荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)。インドのヒンドゥー教のヤクシュニー(半女神)に由来する。「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー()を音訳したものである。また、荼吉尼天、吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。一般に白狐に乗る天女の姿で表され、剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族をさす名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになる。稲荷信仰と習合し、今日、寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とする。インドでダーキニーは、魔術により強風を起こし、虚空を飛ぶ魔女として登場する。魔術の儀式では、人間の心臓がバイラヴァ(シヴァの畏怖相)への供物に使われる。ヒンドゥー神話ではカーリーの眷属とされ、カーリーに付き従って屍林をさまよい、敵を殺し、その血肉を食らう女鬼・夜叉女となっている。また、ドゥルガーとその分身の七母神(サプタ・マートリカー)の侍女であるヨーギニーとは同一視されることも多い。民間の信仰ではダーキニーを、妊娠中、出産時、事故、自殺など不幸な死を遂げた女性の霊とする地方もある。生きている女性に取り憑き害をもたらす。ダーキニー(荼枳尼)は後に仏教に取り入れられる。初期密教では羅刹女の類であり、荼枳尼の害を除くための呪文などが説かれている。また、人間と獅子との間に生まれた子が、荼枳尼や荼伽(ダーカ・男のダーキニー)となり、初めは鳥獣を、後には人肉を食うようになったとの話も見られる。中期密教では大日如来(毘盧遮那仏)が化身した大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許可されたという説話が生まれた。大黒天は屍林で荼枳尼を召集し、降三世の法門によってこれを降伏し仏道に帰依させた。そして「キリカク」という真言と印を荼枳尼に授けたとされる。自由自在の通力を有し、6ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとってこれを食べるといわれる。人間の心臓には「人黄」という生命力の源があり、それが荼枳尼の呪力の元となっているのである。平安初期に空海により伝えられた真言密教では、荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている。半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿であるが、後の閻魔天曼荼羅では薬袋らしき皮の小袋を持つようになる。さらに時代が下ると、その形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼“天”と呼ばれるようになる。また、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)、貴狐天皇(貴狐天王、きこてんのう)とも呼ばれる。中世になると、天皇の即位灌頂において荼枳尼天の真言を唱えるようになり、この儀礼で金と銀の荼枳尼天(辰狐)の像を左右に祀るという文献も存在する。また、平清盛や後醍醐天皇の護持僧・文観などが荼枳尼天の修法を行っていたといわれ、『源平盛衰記』には清盛が狩りの途中で荼枳尼天(貴狐天皇)と出会い、この修法を行うか迷う場面が記されている。ただし、『源平盛衰記』はあくまでも後世に書かれた文学作品であり、清盛が実際に荼枳尼天の修法を行っていたとする根拠はない。この尊天は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もしその約束を破ると、その修法を止めた途端に没落する、あるいは災禍がもたらされるとも考えられていた。したがって、これは外法として考えられることもある忌まれる信仰でもあった。荼枳尼天の修法を外法と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人の有けるに」との記述がある。狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。なお、狐と荼枳尼の結びつきは既に中国において見られるが、狐(野干)に乗る荼枳尼天の像というのは中世の日本で生み出された姿であり、インド・中国撰述の密教経典・儀軌には存在しないものである。戦国時代には、各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀るようになる。武将たちの生命のかかった城に祀られる稲荷は、怨敵退散を祈願し闘戦に勝利するため荼枳尼天が大部分だったと考えられている。現在でも、久保田城跡(秋田県)、小諸城跡〈長野県)、浜松城跡(静岡県)など、城跡で稲荷社の祭祀が続けられる所は少なくない。近世になると荼枳尼天は、伏見稲荷本願所(愛染寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)、王子稲荷(別当 金輪寺)のように、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰される。俗に荼枳尼天は人を選ばないといわれ、誰でも願望を成就させると信じられたため、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めた。明治政府が成立すると神仏分離政策を受け、それまで全国の寺社に荼枳尼天を勧請していた愛染寺は廃寺となり、伏見稲荷で荼枳尼天を祭祀することは途絶えた。また荼枳尼天を祀っていた稲荷社も多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となった。しかし豊川稲荷や最上稲荷など神仏分離を免れた寺院もあり、その後は一度廃れた鎮守稲荷を復興したり、新たに勧請する寺院も現れ、現在にいたっている。なお豊川稲荷では荼枳尼天を祈祷の本尊として大般若経転読が、最上稲荷では同じく木剣加持が行われているが、これは中世に外法と呼ばれた修法とは全く別のものである。荼枳尼天は後々に性愛を司る神と解釈されたため、日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、真言密教立川流という密教の一派が次第に形成され興隆を極めたが、これは荼枳尼天を祀り髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされている。立川流はこれを理由として邪教視され、江戸時代にはついに途絶えたという。インドの後期密教においては、タントラやシャクティ(性力)信仰の影響で、裸体で髑髏(どくろ)などを持つ女神の姿で描かれるようになっていった。ダーキニーは修行では中心的な護法神であり、秘密集会タントラではダーキニーとの性交を瞑想する性的なヨーガが詳細に説かれている。行者は智慧の象徴であるダーキニーと交わりグヒヤサマージャ(秘密集会)と化し、性行為による刹那的な快楽を、仏の境涯に至る倶生の大楽にまで高める。後期密教を取り入れたチベットでは、ダーキニーはカンドマ(空行母)とも呼ばれ重要な位置を占める。無上瑜伽タントラの曼荼羅では、中尊であるヘールカ(守護尊)と明妃であるダーキニーとが交わる父母仏が描かれ、中尊の周囲にも眷属的なダーキニーが配される。それらの中には鳥獣頭を持つものもある。また、埋蔵経典の『死者の書』にも多くのダーキニーが登場する。代表的なものとしては、チャクラ・サンヴァラ(最勝楽)の明妃ヴァジュラ・ヴァーラーヒー(金剛亥母)、ヘーヴァジュラ(呼金剛)の明妃ナイラートマー(無我女)、カーラ・チャクラ(時輪金剛)の明妃ヴィシュヴァ・マーター(一切母)などである。中でも猪の面を側頭部に持ち、そこから発する鋭い叫び声で幻影を打ち砕くというヴァジュラ・ヴァーラーヒーは単独でも多く信仰される。ヴァジュラ・ヴァーラーヒーはチベット語ではと言い、その生まれ変わりといわれる女性活仏の名ともなっている。現在はドルジェ・パンモ12世である。
出典:wikipedia
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