夏 恭(か きょう)は中華民国の政治家。親日地方政権である晋北自治政府の最高委員。後に蒙古聯合自治政府で副主席に就任した。1897年(光緒23年)に挙人となる。その後、中学堂教員や知県を歴任した。1937年(民国26年)9月、日本軍が山西省大同県を占領する。在野にあった夏恭は日本軍により招聘され、大同で晋北治安維持会を組織した。10月15日、親日地方政権として晋北自治政府が組織され、夏と馬永魁が最高委員に任命された。11月22日、張家口において、蒙古聯盟自治政府(主席:デムチュクドンロブ(徳王))、察南自治政府(最高委員兼会議代表:于品卿)、晋北自治政府(最高委員兼会議代表:夏恭)の代表者会議が開催された。その結果、蒙彊聯合委員会が成立し、夏は総務委員兼交通専門委員会委員となる。1938年(民国27年)10月23日から11月7日にかけて、夏恭は徳王・于品卿と共に日本を訪問し、昭和天皇に拝謁、靖国神社を参拝した。1939年(民国28年)9月、上記3政府が合流して、蒙古聯合自治政府が成立、夏は同政府の副主席に任命された。翌1940年(民国29年)1月10日に副主席を辞職、大同炭鉱株式会社理事長となっている。徐友春『民国人物大辞典 増訂版』によると、夏恭は1941年(民国30年)に死去したとされる(享年70)。しかし『朝日新聞』1943年5月8日報道によると、夏恭は満州帝国の康徳帝(愛新覚羅溥儀)から勲二位景雲章を授与されており、これに関して特に追贈との注記は無い。また、『朝日年鑑』昭和19年(1944年)版の「大東亜人名録」(636頁)でも、大同炭鉱理事長として存命人物扱いでの記載が見受けられる。以上から、夏恭は1943年時点では存命の可能性が高い。ただし、1945年8月に蒙古自治邦が崩壊した時点においては、夏恭の生死・行方は不詳である。
出典:wikipedia
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