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初期キリスト教美術

初期キリスト教美術とは、キリスト教初期段階の美術を指す。ローマ帝国勢力圏内で発生し、604年、教皇グレゴリウス1世の死まで続いた。古代ローマ末期の文化を母体として、政治的・宗教的状況の変化のはざまで、東方・西方世界それぞれに発展して行った。キリスト教独自の図像は、のちに神学体系の発展にともない、徐々に確立して行った。キリスト教は、おそらくユダヤ人の少数派としてローマに入り、 母国パレスティナと経済的、文化的関係を保っていた。聖パオロが61年にローマを訪れた時、すでに組織化されたキリスト教共同体があった。初期のキリスト教追随者は、貧民階層や奴隷たち、そして特にローマの中産階級であり、次第に裕福な上流階級の一族も改宗するようになり、しばしば邸宅を秘密集会の場として提供した。ギリシア語で集会を意味するエクレシアから、教会の先駆けとなるドムス・エクレシエ(集会場)が生まれた。このような集会場としての遺跡は非常に少ないが、それも313年、コンスタンティヌスによるミラノ勅令で信仰の自由が認められたのを機に、この上にバシリカが建設されたためである。キリストによって説かれた肉体の復活についての信仰から、のちにカタコンベと呼ばれる地下室に死体を埋葬するようになる。地下室の使用は、迫害から逃れるためではなく、すでに存在した異教やユダヤ教の地下室を利用したもので、ローマのラティーナ通りには4世紀後半のものが残る。3世紀のローマではすでにキリスト教信仰が確立しており、非合法ではあったが、7人の助祭がそれぞれ城壁外にカタコンベを持つ7つに分かれた地域を管轄していた。建築についてはミラノ勅令が分岐点となる。ミラノ勅令以前にはドムス エクレシエ(秘密集会の場として使われた個人邸宅)とカタコンベがあり、その後に教会堂建築であるバシリカがつくられるようになる。初期キリスト教建築は、それ以外の初期キリスト教の芸術と同じように、新たに生み出されたものはなく、すでにあったものを利用するか、新たな宗教のシンボルとして流用した。カタコンベもキリスト教独自のものではなく、迫害から身を守るために建設されたのでもない。実際に、異教やユダヤ教のカタコンベが既に存在し、キリスト教徒が埋葬のために使ったのも、イエス キリストの説いた肉体の復活のために土葬を行う場所が必要だったためである。最初のバシリカは、ローマ、聖地エルサレム、コンスタンティノポリスに建設された。まずはじめにモデルとされたのが公共バシリカで、横長の五廊式、桁組屋根(トラス)がかけられ、身廊の奥にこれと直交する廊(翼廊の先駆け)が設置され、ここは司教や司祭が使ったので聖堂内陣聖職者席と呼ばれる。しばしば後陣には司教の座がおかれ、祭壇は異教から想を得た。後陣の半クーポラの開口部にはアーチ構造があり、凱旋門型アーチと呼ばれた。(独立した記念建造物である凱旋門と混同してはいけない。)初期キリスト教教会は平らな壁と、内部を照らす大きな窓、もしくはクリアストーリー(身廊の一番高い位置に開けられた窓)を特徴とする。(のちに大きなステンドグラスをつくる技術が失われ、窓は極端に縮小していった。)4世紀からは、特に使徒や殉教者に捧げられた集中式建築が普及し始め、さらにコンスタンティノポリスの聖使徒教会やミラノのサン ロレンツォ教会のように、皇族の礼拝堂がつくられるようになった。ローマでは、コンスタンティヌスによって最初のバシリカが建設された後(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノとバチカンのサン・ピエトロ)、ローマの司教(教皇)がその重要性が増してきたことを証するように、新たなバシリカの建設を指示するようになる。(サン・パオロ・ フォーリ・ レ ・ムーラ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サンタ・サビーナ)相次ぐ再建と改変により、手つかずで残っている初期キリスト教バシリカの例はわずかで、今日見られる外観は修復をうけたものが多い。