片平 晋作(かたひら しんさく、本名:片平 伸作(読み同じ)、1949年8月5日 - )は、大阪府大阪市港区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・監督、解説者。上宮高等学校2年時から王貞治に憧れて一本足打法を始め、卒業後は東京農業大学に進学。東都大学リーグでは二部リーグに留まったが、大型の左打者として評価が高く、1971年のドラフト4位で南海ホークスに入団。184cmの長身で「ダンディー」というニックネームがつく。1年目のは古葉竹織二軍守備・走塁コーチから指導を受け、同年10月15日の近鉄戦(藤井寺)で初出場。2年目のに頭角を現し、シーズン後半には六番・左翼手に抜擢される。翌から登録名を片平 晋作に、背番号も22から25に変えると、王そっくりの一本足打法で一躍有名になる。一本足打法だけでなく、ユニフォームの着こなしまでそっくりそのまま真似していた。王本人が気温が高くなる時期にアンダーシャツを長袖から半袖に変えると、片平自身も一日の狂い無く半袖に変えていたくらいであった。同年は新入団のロン・ロリッチと併用され、50試合に先発出場。はわずか39試合の出場に終わるも、には指名打者、一塁手としてレギュラーに定着。初の2ケタとなる12本塁打を放つ。ところがにバセドウ病を発症、柏原純一にレギュラーを奪われ、出場試合数が44試合と激減し、本塁打0に終わる。はあわや練習生の危機もあったが克服し、柏原の日本ハムへの移籍により一塁手の定位置を小田義人と争う。にはレギュラーを確保、初めて規定打席に達し、リーグ5位の打率.329を残す。には21本塁打をマークした。低迷する南海の中で、門田博光、新井宏昌、定岡智秋、河埜敬幸らと共に主力打者として活躍していたが、に根本陸夫管理部長の強い要望で、キャンプ前に山下律夫、山村善則と2対2のトレードで黒田正宏と共に西武ライオンズに電撃移籍。田淵幸一を指名打者に追いやり、一塁手の定位置を獲得、勝負強い打撃で、の連続日本一に貢献、守備面でも1983年にダイヤモンドグラブ賞を受賞した。に清原和博が入団。同じ一塁手であったため同年は指名打者に回り、打率.292、17本塁打と好成績を残す。、南海入団当時の守備コーチだった古葉竹識が監督をつとめる横浜大洋ホエールズに、広瀬新太郎との交換トレードで永射保と共に移籍した。大洋でも1年目には一塁手の定位置を獲得し、打率.298、13本塁打を記録するが、翌には新入団のジム・パチョレックにポジションを譲る。しかしその後も代打の切り札として活躍し、持ち味の長打を十分発揮した。は打撃コーチ兼任となり、同年を最後に引退。40歳まで現役であった。西武時代のから大洋に移籍した1987年にかけて、3年連続開幕戦本塁打もマークしている。引退後は西武に戻り、一軍打撃コーチ( - )・二軍打撃コーチ(・二軍監督( - , - )・編成部長( - )を歴任。コーチ時代は鈴木健、二軍監督時代(1期目)には小関竜也を育てた。2期目には二軍の試合の内容と結果、個々の選手の状態などを自分でパソコンに打ち込み、メールで大石友好一軍チーフコーチに送っていた。からTwellV プロ野球中継・J SPORTS(共に西武戦)の解説者を務め、2010年10月9日のクライマックス・パ ファーストステージ『西武VSロッテ』第1戦(西武ドーム)ではテレ玉の中継に出演。2012年から西武主管試合のCS放送が朝日ニュースターに移行したため、同チャンネルのプロ野球専属解説を担当。2013年には解説者として活動する傍ら、日本女子プロ野球機構のイースト・アストライア初代監督に就任。この年に始まった「ティアラカップ」でチームを優勝に導いたほか、チームから多数の表彰選手を輩出したが、1年で退任。
出典:wikipedia
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