ボルハ・バレロ(Borja Valero Iglesias, 1985年1月12日 - )は、スペイン・マドリード出身のサッカー選手。セリエA・ACFフィオレンティーナ所属。ポジションはミッドフィールダー。レアル・マドリードの下部組織出身で、2006年10月25日のコパ・デル・レイ・エシハ・バロンピエ戦でハビ・ガルシアとの途中交代でトップチームデビューした。2006年12月6日にはUEFAチャンピオンズリーグのアウェーでのディナモ・キエフ戦にミゲル・アンヘル・ニエトとの交代で出場した。しかし、2005年からの2年間はレアル・マドリードBでのセグンダ・ディビシオン(2部)の出場がほとんどだった。2007年8月、5年契約でRCDマジョルカに移籍した。2008年3月9日、7-1と大勝したレクレアティーボ・ウェルバ戦で初得点した。4月5日、古巣のレアル・マドリード相手に得点を決めて1-1の引き分けに持ち込んだ。5月11日、カンプ・ノウでのFCバルセロナ戦では2点を先行されながらバレーロの得点で反撃の狼煙を上げ、最終的に2-3での大逆転勝利を飾った。2008年8月22日、FLチャンピオンシップ(2部)の優勝チームでプレミアリーグ(1部)に昇格したばかりのウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCに4年契約で移籍した。RCDマジョルカとは親善試合で対戦したばかりで、700万ユーロ(470万ポンド)の移籍金はウェスト・ブロムウィッチのクラブ史上最高額だった。フットボールリーグカップのハートリプール・ユナイテッドFC戦でデビューした。主にトップ下として30試合に出場したが得点はなく、チームは20位で1シーズンでのFLチャンピオンシップ降格が決まった。2009年夏の移籍期間が閉まる直前に古巣のRCDマジョルカにレンタル移籍した。RCDマジョルカはフアン・アランゴやホセ・マヌエル・フラドなどを放出しており、攻撃的ミッドフィールダーを探していた。RCDマジョルカではプレースキックを担当し、2010年4月19日のCAオサスナ戦などでアシストを記録し、自身も5得点を決めたが、そのうち3得点は0-1の劣勢から1-1の引き分けに持ち込む同点ゴールである。3月27日のFCバルセロナ戦では正面からのフリーキックをポストに当て、惜しくも得点はならなかった。リーグ戦33試合・コパ・デル・レイ5試合に出場し、クラブのリーグ5位躍進に貢献した。活躍が認められ、このシーズンのスペイン人最優秀選手に選ばれた。400万ユーロを支払えば完全移籍で買い取れる契約であったが、財政難のRCDマジョルカはその金額を支払えず、シーズン終了後にWBAに戻った。5月16日、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督がバレーロ獲得を希望していると報道された。2010-11シーズンはビジャレアルCFへ移籍。同クラブでは2シーズンで71試合出場、8得点をあげ中心選手として活躍した。2012年にクラブが降格することを受け移籍することになった。2012年8月3日、フィオレンティーナに700万ユーロの移籍金で移籍。移籍初年度からレギュラーとして活躍し、ヴィンチェンツォ・モンテッラ監督の元でアルベルト・アクィラーニとダビド・ピサーロと組む3センターハーフはイタリアのスポーツ紙ガゼッタ・デロ・スポルト等に「セリエA最高の中盤」と評され、このシーズンのフィオレンティーナのポゼッションサッカーを支えた。出場試合数はリーグ戦37試合とチーム内で1位、セリエA全体としてもフィールドプレイヤーでは最も多くの時間出場した選手の1人であった。2014年7月15日には2019年までの契約延長が公式に発表された。2015-16シーズンにはセリエAでの出場試合数が100試合に達し、バレロ自身にとってフィオレンティーナが最も多くリーグ戦に出場した所属クラブとなった。2004年に出場したUEFA U-19欧州選手権では決勝のトルコ戦でロスタイムに決勝点を決め、優勝に大きく貢献した。2011年6月4日のアメリカとの親善試合で途中出場してA代表デビューを果たし、フェルナンド・トーレスの得点をアシストした。「グティ2世」と呼ばれることもある。
出典:wikipedia
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