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プロレスアワー

『プロレスアワー』は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送されたプロレス中継番組である。1968年11月から中断期を挟んで1972年9月までは海外の試合や日本テレビとNET(現:テレビ朝日)が放映権を保有していた日本プロレスとTBSが放映権を保有していた国際プロレスを除く国内各団体の試合を中継し、1974年9月23日から1981年3月28日までは国際プロレスの試合を『ファイティングアワー』→『国際プロレスアワー』のタイトルで中継していた。海外のプロレス映像(白黒)を使っての実況中継として1968年11月30日放送開始。解説は田鶴浜弘が担当した。初回放送はルー・テーズVSアントニオ・ロッカのNWA世界ヘビー級王座戦とザ・デストロイヤーの素顔時代の試合が放送された。視聴率では最高で15%を記録するなど人気番組となった。1969年からは土曜17:00枠においても初回からの再放送を開始。1970年8月には「WWWF決戦シリーズ」として、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたWWWF(現:WWE)定期戦(ブルーノ・サンマルチノ、イワン・コロフ、ペドロ・モラレスなどが出場)を、フィルムを空輸した上で、日本のテレビ局としてカラーにて初中継した。日本女子プロレス中継であった『女子プロレス中継 世界選手権シリーズ』終了後の1970年以降は女子の試合も扱うようになった。プロレスアワーとしては1971年6月に一時休止となり、その後は『びっくりスポーツ』枠での単発放送を経て、1972年4月に再開し半年間放送された。1972年3月に旗揚げした新日本プロレスの最初の中継は東京12チャンネルが放送した。『プロレスアワー』終了後に1972年9月シリーズである「ニュー・ゴールデンシリーズ」を単発放送として2回放送し、1972年10月4日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSカール・ゴッチ戦を当日の22時30分から、10月10日に大阪府立体育館で行われた猪木VSゴッチ戦を11月6日の20時からそれぞれ1時間枠で録画中継したと同時に、猪木の試合中継が単発放送ながらも1971年12月の日本プロレス除名以来10か月ぶりに復活した。その際の実況は後に『国際プロレスアワー』や『世界のプロレス』を担当した杉浦滋男、解説は後に『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の解説を担当した桜井康雄がそれぞれ務めた。当時日本プロレス中継である『NET日本プロレスリング中継』を放送していたNETは、東京12チャンネルにおける単発放送前から日本プロレス幹部並びに日本プロレス選手会長であった大木金太郎に極秘裏で、猪木と当時日本プロレス所属だった坂口征二との間で新日本のレギュラー中継に関する協議を開始しており、東京12チャンネルにおける単発放送後の新日本の試合中継は、1973年4月6日から日本プロレスの中継番組であった『NET日本プロレス中継』を打ち切って『ワールドプロレスリング』に再改題した上でレギュラー放送として開始している。これまで国際プロレス中継は、TBSで1968年1月3日から『TWWAプロレス中継』として放送してきた。当初は『日本プロレス中継』(日本テレビ)同様に生中継で放送していたが、1968年4月24日に予定していた生中継が中止なったため、同日に同年1月8日に鹿児島県体育館で行われたグレート草津VSルー・テーズを代替で録画中継して以降は録画中継メインとなった。さらに、1970年10月8日に大阪府立体育館で開催された日本初の金網デスマッチとなったラッシャー木村VSドクター・デス戦を同年10月14日に録画中継したところ、局内で放送の是非が問題視されたため、TBSは(たとえ大会のメインイベントであっても)金網デスマッチを今後放送しない方針を取り、放送カードに関する自主規制をかけることになった。しかし、プロモーターの要請で草津やストロング小林など木村以外の主力レスラーも後に金網デスマッチを行うようになり、さらには彼らの海外遠征も重なって、主力選手の試合やタイトルマッチが放送されない週が発生することになった。これらに加え、1971年に発生したニクソン・ショックも重なって、『TWWAプロレス中継』はスポンサー料減少に伴う放送時間短縮、ゴールデンタイム撤退、ネット局の減少、生中継終了、土曜午後へ移動するなど迷走を続け、TBSは小林の国際時代最後のシリーズとなった「'74パイオニア・シリーズ」を以って番組収録を取りやめ(最終収録は1974年1月28日開催の岩手県営体育館大会)、そして1974年3月30日をもって6年3か月続いた『TWWAプロレス中継』を打ち切った。当時のプロレス団体は、日本女子プロレスが東京12チャンネルにおける中継打ち切りから2年で、かつての国際プロレスのライバル団体であった日本プロレスがNETにおける『NET日本プロレスリング中継』打ち切りからわずか3週でそれぞれ崩壊した様に、テレビ中継の有無で団体の存続が左右されていた時代で、テレビのレギュラー中継とそれに伴う放映権料を初めて失った国際プロレスは、『TWWAプロレス中継』終了4日前である1974年3月26日に開幕した「'74チャレンジ・シリーズ」から全日本プロレスとの協調路線を本格化させ、同時に吉原功代表が早大レスリング部仲間である白石剛達東京12チャンネル運動部長(後のテレビ東京専務)に対して、早期のテレビ中継再開を嘆願した。吉原の東京12チャンネルに対するテレビ中継再開の願いは通り、東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』(月曜20:00 - 20:56)枠での国際プロレスの試合の単発放送を実施することを決定した。単発中継は『月曜スポーツスペシャル』枠で3回放送された(初回の1974年6月3日放送分は「'74ダイナマイト・シリーズ」第13戦後楽園ホール大会の生中継〈メインイベントはビル・ロビンソンVSラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座決定戦〉、7月1日放送分は6月25日に行われた「'74ビッグ・サマー・シリーズ」開幕戦後楽園大会の録画中継〈グレート草津&マイティ井上VSアンドレ・ザ・ジャイアント&イワン・バルコフ〉、7月29日放送分は7月5日に行われた「'74ビッグ・サマー・シリーズ」第5戦鹿児島県鹿屋市体育館大会の録画中継〈メインは木村VSザ・キラーの金網チェーン・デスマッチ〉)。単発放送初回である1974年6月3日放送は、『TWWAプロレス中継』時代の1972年6月25日放送の「'72ビッグ・サマー・シリーズ」開幕戦足立区体育館大会以来2年ぶりの国際プロレス中継の実況生中継となった。1974年9月23日から月曜20:00 - 20:56に『ファイティング・アワー』のタイトルでレギュラー放送が開始され、国際プロレスのレギュラー中継が半年ぶりに復活した。