和知氏(わちし)は日本の氏族。和地氏とも。和地氏も藤原北家秀郷流結城氏族であり、和知氏と同族である。和地姓の家紋としては丸に蔦柏などがある。白河結城氏の重臣を経て、佐竹氏の家臣となる。和知氏の事績については、『證古文書』に永正15年(1518年)、和知新兵衛が増見の福正寺に邑主の和知駿河守一慶の位牌が安置されたとの記録がある。また『新編国志』によれば、棟札に「和知主膳、同筑前、佐竹の臣なれどもとは白河家人である」と『白河関物語』に伝えている。いずれの時期に佐竹家臣に転じたか定かでないが、嘉吉の乱で幕府軍の五陣として派遣された一党として京都扶持衆の山入氏の武将佐竹義顕、石川彦三郎親元、高野出羽守とともに和知豊後入道の名も見え、早い時期から随身したか、協力関係にあったと考えられる。佐竹氏の陸奥国南郷支配に活躍した武将としても和知氏一門の名が見え、南郷の“う井”なる地に50貫を給された人物として和知雅楽助の名が見える。和知氏は白河結城家の庶流であるため、本家たる白河結城家から度々和知氏に入嗣している。結城義顕-朝綱(一時、和知姓を名乗る)-和知朝真佐竹氏の秋田転封に動向した秋田藩士の和知氏は主に5家からなる。和知相模守は本姓藤原氏。元白河結城氏の族臣、即ち一門であり家臣たる家系であり、佐竹義宣に仕官するという。その子弾正の代に秋田転封に随行し、代々平鹿郡横手に在住する。和知某秀勝の家系は本姓を藤原氏とし、周防守または右馬助の受領名を名乗った。秀勝の代に秋田転封に随行し、仙北郡角館に居住した。和知某清永の家系もまた白河族臣であり、白河結城氏没落後は流浪の末、出羽国仙北郡角館に移住し、佐竹義宣の弟蘆名義広に仕えた。清定の代に蘆名氏が断絶し、以後は佐竹北家に仕えたという。和知弾正某の家系は白河結城氏家臣であり、弾正の子長門の代に佐竹義宣に仕えるという。その子数馬の代に秋田転封に随行し、雄勝郡湯沢に居住した。知行高は30石という。和知太郎兵衛某は佐竹義宣の秋田転封に随行し、雄勝郡湯沢に居住したという。和知氏の一部は佐竹氏移封後、水戸徳川家に仕えた。文久3年(1863年)には幕末の水戸藩士和知総次郎が攘夷宿願のため、長岡勢残党として長州藩士伊藤博文とともに上洛した水戸浪士の一員として、薩摩藩邸に逃げ込んだとの記録もあり、また、慶応元年(1865年)6月18日には天狗党の乱で天狗党勢として戦った義民・和知亀之助が斬られている。国立国会図書館蔵『茨城人物評伝』『常陽人物寸観』に旧水戸藩士の和知忠順についての記述、茨城県立石岡第一高等学校に同名の人物について記述がある。水戸市の吉田神社の石碑碑文(昭和17年2月11日)に和知忠禮の名、戦前、水戸市で設立された白牙会の特別展が茨城県つくば美術館で開かれた時の記事に、和知忠恒の名、昭和39年4月2日の衆議院会議録に水戸市議会議長和知忠雄の名があり、いずれも、水戸市に関係し、忠の通字がある。 和知相模守某関連資料和知某秀勝関連資料和知某清永関連資料和知弾正某関連資料和知太郎兵衛関連資料
出典:wikipedia
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