鳥越 裕介(とりごえ ゆうすけ、1971年7月1日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手)。大分県臼杵市出身。愛称は「トリさん」「ゴエ」。現在は、福岡ソフトバンクホークス一軍内野守備走塁コーチ。臼杵高校を経て明治大学に入学。明大野球部時代は「3番・遊撃手」として活躍し、全日本メンバーにも選ばれる。リーグ通算67試合出場、248打数68安打、打率.274、8本塁打、31打点。1993年ドラフトにおいて中日ドラゴンズを逆指名、ドラフト2位で中日に入団。当初は大学全日本メンバーであり、身長189cmという大柄な体格から「大型内野手」として期待され、当時の監督の高木守道からは「長打が打てて守れる2番ショート」の方針を打ち出された。1994年の10.8決戦でも立浪和義が負傷して途中退場し代走・ショートの守備に就く。身長を生かした守備では存在感を示し、若手時代には難があったスローイングも改善。1996年からは益田大介と1・2番を組んでレギュラーとして活躍。1997年には遊撃手のポジションで守備率.997の日本記録を樹立している。11月に巨額の脱税が明らかになり在宅起訴され(プロ野球脱税事件)、翌年の1998年1月に有罪判決を受ける。1998年はプロ野球脱税事件の出場停止処分のために開幕から4週間は二軍を含めて試合に出られなかった。処分解除後も、内野ポジションには阪神から移籍してきた久慈照嘉や、当時絶好調だった李鍾範、更にロッテから移籍の南渕時高がおり、出場機会が激減する。1999年には、遊撃手の福留孝介が入団し、他のポジションにも久慈やレオ・ゴメスらが付いていたため、シーズン途中に河野亮とのトレードで福岡ダイエーホークスに移籍する。ダイエーに移籍した後はその守備が監督の王貞治から高く評価され、一軍に定着。移籍初年度である1999年の10月には、自身初の一試合2本塁打を放っている。2000年シーズン当初は、浜名千広の怪我や柳田聖人の不振により二塁手のポジションが空き、5月まで打率が3割を超えるなど打撃好調だった鳥越は二塁手の定位置を獲得したが、遊撃手のレギュラーだった井口忠仁が夏場に戦線を離脱したため、以降は本職の遊撃手のレギュラーとして出場。同年9月1日の5連敗と優勝争い脱落の危機の中、迎えたオリックス戦では逆転本塁打を放ち連敗を止めた。以降チームは9連勝し、マジックを点灯させる。また9月30日の近鉄戦ではサヨナラ安打を放つなど、優勝争いを繰り広げたチームの中で貴重な活躍を見せ、オフには球団から坊西浩嗣と共に表彰を受けた。この年の日本シリーズでは、井口が復帰したため、再び二塁手に戻ってシリーズに全試合スタメン出場したが、シーズンオフの秋季キャンプで王は、遊撃手としては守備の正確性に欠けていた井口を二塁手にコンバートさせ、2001年からは鳥越を遊撃手のレギュラーとして起用すると明言、レギュラー確約を手にする。この日本シリーズに際して、出場できなかった古巣中日に対して「拝啓、星野仙一様」(後述)とコメントした。だが2001年、オープン戦では12球団打撃ランキング4位という好成績を収めながら、シーズン開幕直後から大不振に陥り、6月からは浜名や野々垣武志らにポジションを奪われた。結果、この年一度も猛打賞がなく、シーズン通じて一度も打率を2割台に乗せることない打率.174と、低い成績で終わってしまう。2002年は、開幕レギュラーは獲得したものの、打撃不振で川崎宗則や野々垣にポジションを譲ったが、夏場から打ち出して打率を6分近く上げ、王の信頼を再び取り戻す。2003年は故障で出遅れ、5月に入っても無安打だったが、5月2日の対ロッテ戦で同年初安打をサヨナラ打で決めて、お立ち台で「あけましておめでとうございます」と発言した。その後はすぐにレギュラーに復帰した。打率.212と相変わらず打撃がネックであった。