レギュラー放送初回は1974年9月15日に開幕した「'74スーパー・ワイド・シリーズ」第7戦日大講堂大会の生中継で、メインイベントは木村&草津VSスーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシクのIWA世界タッグ選手権試合。同時に国際プロレスは、この大会をもって日大講堂から撤退した。同年10月からは『国際プロレスアワー』に改題されたと同時に、放送時間が月曜20:00 - 20:55に1分短縮された。レギュラー放送再開にあたり、東京12チャンネル側は放送の条件として女子プロレスの試合も放送するように要請され、国プロは男女団体となり、女子の試合も中継された。東京12チャンネルからはもう一つの条件として最終週は『KO(ノックアウト)ボクシング』のため休止することも条件となっていた。また、放送開始にあたって東京12チャンネルは、選手別のテーマ曲導入などの新機軸を盛り込み、『TWWAプロレス中継』時代には吉原のみで行っていた解説者も、『全日本プロレス中継』(日本テレビ)や『ワールドプロレスリング』同様に外部から登用した。同時にIWA世界ヘビー級王座とIWA世界タッグ王座の両ベルトも新調した。女子の試合の解説は『女子プロレス中継 世界選手権シリーズ』の解説を担当していた小島貞二が務めたが、メインの解説を担当した門馬忠雄は東京12チャンネルから解説の依頼があった際、当初東京12チャンネルに対して「放送中にビールを飲んでもいいなら引き受ける」と返答し、当時在籍していた東京スポーツからは社の方針として「女子の試合は解説するな」と言われたという。基本的な放送形態は『TWWAプロレス中継』時代から変わらず、各シリーズから数戦をセレクトし、録画中継を行うというスタイルだったため、『全日本プロレス中継』や『ワールドプロレスリング』とは異なり、実況生中継はごく稀であった。『TWWAプロレス中継』同様に、開催順に放送されなかったり、シリーズ開幕戦や最終戦が未放送となった場合もあった他、極端な場合、前後シリーズを交互に放送したこともあった。国際プロレスは次期シリーズとの間隔が1か月から1か月半の場合が多く(特に「新春パイオニア・シリーズ」・4月シリーズ・「ビッグ・サマー・シリーズ」・年内最終シリーズをそれぞれ1月・5月・7月・11月で切り上げることが多かった)、そのため、多い時で1シリーズで7〜10大会の実況中継を行っていた他、同一大会を2〜3週に分けて放送することも多かった。また、国際プロレスのサーキットに中継スタッフも2〜4戦連続で帯同し、収録を行った場合もあった。これらにより、収録が半月から1か月間行わなかったシリーズもあった。ネット局や放送地域もほぼ全国をカバーしていた『全日本プロレス中継』や『ワールドプロレスリング』よりも少なく、関東地方以外のネット局も一部のフジテレビ系列局や、一部のTBS系列局、一部の独立局にとどまり、一方で日本テレビ系列局(一部クロスネット局除く)やテレビ朝日系列局では放送されなかった。当時の東京12チャンネルは関東地方をすべてカバーしておらず、関東地方でも視聴不可の地域があった他、愛知県体育館や大阪府立体育館が所在する愛知県と大阪府の2府県では、キー局系列局ではなく、隣接する府県に所在する独立局での放送となったために放送されず、この2府県では隣接する府県の局を受信した上で本番組を視聴するしかなかった。さらに大阪府では本番組を視聴するには一部の地域を除いて独立局受信用UHFアンテナを取り付ける必要があった(愛知県は中京テレビがUHFで開局したためアンテナの問題はなかった)。『TWWAプロレス中継』時代に興行成績で国際プロレスが日本プロレスよりも上回っていた岩手県と宮城県の2県では本番組は放送されず、同時に、岩手・宮城両県における国際プロレスの興行自体も、後発2団体(テレビ岩手とミヤギテレビで『全日本プロレス中継』を放送していた全日本プロレス、テレビ岩手とミヤギテレビ→東日本放送で『ワールドプロレスリング』を放送していた新日本プロレス)に興行成績で下回るようになっていく。兵庫県や大阪府の大部分でも、サンテレビにおける放送が1975年3月に一時打ち切られたため、サンテレビにおける本番組の放送を再開した1978年10月まで視聴できなかった。国際プロレスは、レギュラー中継再開後も資金難に加え、IWA世界ヘビー級王座が海外へ流出したためにストロング小林離脱後のエース格となりえる選手がいなかった。井上はビリー・グラハムの保持するIWA世界ヘビー級王座への挑戦権を獲得し、3度目の挑戦となった1974年10月7日の埼玉県越谷市民体育館大会(11月4日に録画中継)でビリー・グラハムを破りIWA世界ヘビー級王者となったが、1975年4月10日の「'75ダイナマイト・シリーズ」足立区体育館大会(5月12日に録画中継)でマッドドッグ・バションに敗れて王座転落。その後、バションを破りIWA世界ヘビー級王者となった木村が団体崩壊まで国際のエースを務めることになる。さらに1974年11月20日開催の「'74ワールド・チャンピオン・シリーズ」蔵前国技館大会(11月25日に録画中継、メインはバーン・ガニアVSロビンソンのAWA世界ヘビー級王座戦)では、升席に空席が目立ったため、中継をよく見せるべく2階席の観客を升席に誘導したため、升席のチケットを購入していた観客が抗議する事態となった。外国人招聘ルートもコストカットのため、1975年2月にAWAとの関係を解消し、同年3月以降は大剛鉄之助ルートなどに変更した。レギュラー放送開始から1977年の「'77新春パイオニア・シリーズ」までは、全国各地で生中継や収録を行っていた『TWWAプロレス中継』時代とは異なり、1974年12月16日・12月23日放送の「'74ワールド・チャンピオン・シリーズ」大阪府立体育館大会(11月21日開催で録画中継)以外、全て関東地方や山梨県で行われた大会のみ生中継や番組収録を行っていた。そのため、「第6回IWAワールド・シリーズ」までは関東地方以外で開催されたタイトル防衛戦の中継は、前述の大阪大会における井上VSガニアのAWA世界ヘビー級王座およびIWA両世界ヘビー級王座のダブル・タイトルマッチと木村&草津VSレイ・スティーブンス&ニック・ボックウィンクルのIWA世界タッグ王座およびAWA世界タッグ王座のダブル・タイトルマッチしか放送されなかった。また、1975年と1976年、「'77新春パイオニア・シリーズ」は、ほとんどが2〜3週に分割した分割放送で放送され、生中継や番組収録を行う会場も1シリーズにつき2〜3大会にとどまった。この東京12チャンネルによる中継方針は、国際プロレス中継の放送地域の減少と合わせ、国際プロレスのマイナー化が進む遠因ともなった。1975年10月6日に実況生中継された「'75ビッグ・ゴールデン・シリーズ」後楽園ホール大会(メインは木村VSジプシー・ジョーのIWA世界ヘビー級選手権)から、放送時間が月曜日20:00 - 20:54に更に1分短縮され、1980年9月までこの時間帯での放送が継続された。