では、共産党との合作を第一義に考える左派と共産党との対立姿勢を隠さない右派に分かれて対立が生じ始めていた。左派の代表格は汪兆銘であったが、右派の領袖として蒋介石が擬せられるようになっていった。黄埔軍官学校の校長として蒋介石は共産党員の教官とともに軍人の養成に当たらねばならない立場にあったが、黄埔軍官学校内部でも国民党と共産党の対立が芽生えていく。1924年8月から10月にかけて商団事件が勃発した。これは孫文の広東政府が「赤化」したとして危機感を覚えたイギリスなどが、広東にあるイギリス系銀行の代表者である陳廉伯に働きかけ、商人団に武装させて広東政府の転覆を図ったものである。陳炯明の残党と手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文は蒋介石に鎮圧を命じた。蒋介石は黄埔軍官学校の学生を中核とする国民党軍を直接率いて事件を鎮圧した。商団事件の最中の9月、北京では第二次奉直戦争が発生し、これを契機と捉えた孫文は「北伐宣言」を発した。ところが、商団事件により出陣準備に手間取っていたため、第二次奉直戦争は収束してしまった。しかし、北京政府の実権を握った馮玉祥や張作霖から善後策を協議したいとの招請を受け、孫文は北上することになった。孫文はこの時、商人団の反乱など広東でのクーデターを危惧する側近に対し、「大丈夫だ。広東には腹心の蒋介石がいるから」と語ったという。11月12日に広東を船で出発した孫文は、北京への途上黄埔軍官学校を訪れ、蒋介石と面会した。孫文は蒋介石が短期間に黄埔軍官学校を充実させ、軍の育成が進んでいることを高く評価した。その上で今回の北上では広東に戻れないことを覚悟しているとも語った。蒋介石が「何故そのように弱気になっているのですか」と訝り尋ねると、孫文は「私の説いた三民主義は、この学校の学生たちに実行してもらいたい。私は死に場所を得ればそれでいい。黄埔軍官学校の教育を見て、彼らにこそ私の命を継いでもらいたいと思った」と語ったという。孫文はこの後、香港・上海へと渡り、日本を経由して北京に入った。このときが蒋介石と孫文の今生の別れとなってしまった。1925年に入ると、陳炯明軍が勢力を挽回して軍事行動を活発化させるようになり、蒋介石はこれに対峙することになった。2月、陳炯明軍が広東に侵攻すると、蒋介石は国民党軍に出動命令を出し、北路・中路・南路の三軍に分かれて陳炯明軍の本拠地である東江に攻撃を開始した。いわゆる第一次東征である。東征軍は陳炯明軍を撃破していったが、なかでも黄埔軍官学校の出身者が中核を占める南路軍の活躍は目覚しく、黄埔軍官学校総教官の何応欽率いる第一教導団、教授部主任の王柏齢率いる第二教導団は、陳炯明軍を追い詰めていった。3月7日には広東省の大部分を制圧することに成功、陳炯明は香港へ逃亡した。この第一次東征で黄埔軍官学校の学生部隊が活躍したことに感銘した蒋介石は、北京に滞在している孫文の体調悪化を知らせてきた胡漢民に対して、学生たちの精神力を評価し、自己の教育の成果に喜ぶ内容の電報を送っている。しかし、その喜びも束の間、1925年3月12日、孫文は北京において病没した。蒋介石が孫文死去の知らせを受け取ったのは3月21日、軍を率いて駐屯していた広東省興寧においてであった。蒋介石はすぐさま学生部隊を招集し、涙ながらに「三民主義による中国統一という孫大元帥の遺志を達成するのが我々に課せられた使命である」と訓示した。孫文は生前の1924年4月に「国民政府建国大綱」を発表し、三民主義と五権憲法(国家権力を立法・行政・司法・監察・人事の五権に分立)に基づく中華民国の建設を軍政・訓政・憲政の三段階に分けて遂行する方針を示していた。これに基づき、1925年7月、国民党は孫文亡き後の軍政府を解体し、国民党中央執行委員会が指導する中華民国国民政府(政権所在地から「広州国民政府」と呼ばれる)を成立させた。国民政府は16人の委員からなる合議制で、政府主席兼軍事委員会主席には辛亥革命以前からの孫文の同志で国民党左派の領袖の汪兆銘が就任し、同じく孫文の側近であった胡漢民が外交部長、廖仲愷が財政部長の要職を占め、集団指導体制をとることになった。蒋介石は国民政府軍事委員会の委員に選出されたが、国民政府の最高指導部である常務委員会に列するほどの地位にはなかった。同年8月、黄埔軍官学校の出身者を基盤とする国民党軍は拡大・再編され、国民革命軍が編制された。編制当初、国民革命軍は五つの軍団で構成され、蒋介石は第一軍司令官に任命された。8月20日、容共左派の重鎮で孫文の有力後継者とも目されていた廖仲愷が暗殺された。国民党は事件の糾明のため、汪兆銘、許崇智、そして蒋介石を構成員とする調査委員会を組織した。