なかでも重要な意味合いを持つものは、既に触れたローマのサンタ サビーナ、トリーアのコンスタンティヌスのバシリカ、サンタポリナーレ・ イン ・クラッセのようなラヴェンナのバシリカである。キリスト教初期段階の絵画やモザイクも、異教やその他の宗教と結びついた既存の芸術を、意味の読み替えを行うことで取り入れている。象徴的な意味合いを持つものとして、古典芸術において墳墓に用いられた晩餐図がある。これを最後の晩餐、すなわち新たな宗教での基本的な儀式である聖体拝領の表現として用いている。異教とキリスト教の表現において、同時期に似た要素が見られるのは、当時の芸術家は、異教とキリスト教の区別をすること無く両方からの注文を受け、その場合に応じて制作していたとも考えられる。絵画様式はリアリズムから始まり、より象徴的な簡易な形態に移行し、古典後期の地方的、庶民的な美術となっていく。313年の迫害の終焉を持って、絵画は同時代の異教絵画のようにより豪華になっていく。偶像否定、すなわち出エジプト記にもとづく、神を表現することの禁止は3世紀まで続いたため、神を連想させる象徴を用いなければならなかった。太陽、ヒツジ、キリストの受難のシンボル、それからギリシア語で“イエス キリスト 神の子 救世主(Iesus Christos Theou Yos Soter)”の頭文字をとったICHTHYSが魚を意味することから、キリストの象徴として魚が用いられた。その他の図像としては、物語描写ではなく、キリスト教的観念を示唆するものがある。キリストの博愛を象徴する“よき羊飼い”や、英知の象徴としての“オランス(両手を広げて祈る人)”などがある。これらの表現も既に存在していた図像を変化させたものである。羊飼いは牧羊生活の描写、もしくは春の寓意、哲学者キリストはエピクテトスの肖像に由来する。すべてのテーマが、ユダヤの伝統を反映した旧約聖書と結びついており、3世紀のキリスト教絵画とユダヤ教絵画は、シリアのドゥラ・エウロポスのシナゴーグ内のフレスコ画の象徴性と形式的スタイルに見られるように、共通点を持っている。徐々に現実描写への関心が失われて、形態の平面化、正面観が優勢となり、説話的意味合いが失われ、象徴的表現が画一化されていく。芸術家たちは精神世界を描くために形態の調和や現実感を排除した。3世紀までキリストは、よき羊飼いや、羊など象徴でのみ表された。イエス・キリスト表現の禁止は、キリストが人間と神の両性を持つことを正式に認めたニカイア公会議の後に緩み、人間となった神のみ言葉(=イエス キリスト)を人の姿で表現することが可能となった。キリストの生涯における重要な事蹟の表現は、そのメッセージを伝える上で重要となったが、それだけではない。キリストの賛美は、テッサロニキ勅令の後、キリスト教信仰を持った皇帝を間接的に祝福している。帝国と教会の関係はますます緊密になり、特に5世紀からは、キリスト教徒であるということが、未開の野蛮な世界に対する文明社会の砦であるかのように考えられた。初期にはイエスはひげなしで表現された。これはカタコンベ内のフレスコ画や、ローマのサンタ・コスタンツァ教会のモザイクに見られる。続いて現れる、ひげを生やしたキリストは、シリアのキュニコス派哲学者の伝統に由来する。さらに、ローマ帝政期の図像を用い、キリストと皇帝を同一視した、帝王としてのキリストが描かれるようになった。カタコンベに絵画表現が現れた頃、まだキリスト教彫刻は存在しなかった。これはキリスト教に改宗した裕福な階層の人々のための石棺(サルコファガス)装飾としてゆっくりと発展し、古典時代後期の異教の葬礼シンボルをテーマとして取り入れた。4世紀の初期キリスト教徒の石棺はそのほとんどがローマの工房でつくられたものである。この時期の新たな芸術中心地として、コンスタンティノポリス、ミラノ、ラヴェンナなどがある。

出典:wikipedia

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