1975年12月11日に行われた「力道山十三回忌追善特別大試合」は一部試合が本番組でも90分特番で放送され、草津VSホースト・ホフマン、ドン・レオ・ジョナサンVSサムソン・クツワダ、ヒロ・マツダVS井上のNWA世界ジュニアヘビー級選手権試合、木村VSラシクの4試合が12月15日放送分で録画中継された。放送に関しては、日本テレビとジャイアント馬場が国際プロレス所属選手VS全日本プロレス参戦外国人選手というカードを提供することを吉原に提案し、吉原と東京12チャンネルもこれを受け入れて実現したが、東京12チャンネルは馬場VS国際プロレス所属選手、木村VSアブドーラ・ザ・ブッチャーなどのカード提供を要望していたという。1976年3月29日には「'76スーパー・ファイト・シリーズ」茨城県境町民体育館大会(3月13日開催で録画中継、寺西勇VS稲妻二郎のIWA世界ミッドヘビー級王座決定戦、草津&井上VSキラー・トーア・カマタ&カルロス・コロンのIWA世界タッグ選手権試合)が国際プロレス単独興行では初めて90分スペシャルで放送された他、1977年1月3日開催の「'77新春パイオニア・シリーズ」後楽園大会の生中継も90分スペシャルで放送された。女子部は1976年3月に解散したと同時に(最後の女子部の中継は1976年4月19日放送の小畑千代VS佐倉輝美とのIWWA太平洋岸選手権の録画中継〈4月12日後楽園大会の録画中継〉)、同時期からボクシング中継による休止もほぼ無くなり、東京12チャンネルが要求した放送条件は事実上形骸化した(ただし、特別番組やプロボクシング中継の放送による休止はあった)。「'76ビッグ・チャレンジ・シリーズ」では、日本テレビとの3年契約が満了を迎え、かつ前髪を金色に染めた「まだら狼」へと変身した上田馬之助が、1973年10月の全日本プロレス退団以来、約2年半ぶりに国内の団体に参戦した。解説を務めていた門馬は、日本プロレス時代に「眠狂四郎」や「トイレタイムの上田」と呼ばれたファイトスタイルから凶悪ファイトに転換したファイトスタイルに、「上田、恐るべし」との印象を受けたという。東京12チャンネルは1977年の「第6回IWAワールド・シリーズ」から中継の方針を転換。2〜3大会のみで実況生中継や番組収録を行った上で同一大会を2〜3週に分けた分割放送を行うスタイルから、複数の大会から実況生中継や番組収録を行った上で同一大会を1〜2週で放送するスタイルへ転換したと同時に、関東地方以外の地域で行われた大会でも本格的に生中継や番組収録が開始された。同年3月21日放送の愛知県豊橋市体育館大会(3月15日開催で録画中継、バションVSジョーなどを放送)は、前述の大阪大会以来、2年3か月ぶりに関東地方以外で行われた大会の実況中継となった他、同年5月6日に「1977ダイナマイト・シリーズ」静岡県浜松市体育館大会(5月16日と5月23日に録画中継)で行われた草津&アニマル浜口VSワイルド・アンガス&マスクド・インベーダー(プリティボーイ・アンソニー)のIWA世界タッグ王座戦は、前述の大阪大会以来、2年5か月ぶりに関東地方以外で行われたタイトルマッチの実況中継となった。当初は1シリーズに付き1〜2回の割合で関東地方以外で行われた大会の中継を行い、その後その割合や地域を徐々に増やしていった。関東地方以外における収録が行われる大会に関しては、東京12チャンネルは当時系列局が1局もなかったため、所在する他系列局が中継協力することもあった。1977年6月21日に開幕した「'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ」は、関東地方以外で行われた大会の中継が開始されて以降、最長の36戦で開催された。番組収録自体は、7月1日から7月3日まで行われた東京都日野市多摩健康増進センター大会・栃木県宇都宮スポーツセンター大会・栃木県烏山町民体育館大会の3日連続収録以降、7月30日開催の札幌中島スポーツセンター大会まで約4週間も間が開いてしまった他、「第6回IWAワールド・シリーズ」の処遇に不満を持ったジョーが木村が保持するIWA世界ヘビー級王座並びに草津&浜口が保持するIWA世界タッグ王座への挑戦権を要求。国際プロレスはこれを受け入れ、同年8月1日の宮城県古川市総合体育館大会から8月7日の後楽園ホール大会までの6戦を追加日程として発表し、ジョーも古川大会から特別参戦した。東京12チャンネルも、追加日程の内、同年8月4日開催の茨城県日立市池ノ川体育館大会(当日のメインは草津&浜口VSカマタ&ジョーのIWA世界タッグ王座戦)・8月5日開催の神奈川県大和市車体工業体育館大会・8月7日開催の後楽園大会(当日のメインは木村VSジョーのIWA世界ヘビー級王座戦)の3戦を追加で収録した。このシリーズでは、名物レフェリーであった阿部脩が開催中に公示された参議院選挙全国区に出馬して落選。阿部はその責任を取って札幌大会をもって退団し、古川大会以降のメインレフェリーは前溝隆男が務めた他、田中忠治も体調不良を理由にシリーズ終了と同時に引退した。国際の選手が出場した全日本プロレスとの交流戦も『全日本プロレス中継』と並行して放送されたが、国際プロレスや東京12チャンネルにとっては、営業面のメリットなどの恩恵を受けることはなかった。1976年3月28日に蔵前国技館で行われた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」第2戦の木村VSジャンボ鶴田は日本テレビが放映権を持っていたため『全日本プロレス中継』で放送され、本番組で放送されたのは4月5日放送の寺西VSクツワダと草津&井上VSグレート小鹿&大熊元司(極道コンビ)のIWA世界タッグ王座およびアジアタッグ王座のダブル・タイトルマッチのみで、1977年に開催された「全日本・国際全軍対抗戦」における本番組での放送においても、国際主催で11月30日に行われた静岡駿府会館大会(井上&浜口VSクツワダ&高千穂明久のアジアタッグ王座戦)のみ12月5日に放送された(当日は原進のプロレス転向記者会見も放送された)。人気が低迷していた国際プロレスと、最末期の『NETワールドプロレスリング』(日本プロレス版)同様に視聴率が低迷していた番組は「'78ビッグ・チャレンジ・シリーズ」以降、積極的な巻き返し策に出る。「'78ビッグ・チャレンジ・シリーズ」後楽園ホール大会当日である1978年2月26日には、ボディビル「元ミスター日本」の遠藤光男が特別レフェリーとして入団(大会自体は3月13日に録画中継)。前年に入団した原の特集が番組内で放送されるようになり、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」では、1978年6月29日に大阪府立体育館にて行われた原のデビュー戦である寺西戦を同年7月17日に録画中継した他、7月18日には『TWWAプロレス中継』最終収録地となった岩手県営体育館大会(当日のメインは草津&浜口VSアレックス・スミルノフ&ミスター・ヒトのIWA世界タッグ王座戦)を収録し、7月24日に録画中継した。