刺客は逮捕されており、事件の糾明は容易であった。事件の背景として国民党の左傾化を嫌う勢力による左派勢力の粛清計画が浮かび上がったが、問題はその計画に胡漢民の従兄が関わっていたことであった。胡漢民自身がその計画に関与していたかどうかは不明だが、反共右派の代表者である胡には首謀者の嫌疑がかけられ、その政治的立場は極めて危ういものとなった。蒋介石は、長年の同志であった胡漢民を拘束したうえで、胡にソ連への出国を勧めた。かくして胡漢民はソ連へと去り、失脚した。この事件の余波はさらに続く。蒋介石は、軍事部長兼広東省長の許崇智に対して事件の責任をとるように要求、許は失脚を余儀なくされた。左派の重鎮である廖仲愷は命を落とし、右派の代表である胡漢民、兵権を握る許崇智が政治の表舞台から姿を消した結果、蒋介石は台頭していく。10月、蒋介石は第二次東征を行って陳炯明の本拠地である恵州を陥落せしめ、広東省内に残る陳炯明軍の勢力を一掃し、広東の軍事的統一を実現した。この結果、軍事的功績を挙げた蒋介石の発言力は強まり、国民党・国民政府内に確固たる地位を確保することになった。この時期、国民党・国民政府内では左派と右派の政治闘争が続いていたが、連ソ容共に積極的な汪兆銘と、軍事的功績を挙げ右派の領袖として台頭してきた蒋介石が二大巨頭として存在し、これをボロディンらソ連の顧問団が支えるという体制となった。翌1926年1月、第2回党大会が開かれ、黄埔軍官学校での教育で左派にも人脈を広げていた蒋介石は、国民政府主席の汪兆銘に次ぐ得票数で党中央執行委員会常務委員に選出され、党内序列2位となった。2月1日には国民革命軍総監に就任した。国民党内で確固たる地位を築きつつあった蒋介石は、孫文の遺志を継ぐべく早期に北伐を開始したいと考えていた。しかしながら、ソ連の軍事顧問団は時期尚早として反対した。さらにソ連は広東国民政府だけでなく北京政府の馮玉祥への援助も並行して行っていた。また、中国共産党も労働者や農民政策の実施の不充分を理由に北伐は時期尚早だと反対した。蒋介石はソ連の援助の必要性を痛感しており、ソ連との提携を排除したわけではなく(後の北伐も軍事顧問の一人ヴァシーリー・ブリュヘルが担当する)、ソ連や中国共産党の動きをみて、蒋介石は不信感を募らせていった。ことに国共合作による中国共産党の勢力拡大は蒋介石にとって看過できるものではなかった。このような状況下で、1926年3月、中山艦事件が発生した。事件の概要は、共産党員が艦長を務める国民革命軍の砲艦「中山」が、軍総監の蒋介石の許可なく広州から軍官学校のある黄埔へ航行したため、蒋介石は「中山」の艦長を逮捕し、広州市内に戒厳令を布告して、ソ連の軍事顧問団の公邸や共産党が指導する広州の省港ストライキ委員会を包囲し、労働者糾察隊の武器を没収したというのものである。事件の真相は不明だが、蒋介石はこの事件を利用して共産党やソ連の軍事顧問団を牽制した。党内の支持基盤が弱くソ連の代表団や共産党に支えられて政権を維持してきた汪兆銘は、自己の権力基盤が揺らいだことに動揺し、3月21日、病気療養を名目にフランスに出国して事実上失脚となった。かくして蒋介石は国民党の権力を掌握することに成功したのである。国民党・国民政府における主導権を掌握した蒋介石は、さらに最高権力者としての地位を固めていく。4月16日、中国国民党中央執行委員・国民政府委員連席会議において、蒋介石は国民政府軍事委員会主席に選出された。5月に開催された第2期中国国民党中央執行委員会第2回全体会議(第2期2中全会)では、蒋は党中央組織部長に就任した。蒋はこの会議で「党務整理案」を通過させ、中国共産党員を中国国民党の訓令に絶対服従させることとし、国民党中央部長職から共産党員を排除した。さらに7月6日の臨時党大会において、蒋介石は中国国民党の最高職である党中央執行委員会常務委員会主席に就任した。党と軍の最高職を得た蒋介石は、孫文の後継者としての地位を確実なものとしたのである。革命拠点である広東から北伐革命軍を組織して北上し、その過程で地方割拠の軍閥勢力を駆逐しながら最終的には北京政府を打倒して中国を統一し、南京に国民党政権を樹立する。これが孫文の追い求めた夢であった。孫文の後継者を自負する蒋介石は、孫文の遺志を果たすべく北伐に乗り出す。北京政府直隷派の呉佩孚が湖南省に進出を図ると、1926年5月、蒋介石は北伐先遣隊を湖南省に派遣し、呉佩孚と対峙していた省長代理の唐生智を支援した。唐生智軍と連携した北伐先遣隊は湖南省に橋頭堡を確保した。唐生智は国民政府に帰順し、その軍は国民革命軍に編入された。6月5日、蒋介石は国民革命軍総司令に就任する。そして7月1日、北伐宣言および国民革命軍動員令を発した。北伐に参加する国民革命軍は全8軍25師団で編制され、総兵力は約10万であった。