于 珍(う ちん、1888年(光緒14年) - 1959年)は、中華民国の軍人。字は済川。北京政府、奉天派に属した。最終階級は中将。日本の陸軍士官学校歩兵科を卒業する。1914年(民国3年)、奉天陸軍補習所学堂監督、洮遼鎮守使署副官をつとめた。1916年(民国5年)春、奉天軍署参謀兼全省警務処視察長となる。1918年(民国7年)1月21日、陸軍第29師参謀長に任命され、1919年(民国8年)1月1日、陸軍歩兵上校となった。この他、黒竜江督軍公署参謀長、東省特別区警察総管理処副処長も歴任している。奉天派が入関すると、于珍は奉軍駐津司令部参謀処長、奉軍第2補充旅旅長、北京参戦事務処副官を歴任した。1922年(民国11年)、第1次奉直戦争で奉天派が敗北すると、奉天全省警備隊統領となる。さらに奉天保甲局総弁、奉天省警務処会弁もつとめた。翌年10月、奉天警務処処長も兼ねている。1925年(民国14年)冬からは、鎮威軍第8軍副軍長、第3方面軍後方留守総司令、東北陸軍第10師師長を歴任した。翌1926年(民国15年)3月には、張学良・韓麟春が率いる第3・第4方面軍団第10軍軍長兼第8師師長をつとめた。同年8月21日、珍威将軍位と陸軍中将位を授かり、翌月には京畿警衛司令に就任した。1927年(民国16年)2月、安国軍第10軍軍長として、河南省に出兵し、河南保衛軍総司令靳雲鶚を撃破した。しかし、続く武漢国民政府の北伐軍との戦いでは全軍覆滅の敗北を喫し、5月、軍長を罷免された。9月、京綏検閲使に任じられている。北京政府崩壊後、于珍も東北へ引き返し、1928年(民国17年)10月、東北辺防公署参議に任じられた。易幟後の翌年も、引き続き東北辺防軍司令長官公署参議をつとめている。1931年(民国20年)9月、満州事変が勃発すると于は抗日活動に従事した。この頃、土肥原賢二らから日本への協力を打診されたが拒否している。1937年(民国26年)7月に盧溝橋事件が勃発すると、于は引退して北平に隠居した。終戦後の1946年(民国35年)、蒋介石の国民政府により、軍事委員会委員長東北行営中将参議に起用されている。1949年10月の中華人民共和国成立後、于珍は中国人民政治協商会議(政協)遼寧省委員会委員、同常任委員を歴任している。1956年には、特邀委員(特別招待委員)として政協全国委員会第2期会議に参加した。1959年秋、北京市内にて脳溢血のため死去。享年72。
出典:wikipedia
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