シリーズ終了直後の同年8月7日と8月14日には、唯一の国際の海外遠征中継として、韓国ソウル遠征が録画中継され(7月28日開催<奨忠体育館大会>は8月7日に、大木金太郎VS稲妻のインターナショナル・ヘビー級選手権試合と木村VS梁承揮のIWA世界ヘビー級選手権試合が行われた8月2日開催<ソウル文化体育館大会>は8月14日にそれぞれ録画中継された)、大木VS稲妻はノーカットで放送された他、奨忠体育館の館内紹介も放送された。「'78ダイナマイト・シリーズ」では、オックス・ベーカーが「'71ダイナマイト・シリーズ」以来7年ぶりに、9月12日の埼玉県深谷市民体育館大会(9月18日と9月25日に録画中継)から国際プロレスに特別参戦し、木村と後述の「デスマッチ3番勝負」を行い、1978年11月には最後の全日本との対抗戦シリーズである「日本リーグ争覇戦」を開催したが、都内の大会場における国際プロレス主催興行の中継は、1978年11月27日放送の「日本リーグ争覇戦」蔵前大会の録画中継(11月25日開催、木村VSキム・ドクと井上VS鶴田を放送)をもって打ち切られたと同時に、国際プロレスは蔵前国技館から撤退した。以降の東京23区内でのビッグマッチは後楽園ホールのみで行われることになった。「'79新春パイオニア・シリーズ」では、救世主として阿修羅・原が本格デビューし、『TWWAプロレス中継』時代の最終シリーズとなった「'74パイオニア・シリーズ」以来5年ぶりに九州サーキットからシリーズを開始したが、同時に他団体との交流も新日本プロレスとの交流にシフトすると同時に、大会場の中継も「'79新春パイオニア・シリーズ」前半に九州サーキットで行われた番組収録(1979年1月6日の九電記念体育館大会〈1月8日に録画中継〉、同年1月8日の大分県立荷揚町体育館大会〈1月15日に録画中継、当日のメインは草津&浜口VSスミルノフ&ジ・アトミックのIWA世界タッグ王座戦〉)以降、道府県庁所在地や政令指定都市のみとなった。新日本主催興行における国際所属選手出場試合も『ワールドプロレスリング』と並行して放送されたが、1979年2月23日に行われた千葉公園体育館大会における星野勘太郎&山本小鉄(ヤマハ・ブラザーズ)VS井上&浜口のIWA世界タッグ王座戦は2月26日に録画中継された。1月29日は浜松市体育館で行われたベツリオ・ゴンザレスVS大熊正二のWBC世界フライ級王座戦の実況生中継のため休止となった。この時期から本番組は特別番組の他にも、東京12チャンネルが放映権を獲得した大熊正二のWBC世界フライ級王座戦の実況中継(後述)による休止も発生することになる。1979年4月に『全日本プロレス中継』が土曜20時台から土曜17:30 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18:24へ移動したのに伴い、ゴールデンタイムで放送されるプロレス中継は本番組と『ワールドプロレスリング』の2番組となった。東京12チャンネル開局15周年記念大会として開催された「'79ビッグ・チャレンジ・シリーズ」では、外国人選手ではジョーやキラー・ブルックスが開幕戦から参戦した他、ビリー・グラハムが4月16日の岩手県営体育館大会(テレビ未収録)から4月22日の石川県加賀市ユニー加賀店屋上特設リング大会(テレビ未収録)まで特別参戦した他、WWU世界ジュニアヘビー級王者であるミレ・ツルノが5月5日の埼玉県大宮スケートセンター大会(テレビ未収録)から特別参戦した。また、ビリー・グラハムのシングルマッチを4月18日開催の長野県鼎町民体育館大会から4月21日開催の富山県高岡市民体育館大会までの4日連続で収録し、かつ鼎大会・4月20日開催の富山市体育館大会・高岡大会を4月23日から5月7日までの3週連続で放送し、4月19日開催の長野市民体育館大会を6月18日に録画中継した。このシリーズでは上田が久々に国際に参戦し、マサ斎藤も上田のパートナーとして参戦した。1979年は、前述のビリー・グラハムの特別参戦の他にも、後述のアンドレ、ヘイスタック・カルホーン、テーズ、ボックウィンクル、ガニアの特別参戦に合わせて4日連続で実況生中継や番組収録を行っていた日程もあった。全25戦で行われた「'79ビッグ・サマー・シリーズ」では、東京12チャンネルが放映権料などの予算を通常よりも増額し、前半にベーカーが行ったデスマッチの4週連続放送(後述)を、後半には北海道中川町における木村の凱旋興行を行い(中川町立中川中学校体育館で7月17日に開催し、7月23日に録画中継)、アンドレとカルホーンが中川大会から特別参戦し、ダイナマイト・キッドが初登場(7月19日開催の北海道木古内町公民館大会〈7月30日と9月3日に録画中継〉から参戦)したが、シリーズ前半が東京サミットと重なったため、ザ・モンゴリアンズのマネージャーとして来日したパーシー・プリングル3世が厳戒態勢が敷かれていた成田空港で不審人物として入国審査に引っかかり、成田入国管理事務所から身分照会を受けた国際プロレスが、成田入国管理事務所に6月21日開催の開幕戦水戸市民体育館大会(6月25日に録画中継)から6月29日開催の第7戦宮崎県都城市体育館大会(テレビ未収録)までの日程並びに宿泊先を提出させられる一幕もあった。さらにキッド初来日直後の同年8月に、新日本プロレスのカルガリー遠征で行われた藤波辰巳VSキッドのWWFジュニアヘビー級王座戦が同年10月17日に『ワールドプロレスリング』の90分特番で放送され、キッドの人気が高まったこともあり、ネット局数や放送地域数、放送形態で国際と新日本の人気の差が露呈されたばかりか、国際の外国人選手招聘ルートの一つだったカルガリールートを失った。「'79ダイナマイト・シリーズ」では、1979年9月13日開催の愛知県体育館大会(9月17日に録画中継、メインは井上&浜口VSケリー・ツインズ〈パット・ケリー&マイク・ケリー〉のIWA世界タッグ王座戦)と翌9月14日開催の池袋スケートセンター大会(9月24日に録画中継)の2日連続収録を行ったが、本シリーズ以降は、国際プロレスや番組の状況がますます悪化。1979年10月からは、打開策として番組改編期に放送内容をタイトルマッチのみとした特番や放送時間を30分拡大した90分スペシャルを生中継で放送することとなり、初回放送として、1979年10月5日に後楽園ホールで行われた3大タイトルマッチ(ネルソン・ロイヤルVS原のNWA世界ジュニアヘビー級王座戦、井上&浜口VS大木&上田のIWA世界タッグ王座戦、木村VSボックウィンクルのAWA・IWA両世界ヘビー級王座戦)を、裏番組である『ワールドプロレスリング』(1979年10月2日の大阪府立体育館大会の録画中継〈アントニオ猪木VSタイガー・ジェット・シンと藤波VS剛竜馬のWWFジュニアヘビー級王座戦〉)にぶつける形で実況生中継した(10月1日は代替で休止)。このケースは、放送する団体が異なるプロレス中継が同一日・同一時刻に2番組が放送されるという初のケースとなった。レギュラー枠においても、「'79ダイナマイト・シリーズ」では、10月1日の福島県双葉町大会(テレビ未収録)からテーズ共々特別参戦したボックウィンクルの試合を、10月3日開催の青森県黒石市スポーツセンター大会からシリーズ最終戦である10月6日開催の静岡県沼津市体育館大会まで4日連続で生中継や番組収録を行い、10月5日(前述の実況生中継)から10月22日(後述のルー・テーズ特集)まで4週連続で放送した他、1979年10月8日には木村のIWA世界ヘビー級選手権防衛戦2本立て(9月29日に横浜文化体育館大会で行われた上田戦と黒石大会で行われたジョー・ルダック戦)を、同年10月22日にはルー・テーズ特集をそれぞれ放送した。