国民革命軍の中核は黄埔軍官学校出身の将校・兵士であったが、黄埔軍官学校での教育で精鋭部隊を拡充するのは短期間では限界があり、蒋介石直系の第一軍以外の軍団は、政治工作によって国民政府に帰順した雲南や広西の李宗仁(第七軍)、湖南の唐生智(第八軍)などの西南軍閥諸軍を吸収・改編したものであった。国民革命軍は北伐開始にあたり、非国民党系の部隊を多く抱かざるを得ず、蒋介石は総司令として各軍の統率に手腕が問われることになる。7月9日、北伐誓師の儀式を挙行し、北伐敢行を誓った。このとき蒋介石は居並ぶ将兵に対し、「今や北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している。国民革命の精神を集中し、総理の遺志を完成せんときである」「我が将士よ!諸君は同徳同心、恥辱を忘れてはならぬ。辛苦を厭うな、死を惜しむな、生を偸むな、壮烈なる死は偸生よりもはるかに光栄である。この国家と人民を守るのは実に我が将士である」、と演説し鼓舞した。かくして蒋介石率いる国民革命軍は北伐に出陣した。国民革命軍は湖南の呉佩孚、江西の孫伝芳の軍勢を各個撃破し、破竹の勢いを見せた。湖南・湖北戦線では、北伐軍は7月11日に湖南省の省都長沙を支配下に置き、8月には湖南省全域を制圧した。さらに湖北省に進出し、辛亥革命記念日である10月10日には革命の勃発地である武漢を占領した。これにより湖南・湖北における呉佩孚の勢力は壊滅し、呉は河南に退いた。かくして湖南・湖北の地は国民革命軍の支配するところとなった。続く主戦地となった江西では、蒋介石自ら作戦指揮を執った。蒋介石は、総司令としての威信と精鋭部隊を養成してきた自負にかけて、この戦いに敗れるわけにはいかなかった。省都南昌の攻防戦では孫伝芳軍に苦戦を強いられ、1万人以上の死傷者を出したものの、蒋介石直系の第一軍と李宗仁率いる第七軍の奮戦により11月7日には南昌を占領、江西省から孫伝芳の勢力は一掃され、かの地もまた国民革命軍の支配に置かれた。蒋介石は南昌に総司令部を置き、さらに攻勢に出る。12月には福建省も国民革命軍の支配下に入った。北方では馮玉祥が国民革命軍への帰順を表明し、11月下旬には陝西省を支配下に置いた。北伐軍の快進撃は、国民革命軍を「我が軍」と呼ぶ民衆の支持なくしてはあり得なかった。一つの地域が解放されると、農民・労働者・学生たちが沿道で国民党の党旗である「青天白日旗」を打ち振った。蒋介石は南昌に総司令部を構えると「各省人民に決起を促す」という声明を発表し、北伐軍への支持と協力を訴えたが、国民革命軍の支配下に入った湖南・湖北では、広東で養成されていた農民運動家を中心に農民協会が結成され、農民の武装化を進め、北伐の側面支援だけでなく、地主・土豪との激しい対立を繰り広げるようになった。農民協会の会員は国民革命軍の北上に呼応する形で激増し、1926年末には湖南省だけで約160万人に増加した。これは国民革命軍にとって大きな援軍となった。他方、上海など都市部の自治運動も国民党の政治工作により反軍閥色を強めていき、北伐軍を支援した。国民革命軍の快進撃によって蒋介石の威信は高まるばかりであった。武漢占領を受けて広州の国民党中央は国民政府と党中央の武漢移転を決定し、1927年1月1日、国民政府は武漢に遷都した(武漢国民政府)。国民党右派の要人は蒋介石とともに北伐に参加し、南昌の総司令部に滞在していたため、武漢国民政府の要職の多くは左派勢力で占められた。蒋介石の権勢拡大に危機感を覚えた左派の陳友仁(国民政府外交部長)、徐謙(国民政府司法部長)、孫科(孫文の長男で国民政府交通部長)らは、ボロディンと結び、蒋介石から権力を剥奪しようとする。武漢遷都直前の前年12月、先んじて武漢に入った彼らは、国民党中央と国民政府の臨時連席会議を組織して今後この会議が最高職権を行使することを宣言した。そして、1月3日、臨時連席会議は3月に国民党第2期3中全会を武漢で開催することを決議した。この3中全会の決議で蒋介石の権限を縛ろうというのが左派の計画であった。さらに左派は領袖の汪兆銘をフランスから呼び戻して権力を強化しようとする。汪を国民政府主席に復職させて蒋介石を牽制しようというのである。蒋介石は南昌の総司令部で軍事作戦を指揮し、武漢の国民政府に合流しようとはしなかった。蒋からすれば武漢国民政府は共産党に乗っ取られた政権に見えたのである。蒋介石は党の規約にない武漢の臨時連席会議の正統性は認められないとし、南昌に留まっていた党中央執行委員たちと党中央政治会議を招集、党中央と政府は暫時南昌に留め置くこと、第2期3中全会は南昌で開催することを決定した。