中西 清起(なかにし きよおき、1962年4月26日 - )は、高知県宿毛市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。右投右打。現役時の背番号は19。春・夏の全国大会で活躍した高知商業高校時代から、「中西球道」(水島新司の漫画「球道くん」の主人公)にちなんで、「球道(くん)」と呼ばれている。高知商業高校では、1年夏、2・3年春、3年夏の4度にわたって甲子園に出場している。1年生時の1978年夏の選手権は、1年上のエース森浩二の控え投手として出場。決勝まで進むが、西田真二を擁するPL学園に惜敗、準優勝にとどまる。この大会では2試合に登板した。1979年春の選抜は右翼手、控え投手として出場。2回戦で牛島和彦、香川伸行らのいた浪商に惜敗、自身の登板機会はなかった。1980年春の選抜では、エース、四番打者としてチームを牽引、決勝で帝京高の伊東昭光に投げ勝ち初優勝。この大会では準々決勝で選抜通算200号にあたる大会第11号本塁打を放っている。同年夏の選手権は2回戦で箕島高に敗退。高校卒業後にリッカーへ入社すると、当時社会人野球で活動していた硬式野球部に入部。東京都代表で出場した1981年の都市対抗では、日本生命の中本茂樹、電電中国の津田恒美(協和発酵から補強)に投げ勝ち準々決勝に進出。東京ガスに敗退するが、チームメイトの内野手・黒田光弘と共に、若獅子賞を受賞した。1982年の大会では明治生命、1983年の大会では熊谷組の補強選手として出場。社会人野球の公式戦では、通算で38勝を挙げた。1983年のドラフト会議で阪神タイガースに1位指名され入団。この年までエースとして活躍した小林繁から、背番号19を引き継いだ。担当スカウトは、今成亮太の実父である今成泰章。1984年には、一軍公式戦33試合に登板。ジュニアオールスターゲームにも、ウエスタン・リーグの選抜メンバーとして出場した。一軍では救援を中心に起用されたが、1勝6敗、防御率5.35という成績で、同じ社会人出身・同期入団の池田親興(9勝6敗)ほどの活躍に至らなかった。1985年には、「バックスクリーン3連発」で知られる4月17日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(阪神甲子園球場)で、9回表無死から登板。ウォーレン・クロマティと原辰徳からの2者連続本塁打で1点差に迫られた福間納の後を受けての登板だったが、後続の打者を2者連続奪三振を含む三者凡退に抑えたことで、一軍初セーブを挙げた。この試合を機に、従来からのクローザー・山本和行との「ダブルストッパー」として活躍。山本がアキレス腱の断裂で戦線を離脱した9月以降は、1人でクローザーの重責を担った。10月16日のヤクルト戦(神宮球場)では、同点の延長10回裏に登板。チームが勝つか引き分けるかで21年振りのセントラル・リーグ優勝が決まるという状況で、ヤクルト打線を完璧に抑えると、最後の打者・角富士夫をピッチャーゴロでアウトに仕留めて「胴上げ投手」になった。結局、レギュラーシーズンでは11勝19セーブの好成績を挙げた末に、リーグ最優秀救援投手のタイトルを獲得した。1986年・1987年には一軍公式戦61試合、1988年には46試合に登板。1986年・1988年に8勝を挙げるなど、引き続きクローザーとして活躍した。1987年・1988年には、チームが低迷する状況でオールスターゲームへの出場を果たしている。1989年には、シーズンの途中から先発に転向。一軍公式戦通算で10勝5セーブを記録するとともに、先発投手として2試合で完封勝利を挙げた。1990年には、初めて一軍の開幕投手を任されると、開幕戦で完封勝利を収めた。しかし、シーズン途中に右足首の故障で戦線を離脱した影響で、通算では5勝6敗に終わった。1992年からはクローザーに復帰。1995年まで、一軍公式戦で4年連続30試合以上に登板した。3試合の登板にとどまった1996年に、球団から戦力外を通告されると共に、投手コーチへの就任を打診。阪神での最終登板になった10月9日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)では、この試合を最後に現役を引退する木戸克彦とのバッテリーで、先発投手として中日打線を14球で三者凡退に抑えた。中西はこの時点で現役続行を希望していたため、コーチへの就任要請を固辞したうえで、シーズン終了後に横浜ベイスターズと福岡ダイエーホークスの入団テストに参加。しかし、いずれのテストでも入団に至らなかったことから、現役を引退した。1997年から2003年まで、朝日放送の野球解説者・日刊スポーツの野球評論家として、阪神の地元・関西地方を拠点に活動した。現役時代の主力打者だった岡田彰布が阪神の一軍監督に就任した2004年に、一軍投手コーチとして同球団に復帰。高校の後輩・藤川球児をセットアッパーとして大成させたほか、ブルペン担当コーチとして、JFK(ウィリアムス、藤川、久保田智之)やSHE(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴)と称されるリリーフ投手陣の整備で大きな成果を残した。その実績を買われて、2009年からは、二軍投手コーチとしてファーム投手部門の強化に尽力した。ただ、この抜擢は上手くいかず、二軍コーチ時代に目をかけ熱心に指導した高卒入団投手の多くは、一軍コーチ在任中に芳しい成績を残せずにおわり、いまもなお伸び悩んでいる。球団編成部の当てを大きく外した失敗人事といえる。2013年から阪神の一軍投手コーチに復帰。チームの2014年クライマックスシリーズ初突破と日本シリーズ進出に貢献した。しかし、レギュラーシーズンのチーム防御率・失点がいずれもセントラル・リーグ5位に低迷。二軍コーチ時代から指導してきた若手投手の伸び悩みや、世代交代の遅れた救援陣刷新の不備などが顕著に表れた2015年限りで、コーチを退任した。2016年より、再び朝日放送解説者・日刊スポーツ評論家として活動している。阪神のコーチ時代にも、プロ野球オフシーズンには、在阪テレビ・ラジオ局制作の番組へたびたびゲストで出演していた。
出典:wikipedia
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