同年11月1日に開幕した「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」では、最初の放送が11月5日放送の第4戦後楽園ホール大会(11月4日開催で録画中継)からとなった他、11月12日の新潟県小出町小出郷体育館大会(テレビ未収録)から11月16日の和歌山県立体育館大会(12月17日に録画中継)まで特別参戦したガニアのシングルマッチを、11月13日の新潟県三条市厚生福祉会館大会から和歌山大会まで4日連続で収録しかつ11月19日から12月17日まで4週連続で放送した。「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」和歌山大会は、大阪府立体育館以外における近畿地方で行われた国際プロレスの興行では初の実況中継となった。1979年以降は、東京23区内や大都市における興行に関しても変化が生じ、宮城県スポーツセンターにおける興行は1979年7月9日開催の「'79ビッグ・サマー・シリーズ」(実況生中継)が最後となった。1979年9月28日に行われた「'79ダイナマイト・シリーズ」川崎市体育館大会(メインは原VSマーク・ロコのWWU世界ジュニアヘビー級王座戦)ではテレビ中継から外され、川崎市体育館における興行はこの興行が最後となった。後楽園ホール以外の東京23区内の会場における興行も前述の「'79ダイナマイト・シリーズ」池袋大会が最後となり、「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」以降における東京23区内の興行は後楽園ホールのみで行われることになった。また、広島市では「'79スーパー・ファイト・シリーズ」以降、福岡市では「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」以降、それぞれ興行自体が行われなくなった。尚、1979年は大阪府立体育館と札幌中島スポーツセンターでの興行は行われなかった。同時に国際プロレスは、人気低下やそれに伴う資金難から政令指定都市や県庁所在地の大会場を押さえるのが困難な状況となっていき、後述のように興行自体のキャンセルが相次ぐようになる。「'78ビッグ・サマー・シリーズ」以降は参加予定外国人選手の直前での来日中止やシリーズ中での途中帰国が相次ぎ、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」では来日が予定されていたランディ・ダルトンが不参加となり、ランディのパートナーだったジム・ダルトンは1978年6月24日の長野県飯山市大会(テレビ未収録)をもって4戦で帰国した。「'78ダイナマイト・シリーズ」では、リップ・タイラーが同年9月18日の宮崎県体育館大会(テレビ未収録)までの6戦で、キース・ハートも同年9月29日の秋田県仁賀保町大会(テレビ未収録)をもって10戦を残してそれぞれ途中帰国した。「'79ダイナマイト・シリーズ」および「'80ビッグ・チャレンジ・シリーズ」にはボビー・イートンの来日が予定されていたが2シリーズとも不参加となり、「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」ではクラッシャー・ブラックウェルが来日中止となった。「'80新春パイオニア・シリーズ」では、再来日が予定されていたキッドが開幕直前になって新日本へ移籍した。その後も「'80スーパー・ファイト・シリーズ」ではゴージャス・ジョージ・ジュニア、「'80ビッグ・チャレンジ・シリーズ」ではブルックス、「'80ビッグ・サマー・シリーズ」ではタンク・パットンとブロンド・ボンバーズ(ラリー・ラザン&ウェイン・ファリス)、「'80ダイナマイト・シリーズ」(第1次・第2次)ではモンゴリアン・ストンパーとエドワード・カーペンティアがそれぞれ不参加となった。代役の外国人選手は、「'80スーパー・ファイト・シリーズ」ではジョージ・ジュニアの代役としてトム・スタントン、「'80ビッグ・チャレンジ・シリーズ」ではブルックスの代役としてマイク・ジョージ、イートンの代役としてダン・ジョンストン、「'80ビッグ・サマー・シリーズ」ではパットンの代役としてランディ・タイラー、ファリスの代役としてロッキー・ブリューワー、ラザンの代役として7月5日の第6戦島根県木次町民体育館大会(テレビ未収録)からジェイク・ロバーツ、「'80ダイナマイト・シリーズ」(第1次・第2次)ではストンパーの代役としてロン・バスがそれぞれ参戦したが、ランディ・ダルトン、ブラックウェル、キッドの代役は招聘されなかった。1980年に入っても状況悪化の傾向は変わらず、キラー・カール・クラップが国際に初参戦し、外国人エース格(副将格はジョー)を務めた「'80新春パイオニア・シリーズ」では、1月7日放送の後楽園ホール大会(1月5日開催)の録画中継当日の新聞のラテ欄には寺西VSキッドも掲載されていたが、前述の通りキッドは新日本に移籍したため、後楽園大会の寺西の対戦相手はデビル紫に変更されるなど(寺西VS紫はテレビ未収録)、本シリーズ全体のカード変更を余儀なくされた他、岡山武道館においても新日本に興行戦争を仕掛けられた(国際は1月16日開催でメインは原VSジョーの金網デスマッチ、新日本は1月25日開催で当日キッドはWWFジュニアヘビー級王座挑戦者決定戦においてスキップ・ヤングと対戦。いずれの興行もテレビ中継が行われ、国際は5日後の1月21日に録画中継、新日本は同日に実況生中継された)。同年2月には、国際の新たな救世主としてインターナショナル・ヘビー級王者の大木が東京12チャンネルとの契約で国際に入団した上で、大木をほぼ毎週テレビ中継に登場させるなどして立て直しを図るが、同時に大木入団の経緯を巡って、国際と東京12チャンネルとの関係が悪化。「'80スーパー・ファイト・シリーズ」では、国際としては初の沖縄サーキットを行い(沖縄サーキット自体はテレビ未収録)、ディック・ザ・ブルーザーが「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」以来、同年3月15日の越谷大会(3月17日に録画中継。この試合は大木の国際プロレス入団初戦で、当日ブルーザーはストンパーと組んで木村&大木と対戦)から国際に特別参戦した一方で、九州で行われた試合の収録は、越谷大会の録画中継の前週である同年3月10日放送の鹿児島県体育館大会の録画中継(3月8日開催、メインは木村VSストンパーのIWA世界ヘビー級王座戦)をもって打ち切られた。1980年3月31日には後楽園ホールで4大タイトルマッチ(木村VSジョニー・パワーズのIWA世界ヘビー級王座戦、ボックウィンクルVS大木のAWA世界ヘビー級王座戦、浜口&井上VS木村健吾&永源遥のIWA世界タッグ王座戦、原VS剛のWWU世界ジュニアヘビー級王座戦)を90分特番で生中継したが、メインイベントの木村VSパワーズ戦は途中で放送が終了してしまう(他の3試合は放送尺内で放送することができた)。