中国国民党中央委員会執行委員会主席・国民政府軍事委員会主席・国民革命軍総司令である蒋介石が総司令部を構える南昌には、国民政府主席代理の譚延闓、国民党中央執行委員会常務委員会主席代理の張静江がいて、南昌の党中央政治会議は組織的正統性を有していた。しかし、武漢側の工作により南昌の党中央執行委員の多くは武漢に赴いたため、南昌側の正統性は揺らぎ、武漢側が優位となった。北伐の軍事作戦中ということもあり、武漢側との決裂を避けたい蒋介石は、武漢訪問や汪兆銘の復職に賛同するなど妥協を図った。しかしながら蒋介石は軍権を握っており、江西や広東など共産党・左派の影響が強い地方の党部を自派へ転換していくなど、左派との対決に備えていった。結局第2期3中全会は3月に武漢で開催され、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止と国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立などが決議された。これにより蒋介石の権限は掣肘を加えられることになった。さらに3中全会では党・政府の要職に国民党左派や共産党員が就くことが決議され、労工部長や農政部長など、労働問題や土地問題といった共産党が重視する問題を扱う閣僚には共産党員が就任することになった。共産党員の閣僚就任はこれが初めてのことであった。そして、汪兆銘の国民政府主席復職と、党中央執行委員会常務委員会の首席委員・党中央組織部長就任も決定された。こうしたなか、北伐軍は3月22日に上海、24日に南京に入城した。4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥・李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。蒋介石は国民革命軍を4つの集団軍に再編し、北伐を再開した。北伐軍は1928年6月8日、北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京に到達すると蒋介石は孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。そして12月には満州軍閥・張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約し、中国の再統一は成った。蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は浙江財閥の宋嘉樹(宋耀如、チャーリー宋)の娘・宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。蒋介石は以前にも宋慶齢に求婚したが即座に断られている。中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあった。1931年に日本の関東軍による満州事変が勃発し、蒋介石は国共内戦があったために建国された満州国を黙認した。蒋介石はそのまま積極的に抵抗せず、国共内戦を優先した。日本の外交官の広田弘毅や有田八郎、川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが蒋介石はこれを受け入れず、日中の防共協定は破綻になった。1936年12月、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蒋介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蒋介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳誠・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蒋介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蒋張会談の際も蒋は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。しかし西安事件以前から、蒋介石の日記には柳条湖事件を機に中国侵略の動きを強める旧日本軍への激しい怒りが記述されており、ここで本心を公言すれば、中国が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、日本の対中強硬派の本格的な中国侵略の開始を早める結果を招くのは明らかであるため、一般の中国人や張学良にも教えられていなかった。1937年に起きた盧溝橋事件で7月8日、蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。