オフにはレースクイーンとして活躍した鈴木万美子(2001年業界引退)と結婚したが、夫人は2008年7月27日に乳ガンのため34歳で死去した。2004年シーズン以降、川崎が遊撃手のレギュラーを獲得し、控えに回ることが多くなったが、松中信彦や同い年で友人である種田仁の助言を受けて、種田のガニマタ風の打撃フォームに改造。体が前に突っ込む癖が改善し、得点圏打率が大幅に上昇した。しかし本人はお立ち台で「種田みたいでカッコ悪い」と語っていた。その後ホルベルト・カブレラの外野手転向に伴い、対左投手用の二塁レギュラーとなり、本間満とポジションを争った。2005年は内野の全ポジションを守った。2006年は4月に二塁守備の際、サヨナラ負けにつながるエラーを犯してしまい、それ以降守備要員の座を森本学らに明け渡すことになってしまった。7月2日の試合でファーストを守り、2006年も内野の全守備位置に就いた。オールスター出場を果たした本間の活躍や新人の本多雄一の台頭もあり、夏場までは殆どベンチスタート、そして王が病気療養となり森脇浩司が監督代行として指揮を執った8月には二軍降格となり、34試合の出場に終わったこともあって10月に引退を表明した。2007年からは福岡ソフトバンクホークス二軍内野守備・走塁コーチに就任した。オフの秋季キャンプからコーチとして活動している。2009年から2010年はソフトバンク二軍監督、2011年からはソフトバンク一軍内野守備・走塁コーチを務めている。2011年11月10日、レギュラーシーズン終了からクライマックスファイナルステージまで試合間隔の空くソフトバンクは、異例の紅白戦を行った。この紅白戦において紅組(控え主体)の三塁手として出場。一度の守備機会を無難にこなした。2012年3月4日に行われた、柴原洋の引退セレモニーでは遊撃のポジションに就いた。この日はロッテとのオープン戦だったこともあり、井口が二塁に就いた。そのため内野陣は、一塁松中、二塁井口、三塁小久保、遊撃鳥越というダイエー黄金期のメンバーで、打席に立つ柴原の最後の花道を飾った。コーチとして一軍帯同後、2015年までは一塁ベースコーチを務めていたが、2016年シーズンは大道典良と交代し、ベンチにて守備指示を行うポジションに配置転換された。すぐに周囲に溶け込むタイプであり、ダイエー移籍直後から藤井将雄とも非常に仲良くなっていた。藤井の葬儀では出棺の際、藤井の兄貴分であった工藤公康、主力の小久保裕紀、若田部健一ら生え抜き選手と一緒に棺を担いだ。同い年である田之上慶三郎、大越基、種田仁、大西崇之らと親交が深く、予定が合えば他チームの選手ともゴルフをする。チーム一のガッツマンで、引退した田口昌徳らと共にムードメーカーとしても大きく貢献した。日本プロ野球選手会ウェブページの伝言コーナーでは、後輩である井端弘和に「尊敬している先輩」と言われたり、門倉健に先輩の威厳をぶつけたりもした。1999年シーズン中に移籍したダイエーで、古巣の星野中日を下して日本一を経験する。慣れ親しんだナゴヤドームでの日本一決定直後、鳥越は一人だけ中日ベンチの方を向いてガッツポーズをし、その瞬間の写真が週刊ベースボールでの引退記念インタビューの冒頭に掲載された。翌2000年、ダイエーはV2を達成したが、祝勝会でインタビュアーの王理恵に「これ、名古屋も映りますか?」と確認したうえで「私、2年連続で優勝することができました。ありがとうございました。拝啓、星野仙一様! イェーイ!」と発言し、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などでも取り上げられた。本人は週刊ベースボールの引退記念インタビューにて、「ホークスでは『星野監督にトレードに出された』という反骨心で頑張ろうと決めていた」と語っており、星野に対する悪い印象は一切無いと語っている。
出典:wikipedia
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