1980年4月3日に行われた新日本蔵前大会における藤波VS原のWWFジュニアヘビー級王座戦も4月14日放送分でそれぞれ録画中継されたが、原はこの藤波戦以降スランプに陥ったため、以降のレギュラー中継にはまったく登場しなくなった。なお、藤波VS原は『ワールドプロレスリング』で4月11日に先行して録画中継された。大木が本格参戦した「'80ビッグ・チャレンジ・シリーズ」では、1980年4月13日開催の後楽園ホール大会(4月14日・4月21日に録画中継)、4月26日開催の茨城県土浦スポーツセンター大会(4月28日に録画中継)、4月28日開催の岩手県大船渡市体育館大会(5月5日・5月12日に録画中継)、4月30日開催の青森県弘前市民体育館大会(5月19日に録画中継)、5月10日開催の青森県八戸市体育館大会(5月26日に録画中継)、5月11日開催の岩手県二戸市体育館大会(6月2日に録画中継)、5月15日開催の大宮スケートセンター大会(6月9日・6月23日に録画中継、メインは大木VSルダックのインターナショナル・ヘビー級王座戦〈日本プロレス「'73アイアンクロー・シリーズ」以来、7年1か月ぶりの日本での防衛戦〉)の7大会を収録したが、分割放送を実施した後楽園大会・大船渡大会・大宮大会の3大会において、大木の試合を1週目に放送したり、青森県内で行われた番組収録で木村のIWA世界ヘビー級王座戦(弘前大会はルダック戦、八戸大会はジョージ戦)を開催するなどしてカードや視聴率の両面で立て直しを図ろうとしたが、分割放送自体はシリーズ第22戦大宮大会が最後となったと同時に、草津登場試合の放送も、6月23日放送の木村とのコンビで対戦したジョージ&キューバン・アサシン戦が最後となった。全21戦で行われた「'80ビッグ・サマー・シリーズ」では、国際や番組自体がさらなる悪循環に陥ってしまう。シリーズ自体も前年より4戦削減され、当初参戦が発表されていた外国人選手5人の内、実際に参戦したのはジョーとスパイク・ヒューバーの2人だけで、残る3人は前述のとおり参戦キャンセルとなったため、タイラーとブリューワーが開幕戦から、ジェイク・ロバーツが7月5日開催の木次大会からそれぞれ3人の代役で参戦することになった。1980年6月30日放送の開幕戦福島県大越町民体育館大会の録画中継(6月28日開催)以降はレギュラー放送終了まで各大会とも1週のみでの放送となった。大越大会の録画中継当日の新聞のラテ欄にはニュー・ブロンド・ボンバーズ(ラザン&ブリューワー)も掲載されていたが、前述の通りラザンが来日中止となったため、大越大会自体のカードが変更された。翌6月29日開催の第2戦後楽園ホール大会(7月7日に録画中継)では、小林と永源が同年6月19日に開幕した新日本プロレス「'80サマー・ファイト・シリーズ」の北海道サーキットの2戦を欠場し、井上&寺西との間で行われたIWA世界タッグ王座決定戦に勝利してベルトを奪取し、IWA世界タッグ王座は2度目の新日本への流出となった。1980年7月13日から15日まで行われた兵庫県八鹿町体育館(メインは木村VSタイラーのIWA世界ヘビー級王座戦)・京都正武館・静岡県富士市民体育館(メインは小林&永源VS井上&浜口のIWA世界タッグ王座戦)の3日連続収録の直前の7月9日の第10戦熊本市体育館大会(テレビ未収録)にて草津が負傷したために、八鹿大会以降におけるマッチメイクがさらに苦慮する事になってしまう。尚、新日本との交流戦の中継は富士大会を以って打ち切られた。シリーズ中盤から後半にかけては日程の一部変更も行われ、7月12日に予定されていた兵庫県氷上町公民館体育館大会が中止となった他、7月18日に予定されていた青森県営体育館大会も中止となり、青森大会の代替で翌7月19日に北海道岩内町大会(テレビ未収録)を開催した。レギュラー放送におけるデスマッチ中継かつ北海道で行われた試合の収録も、8月25日放送のシリーズ最終戦札幌中島スポーツセンター大会(7月25日開催)をもって打ち切られた。最終戦翌日である同年7月26日には、埼玉県大宮市にあった国際プロレス道場にタクシーが突っ込んで道場が全焼し、国際プロレスは自前の道場を失った。本シリーズ放送期間中には、1980年10月から放送時間をかつて『全日本プロレス中継』を放送していた時間帯である土曜20:00 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20:54へ変更することが決定した。さらに、前述の通り本シリーズから各大会とも1週のみでの放送となったことに伴い、国際プロレス道場が全焼した2日後の1980年7月28日は蔵前国技館で行われた大熊正二VS金性俊のWBC世界フライ級王座戦の実況生中継のため、札幌大会の録画中継の翌週である同年9月1日・9月8日は特別番組放送のためそれぞれ休止となった。原のスランプや草津の離脱、外国人選手の相次ぐ参戦キャンセルにより、同年9月14日開幕の「第1次ダイナマイト・シリーズ」以降の中継はIWA世界ヘビー級王者の木村、インターナショナル・ヘビー級王者の大木、IWA世界タッグ王者の井上&浜口が支えざるを得なくなった。また、「第1次ダイナマイト・シリーズ」以降における中継は、1977年4月シリーズである「1977ダイナマイト・シリーズ」以来本州(甲信越地方と北陸地方を除く)で行われた大会のみとなった。開催自体が1980年秋の番組改編に当たる「'80ダイナマイト・シリーズ」(第1次・第2次)自体も、月曜20時台最後のシリーズとなった第1次は、番組収録が行われた開幕戦の後楽園ホール大会(9月15日に録画中継)と9月20日開催の第6戦静岡県焼津スケートセンター大会(9月22日に録画中継)以外、前半を東北地方のみで、焼津大会を挟んだ後半を九州地方のみでサーキットを組んだほか、土曜20時台での放送となる第2次は、近畿・中国・北陸中心でそれぞれサーキットを組むことになった。開始当初からの低視聴率に加え、「'79ダイナマイト・シリーズ」以降は国際プロレスや番組自体が悪循環に陥ったことから、最終的に「'78ビッグ・チャレンジ・シリーズ」から続けてきた巻き返し策も功を奏しなかった。1980年9月22日に放送された「第1次ダイナマイト・シリーズ」焼津大会の録画中継(当日のメインは大木VSビル・ドロモのインターナショナル・ヘビー級選手権試合)をもって、6年間続いた月曜20時台の放送が終了した。前述の鹿屋大会で行われた木村VSキラー戦は、東京12チャンネルとしては初のデスマッチ中継となり、『TWWAプロレス中継』時代に封印されていた金網デスマッチの中継も3年10か月ぶりに復活した。金網デスマッチの中継に関しても基本的に録画中継で放送され、凶器攻撃や金網に乱打していた場合は「凄惨な場面ですので、放送をご容赦くださいませ」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。