ただち軍政部長・何応欽上将に、部隊の編成に着手し、全面抗戦の準備を整えよと下令するとともに、第26路軍総指揮官・孫連仲将軍に、中央軍二個師を率い北上し、京漢線上の保定または石家荘に集結するように命じた。同時にまた、各軍事機関に総動員を準備させ、戦時体制に入ることを命じ、次のような緊急措置を採った。(1)戦闘序列の編成は、第一線百個師、予備軍約八十個師とする。七月末までに秘密に大本営及び各級司令部を組織すること。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した(当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了)。7月11日、日本側は中国軍北上の情報を知り、「五相会議」を挙行して、関東軍一個旅団と朝鮮駐留の第二十師団、及び航空隊十八個中隊を直ちに華北に派遣することを決定した。蒋介石は、7月13日、宋哲元に電報した。「盧案必不能和平的解決・・・中央決宣戦・・・萬勿単独進行」。いまや盧溝橋事件の和平的解決はあり得ない。政府は対日宣戦を決定した。決して単独行動をとってくれるな・・・との趣旨であり、日本側との和平妥協を禁止する指示である。蒋介石は廬山において「最後の関頭」演説を行い、現地軍の和平交渉を牽引した。7月19日に現地軍で結ばれたが、停戦に積極的な宋哲元を説得するため、熊斌参謀次長を北京に派遣した。その後突如前線の中国軍兵士が暴走し日本軍へ戦闘を起こし、廊坊事件(7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が国民党軍から銃撃を受けたとされる事件)と広安門事件(7月26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が北平城内外の日本軍に放火を浴びせたとされる事件)で衝突が起きた。7月29日には蒋介石が談話を発表し、日本軍に対し徹底抗戦をする意思を示した。蒋介石の時局声明は、改めて時局解決のための四条件(①中国の主権と領土は侵害させない②河北やチャハルの行政組織への不法な変更は許さない――など)にふれ、日本が侵略をやめ四条件をのむなら、交渉に応じる用意があることをほのめかし、逆に日本が軍事行動をここで中止しなければ勝算はなくとも日本に抗戦する決意を表明したものだった。しかし南京政府内部では、事態の拡大を望まず、できる限り早い停戦を求める声が優勢であった。しかし妻の宋美齢を経由して親中派として知られた大統領フランクリン・ルーズベルトをはじめとするアメリカ政府上層部に働き掛けた結果、5月1日にアメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートを中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして雇い、「アメリカ合衆国義勇軍」という名目でアメリカからの軍事支援を受けることに成功した。第二次上海事変で蒋介石は日本租界を総攻撃したことで全面戦争に突入し、日本軍の侵攻についても「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例え、当初は国共内戦での勝利を優先していた。しかし、西安事件により第二次国共合作を強いられ、ドイツ流に精鋭化された国民党軍が戦った、上海の四行倉庫での攻防戦は、租界を持つ欧米諸国につぶさに目撃されたが、各国の対日経済制裁を引き出すまでには至らなかった。蒋介石の精鋭部隊は全滅し、上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日にトラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず、蒋介石は即座に受理しなかった。蒋介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった。国民政府は11月20日に重慶に遷都を宣言し、首都南京からの撤退に蒋介石が反対し、固守方針を定めた。その後、トラウトマン大使は蒋介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蒋介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や華北の特殊化や日本軍の駐屯などの厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した。その後、近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本と蒋介石政府との関係は1940年の桐工作まで最悪の状態になった。