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stampfactory大百科事典

凧(たこ)とは糸で牽引して揚力を起こし空中に飛揚させる玩具である。日本では正月の遊びとして知られている。木や竹などの骨組みに紙、布、ビニールなどを張って紐で反りや形を整えて作られる。紙鳶、ハタ、イカなどとも言う。半ば伝説的だが、中国で最初に凧を作った人物は、後代工匠の祭神として祭られる魯班とされている。魯班の凧は鳥形で、3日連続で上げ続けることができたという。ほぼ同時代の墨翟が紀元前4世紀に3年がかりで特別な凧を作った記録がある。魯班、墨翟のどちらの凧も軍事目的の凧だった。中国の凧は昆虫、鳥、その他の獣、そして竜や鳳凰などの伝説上の生き物などさまざまな形状を模している。現代中国の凧で最上のものは竹の骨組みに絹を張り、その上に手描きの絵や文字などがあしらわれている。日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に凧に関する記述が登場し、その頃までには伝わっていたと思われる。日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特のさまざまな和凧がある。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。凧は安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがある。尻尾は、真ん中に1本付ける場合と両端に2本付ける場合がある。尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなる。14世紀ころから交易船によって南方系の菱形凧が長崎に持ちこまれはじめ、17世紀には出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び菱形凧が盛んになった。これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が14、15世紀の大航海時代にヨーロッパに伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった。長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された。競技用の凧(ケンカ凧)には、相手の凧の糸を切るために、ガラスの粉を松ヤニなどで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木をつけたりもした。明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いた。スポーツカイトは1960年代に登場した凧である。2本、4本など複数のラインを用いて自在に操ることができる。第二次世界大戦中、アメリカ海軍では対空射撃の訓練用として2本ラインの凧が使用されたがこれがスポーツカイトの原型となった。定期的に競技会が開かれ、決められた図形を凧でなぞっていく規定競技や音楽に合わせてさまざまな技を披露するバレエなどで操縦技術を競い合う。以下のような凧がよく知られている。なお、日本ではこれら分類とは別に和紙や竹などから構成される和凧と海外から輸入され、ビニールなどさまざまな素材で構成される洋凧(カイト)に大別される。以下、日本の凧の例を画像で挙げる。凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」「いかのぼり」(紙鳶とも書く)と明治初期まで呼ばれていた。江戸時代になると「紙鳶」と書いて「いかのぼり」と読むようになった。「いかのぼり」を売る店もあり、日常的に遊ぶ娯楽になった。しかし「いかのぼり」を揚げている人同士でケンカになったり、通行の邪魔になったり、大名行列の中に落ちたりといった問題も起きていた。1650年代に「いかのぼりあげ禁止令」や「タコノボリ禁止令」などの高札が立ち、この頃から「たこ」という呼び方に変わった。凧が「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は凧が紙の尾を垂らし空に揚がる姿が、「蛸」や「烏賊」に似ているからという説がある。長崎では凧のことをハタといい、ハタ揚げ大会が開かれる。世界各国の凧では、それぞれ空を飛ぶ動物などの名前が付けられていることが多く、英語ではトビ、フランス語ではクワガタムシ、スペイン語では彗星を意味する単語で呼ばれ、日本のように水生動物の名前で呼ぶのは珍しい。日本ではかつて正月を含む冬休みには子供たちが凧揚げをする光景がよく見られ、玩具店のみならず子供たちが買い物をする頻度の高い身近にある駄菓子店や文房具店などで凧も販売されていた。特に凧揚げが盛んに行われていた1970年代には、冬休みの時期には電力会社がスポンサーの夕方のニュース番組で「凧揚げは電線のない広い場所で」「電線に引っかかったら電力会社にご連絡ください」という内容のコマーシャルがよく流されていたほどで、当時のトラブルの多さを窺わせる。凧揚げが安全にできる広い空間が少なくなったことに加え、少子化などもあり正月の凧揚げの光景も少なくなった。ただ単に人が集まり凧を挙げるだけではなく、見た目の美しさや滞空時間等を競うものもある。また、凧同士をぶつけあったり、相手の凧の糸を切ることで勝利を競う凧合戦という文化もある。日本国内では、正月のほか、5月の端午の節句の行事として子どもの成長を願って全国各地で凧揚げ大会が行われることが多い。滋賀県東近江市では面積100畳(縦13メートル、横12メートル)、重さ約700キロの大凧(おおだこ)を揚げる「八日市大凧祭」が行われている。八日市大凧(ようかいち おおだこ)は江戸時代中期から始まった。1882年には、220畳の大凧が揚げられたという記録がある。現在では、「近江八日市の大凧揚げ習俗」は国の選択無形民俗文化財に選択されている。他にも大凧を揚げる大会としては新潟市の「白根大凧合戦」、浜松市の「浜松まつり」、愛媛県内子町の「五十崎の大凧合戦」、他には相模原市、神奈川県座間市、埼玉県春日部市などの凧揚げ大会が知られている。マレーシアでは民族の象徴的な存在であり、紙幣やコインのデザインとしても採用されている。またマレーシア航空の尾翼のデザインは凧を象っている。大凧に乗って名古屋城の金鯱を盗もうとした盗賊の話が知られている。この話は江戸時代に実在した柿木金助という盗賊がモデルになっている。実際には柿木金助は名古屋城の土蔵に押し入ったに過ぎないが、1783年に上演された芝居『傾城黄金鯱』(けいせいこがねのしゃちほこ)によって金鯱泥棒として世に知られるようになった。忍術書の『甲賀隠術極秘』(芥川家文書)には、源義家による奥州合戦金沢城責めの時、服部源蔵という芥川流の小柄な人物がいて、大凧を作らせ、大風が吹いている中、乗せて、空中より火を降らして、焼き討ちにしたという記述が残されている(絵図が見られ、凧に複数の日の丸状の仕掛けから火を出す)。創作ではあるが、兵器としてのアイディアが近世からあったことがわかる。横山光輝の漫画並びにそれを原作とした特撮テレビドラマ『仮面の忍者 赤影』などでは、忍者が大凧に乗って偵察や戦闘を行う描写がみられる。世界恐慌期のドイツでは、たばこ1箱が数億マルクもする状態になり、紙幣は価値をほとんど失ってしまっていた。こうした背景から、当時の子供たちは紙幣を貼り合わせて作った凧で遊んでさえおり、写真も残されている。1752年、当時楽器の発明で有名だったベンジャミン・フランクリンは雷雨の中で凧を揚げ雷が電気であることを証明した。これは感電の危険がある。フランクリンが成功したのはまぐれと言ってもよく、当時にも追試で何人かが感電死している。送電線や配電線の近くで凧を揚げると凧がそれらに引っかかる危険がある。引っかかった場合には感電する危険性が非常に高く、凧糸からでも感電する危険性がある。管理する電力会社等に連絡して取り除いてもらう必要がある。

出典:wikipedia

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