映像カットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなく通常の試合映像に戻っていた。また、『TWWAプロレス中継』時代同様に、番組収録が行われた会場では放送スケジュールや放送尺の関係上デスマッチを未収録とすることもあった他、番組収録が行われない会場でデスマッチを行ったこともあった。木村がデスマッチで行ったIWA世界ヘビー級王座の防衛戦は、1976年まではテレビ未収録会場で行われることが多かった。1977年はデスマッチ中継は行われなかった。『月曜スポーツスペシャル』枠で放送された木村VSキラー戦以降、約1年間はデスマッチ中継は放送されなかった。レギュラー放送におけるデスマッチ中継初回は、1975年8月4日放送の「'75ビッグ・チャレンジ・シリーズ」大宮スケートセンター大会(6月8日開催)における木村VSカマタの金網デスマッチの録画中継であった。この金網デスマッチは当初は予定されていなかったが、当日のメインイベントである木村&寺西VSカマタ&デューク・サベージ戦において、試合に敗れたカマタが木村を挑発し、木村が挑発に乗ったためメインイベントの後に急遽開催したという。また、放送当日の新聞のラテ欄にも木村VSカマタは記載されていなかった。主要タイトルにおけるデスマッチ初放送は、IWA世界タッグ王座戦が1975年12月8日放送の横浜文化体育館におけるザ・コンバット(ピエール・マーチン&マイク・マーテル)VS井上&草津戦(12月2日開催)、IWA世界ヘビー級王座戦が1976年8月16日放送の越谷市民体育館における木村VSスーパー・アサシン(ロジャー・スミス)戦(7月31日開催)、WWU世界ジュニアヘビー級王座戦が1979年11月12日放送の弘前市民体育館における原VSジョー戦(11月7日開催)であった(いずれも金網デスマッチでかつ録画中継、草津・井上はコンバット戦がデスマッチ初放送となった)。木村・草津・井上以外の所属選手が行ったデスマッチ中継初回は、大位山勝三が1978年5月1日放送の「'78スーパー・ファイト・シリーズ」岡山武道館大会(4月26日に開催で録画中継)におけるジョー戦(金網デスマッチ)、浜口が1979年6月11日放送の「'79ビッグ・チャレンジ・シリーズ」焼津スケートセンター大会(5月9日開催で録画中継)におけるジョー戦(金網デスマッチ)、原が同年7月9日に実況生中継された「'79ビッグ・サマー・シリーズ」宮城県スポーツセンター大会におけるテキサス・アウトロー(ボビー・バス)戦(チェーン・デスマッチ)であった。その後も金網デスマッチやチェーン・デスマッチなどの各種デスマッチは中継された。「'78ダイナマイト・シリーズ」で行われた木村VSベーカーの「デスマッチ3番勝負」(1978年9月25日に高岡市民体育館における金網デスマッチ、同年10月4日に札幌中島スポーツセンターにおけるチェーン・デスマッチ、同年10月13日に茨城県常陸太田市民体育館におけるテキサス・デスマッチ)も1978年10月2日 - 10月23日に3週連続で放送されたと同時に、『TWWAプロレス中継』では放送されなかった木村VSベーカーのデスマッチ中継が初めて実現した。1978年10月16日の札幌大会の録画中継当日の新聞のラテ欄には、ノンタイトル戦で行われたにもかかわらず、「IWA世界選手権 木村VSベーカー」と誤記されていた。1979年6月11日には前述の焼津大会を、浜口VSジョーの金網デスマッチの他にも、木村VSブルックスのIWA世界ヘビー級王座戦(途中からチェーン・デスマッチに変更)も放送し、デスマッチ中継では初の2本立てで録画中継した。前述の「'79ビッグ・サマー・シリーズ」仙台大会では、原VSアウトローとのチェーン・デスマッチの他にも、木村&草津VSスミルノフ&ベーカーの金網タッグ・デスマッチも実況生中継され、国際プロレス中継におけるデスマッチ中継では唯一の実況生中継となった。木村と草津が行ったデスマッチ中継はこの仙台大会が最後となり、以降のデスマッチ中継は井上・浜口・原の試合中心で放送された。このシリーズでは仙台大会の他にも、6月23日に後楽園ホールで行われた木村VSベーカーのチェーン・デスマッチも7月2日に、仙台大会の翌日の7月10日に宮城県涌谷町農村勤労福祉センターで行われた外国人選手同士では初のデスマッチであるスミルノフVSベーカーのチェーン・デスマッチ(IWA世界ヘビー級挑戦者決定戦)も7月16日に、7月17日に北海道中川町立中川中学校体育館で行われた原VSベーカーのチェーン・デスマッチも7月23日にそれぞれ録画中継され、4週連続でデスマッチが中継された。前述の岡山大会における大位山VSジョー戦は、『TWWAプロレス中継』時代の1974年1月26日・2月2日放送の岡山武道館大会(1月12日開催)以来、4年3か月ぶりに中国地方で行われた大会における国際プロレスの実況中継となった他、前述の高岡大会における木村VSベーカー戦は初めて北陸地方で行われた大会における国際プロレスの実況中継となった。この時期から、国際プロレスはデスマッチでしか観客を呼べない状態に陥ってしまう。北海道の他にもデスマッチ中継を以って番組収録自体が打ち切られた地域があり、富山県で行われた試合の番組収録は、1979年5月7日放送の「'79ビッグ・チャレンジ・シリーズ」高岡大会(4月21日開催、メインは金網デスマッチで行われた木村VSスーパースター・ビリー・グラハムのIWA世界ヘビー級王座戦)をもって、甲信越地方で行われた試合の番組収録は、同年11月26日放送の「'79デビリッシュ・ファイト・シリーズ」長野県諏訪市諏訪湖スポーツセンター大会(11月14日開催、メインは金網デスマッチで行われた井上&浜口VS上田&ヤス・フジイのIWA世界タッグ王座戦)をもってそれぞれ打ち切られた。レギュラー放送におけるデスマッチ中継は、前述の「'80ビッグ・サマー・シリーズ」札幌大会における井上&浜口VSヒューバー&ブリューワーのIWA世界タッグ王座戦(金網デスマッチ)の録画中継が最後となった。これに伴い、土曜20時台への放送時間変更後はデスマッチ中継は事実上封印された(後述)。レギュラー放送終了後の特番枠では1981年9月17日放送の「'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ」後楽園大会(5月16日開催)におけるポール・エラリング&テリー・ラザンvs井上&原のIWA世界タッグ王座戦(金網デスマッチ)のみ放送された。最終的にデスマッチの生中継や番組収録が行われた大会は、北海道、青森県、宮城県、秋田県、茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県、長野県、静岡県、富山県、岡山県、鹿児島県で行われた大会であった(詳細は下表参照)。岡山武道館と高岡市民体育館からの録画中継は、収録した2回ともデスマッチを放送している。