台湾の研究者李君山は、このような列強の日本に対する実力制裁を期待する政略のために膨大な中国軍将兵が犠牲となったとして蒋介石を批判している戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったポルトガル領マカオが事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。首都の南京が陥落したため内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、やイギリス領ビルマ、タイ王国などから陸路と空路で細々と得ることしか出来なくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する「援蒋ルート(仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した)。1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋ごろから日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により、アメリカからの軍事支援を受けて増強されたはずの中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国進出は更に進み、最終的には中国大陸全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。一方、自身と決別して日本と和平を望んだ汪兆銘が調印した「目華新関係調整要項」は中国本土を傀儡化させるあまりにも過酷な条件だった。高宗武と陶希聖も和平条件の過酷さを批判し、「要項」の写しを持って香港に脱出した。1940年1月21日、香港の各新聞は一斉にトップ記事で密約の内容を報道した。高宗武らが各新聞社あてに「調整要項の過酷さは、二十一力条要求(1915年)に二倍し、中国を属国にしようとするものだ」と手紙を出して、調整要項のコピーを暴露したのである。これに対し、蒋介石は『敵の軍閥と汪が結んだ中日新関係調整要項の密約を読んで、怒り心頭に発した。国にたいする汪の反逆の万悪が、ついにここまで達したとは、痛苦に耐えない』と述べている。1940年、日本の参謀本部は汪政権と蒋政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性を様々なルートを通じて探っていた。桐工作では条件を緩和させ、蒋介石、板垣征四郎、汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。会談において論議の中心となったのは、満州国の承認問題、華北の駐兵問題、汪兆銘政権の処置問題の三点であったが、いずれも合意に至らなかった。1940年で中国本土の植民地化・傀儡化は免れたものの華北への日本軍の防共駐屯は蒋介石が断固として反対し、交渉中に成立した第2次近衛内閣で陸相に就任した東條英機も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。その後日本は仏印進駐によりアメリカによる対日石油輸出禁止となり、日本は経済制裁を受けることになる。戦争が長期化し、日米関係も悪化していた1941年9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蒋介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。中国から無条件で撤退に猛反対した東條英機は中国本土に無賠償、非併合を声明しており、最終的に経済制裁を解除のために中国本土に防共駐屯を25年とすることで話がまとまった。アメリカ国務長官ハル、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の胡適大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルも、もし中国が崩壊すればイギリスも危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した。11月26日にハルは暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを最後通牒と解し、対米開戦に傾く。1941年12月に日本がイギリスやア
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