月曜20時台時代には、岩手県、福島県、栃木県、愛知県、岐阜県、大分県の6県で行われた一部のテレビ中継でも金網デスマッチ(「第6回IWAワールド・シリーズ」豊橋大会の浜口VSキューバン・アサシン2号、1977年4月18日開催の「1977ダイナマイト・シリーズ」栃木県小山ゆうえんち大会〈4月25日に録画中継〉の鶴見五郎VSチン・リー、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」盛岡大会の稲妻VSマスクド・アタッカー〈ジョン・フォーリー〉、「'79新春パイオニア・シリーズ」大分大会の井上VSキューバン・アサシン1号、1979年3月6日開催の「'79スーパー・ファイト・シリーズ」岐阜市民センター大会〈3月12日に録画中継、当日のメインは井上&浜口VSザ・サモアンズ〈アファ・アノアイ&シカ・アノアイ〉のIWA世界タッグ王座戦〉の草津VSジャック・クーガー、同年3月26日開催の「'79スーパー・ファイト・シリーズ」福島県原町市体育館大会〈4月2日に録画中継、当日のメインは木村VSジョン・トロスのIWA世界ヘビー級王座戦〉の鶴見VSクーガー)が行われたものの、6試合とも未放送となった。主力選手の寺西、後に国際プロレス最後の金網デスマッチを行いかつ国際プロレスの最後のメインイベンターを務めた鶴見、日本陣営で活躍した稲妻、「'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ」をもって国際プロレスを退団した田中は番組収録が行われた会場でデスマッチを行ったものの、デスマッチ中継には最後まで登場しなかった。1980年10月4日から土曜日20:00 - 20:54に移動した。土曜20時台移動後の初回は同年9月28日に開幕した「第2次ダイナマイト・シリーズ」第6戦滋賀県近江八幡市立運動公園体育館大会の生中継。IWA世界タッグ選手権(浜口&井上VSスミルノフ&ザ・USSR〈チャーリー・フルトン〉)・インターナショナル・ヘビー級選手権(大木VS上田)・IWA世界ヘビー級選手権(木村VSビッグ・ジョン・クイン)の3大タイトルマッチで、90分スペシャルで放送されたが、大木が日本プロレス時代から保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に関しては、日本プロレス崩壊後における日本での防衛戦はNWA非加盟の国際プロレスで行っていたため、後にNWAや全日本プロレスから抗議を受け、近江八幡大会が国際プロレスにおける最後の防衛戦となった。この時期からマッハ隼人をテレビ中継に登場させ、隼人の仲介でカルロス・プラタなど、メキシコのEMLLからも選手を招聘してテコ入れを図るが、移動後は「第2次ダイナマイト・シリーズ」のポスターに謳われていた「大躍進」とは裏腹に、土曜20時台時代の『全日本プロレス中継』同様、20%以上の視聴率を叩き出していた裏番組『8時だョ!全員集合』(TBS)の影響で視聴率は改善されないばかりか、「'80ダイナマイト・シリーズ」(第1次・第2次)自体も前年よりも5戦削減され(第1次は全9戦、第2次は全11戦で開催)、「第1次ダイナマイト・シリーズ」最終戦に予定され、かつ同年9月26日に開催予定だった鹿児島県指宿市大会が中止となり(「第1次ダイナマイト・シリーズ」最終戦は9月25日に鹿児島県立体育館〈テレビ未収録〉で開催)、同年10月2日に開催予定だった「第2次ダイナマイト・シリーズ」山口県下関市体育館大会も中止となった。さらに同年10月18日は宮城県スポーツセンターで開催された大熊正二VS朴賛希のWBC世界フライ級王座戦の実況生中継のため休止となった。1980年11月1日開幕の「'80デビリッシュ・ファイト・シリーズ」は、全日本プロレス「'80世界最強タッグ決定リーグ戦」とは開催日程が重複しなかったものの、「第2次ダイナマイト・シリーズ」から継続参戦していたスミルノフと2度目の国際参戦となったクラップを外国人エースの2大看板として、前年よりも10戦削減した全20戦で開催された。しかし、同時期に開幕した全日本プロレスの「'80世界最強タッグ決定リーグ戦」(本番組の2時間30分前に『全日本プロレス中継』において放送)には、ブッチャー、ザ・シーク、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)、そしてかつて国際に参戦していたカマタ、ロビンソン、ボックウインクルが来日し、新日本プロレスも同時期にアンドレやシン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、ボブ・バックランドなどの豪華外国人選手を招聘して「第1回MSGタッグ・リーグ戦」を開催するなど、質と量の両面において、他団体との外国人選手の差は歴然としていた。番組自体も3回も特別番組による放送休止となり、さらには救世主として期待されていた大木も、同年11月11日開催の三重県四日市市体育館大会(11月15日に録画中継)と翌11月12日開催の岐阜市民センター大会(11月22日に録画中継)の2日連続収録の3日前である同年11月8日開催の新潟県新井市民体育館大会(テレビ未収録)をもって、東京12チャンネルから契約解除されて退団。「'80デビリッシュ・ファイト・シリーズ」全日程終了後の1980年12月13日に、新日本の「第1回MSGタッグ・リーグ戦」東京都体育館大会で行われた木村VS小林のIWA世界ヘビー級王座戦も、本番組や『ワールドプロレスリング』では放送されることはなかった。「'80デビリッシュ・ファイト・シリーズ」の同年12月放送分は、12月20日放送の和歌山県新宮市立総合体育館大会(11月22日開催、メインは木村VSスミルノフのIWA世界ヘビー級選手権)と12月27日放送の千葉公園体育館大会(11月27日開催、メインは浜口&井上VSプラタ&エル・ドーベルマンのIWA世界タッグ選手権)のみが、収録から1か月後に放送されるといった有様だった。前述の放送時間変更前後は、選手不足や興行数の削減、興行自体のキャンセル、視聴率のさらなる悪化に加え、前述のレギュラー中継におけるデスマッチ中継封印も相まって、国際プロレスや番組は末期症状を呈することになった。1981年に入ると、起死回生の策として「第2次ダイナマイト・シリーズ」に来日したテーズから寄贈されたベルトを争奪する「ルー・テーズ杯争奪戦」を「'81新春パイオニア・シリーズ」と「'81スーパー・ファイト・シリーズ」の2シリーズで開催。「'81新春パイオニア・シリーズ」ではテーズが来日し、同年1月10日から2月21日まで放送休止なしで放送したが、起死回生策とはなることはなかった。東京12チャンネルは「'81新春パイオニア・シリーズ」放送期間中に、レギュラー放送を1981年2月27日に全17戦の日程で開幕する「'81スーパー・ファイト・シリーズ」をもって打ち切ることを決定した。レギュラー放送最後のシリーズとなった「'81スーパー・ファイト・シリーズ」は、開幕戦の横浜文化体育館大会と3月3日開催の第4戦愛知県体育館大会、3月21日開催の第14戦越谷市民体育館大会(越谷市民体育館は本番組が開始した1974年から1980年まで毎年テレビ中継を行っていた)の3大会はテレビ中継から外されることになった。これに伴い、政令指定都市に所在す

出典:wikipedia

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